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どろ沼




 シエナは鼻を啜るとようやく真っ赤になったままの顔を上げてエリックを見た。エリックはほほ笑み返すと立ち上がった。


 風はもうすっかり止んでいた。雪も静かに舞い降りている。


「落ち着いたようだね。素敵な話ができて良かったよ。ありがとう」


 気づくとエリックは、茶色いコートを掴んでいた。


「じゃあ、僕はそろそろ行くことにするよ」


「まだ雪は降ってるし、お店の中は暖かいけれど、外はまだ寒いと思うの。あと一つ、一つだけ話をしてからでも遅くないと思うの」


 魔法の話でも動物の話でもいいから、と言いかけたものの声はだんだんと小さくなって消えた。けれど、エリックにはしっかり届いていたようで、にっこりと笑って頷いた。


「いいよ。あと一つだけ話そう。もう少し温まっていたいからね」


 エリックは再び向かいの席に座った。


 毛糸の帽子を弄びながら話し始める。


「望めば何にだってなれる。それは本当さ。人は物語りの力を借りて姿を変えることができるんだ。僕はそんな人間のことが大好きさ。けれど、最期はこの世で一番嫌いなものの話をしよう! それは村はずれのどろ沼の中で生まれた。僕にも嫌いなものがあるんだよ」




 村の名前は知らない。ただ、村がどれほど貧しく、住人がどれほど夏の病や冬の飢えに苦しんだかは知っている。


 村はずれには、どんよりとした空気をまとうどろ沼があった。村人たちはこの沼がよくないものを風にのせて運んでくるのだと思っていた。人々はこの不吉な沼を埋めてしまおうとした。しかし、いくら土を投げいれようと沼は次々と呑み込んでしまうのだった。


 夏になって病魔がやって来た。人々は病に倒れて死んでいった。亡骸は焼かれ、灰は沼に捨てられた。


 濁ったどろの中に突如何かが目を覚ました。いつからいるのか、それとも最初からそこにいたのかはわからない。“それ”はあるはずのない目で初めて人を見た。村人に追い立てられて沼の縁に立ったのは、ひどく痩せた娘だった。


 村人はみすぼらしい娘に言った。最初に病人が出たのはお前の家だった、と。お前がまだ病に侵されていないのは、この沼から悪しきものを運んだ犯人であるからだ、と。


 娘は村人たちを睨み返した。


「喜んで沼に沈んでやるとも! あたしは無実だもの。あんたたちは知らないんだわ。暗い沼底には黄金の扉があるのよ。罪なき者はそれを通って生まれ変わることができるもの。ちっとも怖くないわ。天使にだってなれるもの。あんたたちはそうやって無実の人を沈めて苦しみ続けるといいのよ! 」


 言い終えると娘は両手を広げて、自ら沼へ飛び込んだ。


 真に受けるものではない、追い詰められた者の戯言だと老人が言った。村人たちは頷いた。


 しかし数日後、何人かの村人が各々生まれ変わりたいものの名を口にして沼に飛び込んだ。その後も沼に飛び込む者は後を絶たなかった。


 沼の中の“それ”そんな扉があるのかと驚いて探したが、何も見つかりはしなかった。どろの中はただただ暗く、どこまでが沼でどこからが沼底なのか“それ”自身にも知れなかった。“それ”はどろの中でいることが嫌になった。


 “それ”は自身に尋ねた。なぜ、自分はありもしない扉を探したのだろう? “それ”は答えた。村人たちが飛び込んだからだ。なぜ、彼らはそうしたのだろう? 娘が言ったからだ。生まれ変わることができると。天使にもなれるのだと。言葉はまったくの嘘に違いなかったが、“それ”は何度も娘の言ったことを自分の中で繰り返した。すると、やはり本当のことのように思えてくるのだった。そして、娘の言ったことがすばらしく思えてくるのだった。“それ”は美しい天使になった娘を思い浮かべた。娘から溢れ出た声は、時おり見かける動物たちの鳴き声とは違った力を持っていた。


 “それ”も娘のように、何かを言いたくなった。しかし、口もなければ喉もなかった。“それ”は人間になりたくなった。


 思いは強くなり、ついに手を突出してようやく外へと這い上がると、沼の縁に歪んだ人影をつくって起き上がった。“それ”は体を傾がせながら人を真似た足取りで村へと向かった。


 生き残った村人はわずかになっていた。


 “それ”は捨て置かれた死体にまとわりつき一体となった。死体は重く、軽々とは歩けはしなかったが、人間に近づいた気がした。やがて、生きた人間を見つけた。“それ”はもっと人に近づきたくなって、その人間にまとわりついた。人間はもがいて抵抗したがやがて静かになった。“それ”は生きた人間とそっくりに姿を変えることができた。温かい血の流れる喉をようやく手に入れて口を開けたが、何を言っていいのかわからなかった。“それ”は黙ったまま村をさまよった。


 しばらくすると、死体の前で泣き崩れる男を見つけた。男は弱々しい声で呟いていた。


「君がいなければ、どれほどの価値がこの世に残る? 君がいなければ……」


 痺れるような胸苦しさを感じ“それ”は同じ言葉を呟いていた。何かが違う。この男が言ったものでないと意味がないのだ。“それ”は男を呑みこんだ。どろが乾いてまた男そっくりの“それ”が現れる。同じ言葉を繰り返してみる。しかし、あの胸苦しさを手に入れることはできなかった。


 “それ”は村を歩いて回った。村中のあらゆる人間を喰い、あらゆる言葉を口にしてみた。だが、どれほどの人間を呑みこんでも、あの娘に感じた強い輝き、あの男に感じた胸苦しさを手に入れることはできなかった。全ては“それ”の中で消え失せてしまうのだった。


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