勇者、ケットシーパンの愛らしさに敗北する
米粉パンの一件から、しばらく経った頃。
始まりの村ココットのパン屋では、今日も朝から忙しくパンが焼かれていた。
「いらっしゃいませー!」
サッシャの低く渋い声が店内に響く。
「サッシャさん、今日のおすすめは?」
「この前から試作していた新作がある」
「本当!?」
村人たちが一斉に棚を見る。
しかし──
「……あれ?」
「何かいる」
「猫?」
「いや……」
棚の中央。
そこに置かれていたのは、丸くふっくらとしたパンだった。
尖った耳。
丸い顔。
つぶらな瞳。
そして、ちょこんと伸びた尻尾。
そして頭に王冠を乗せている。
「……ケットシー?」
誰かが呟いた。
ケットシー。
猫の姿をした魔獣をデフォルメした、可愛らしいパンだった。
「ケットシーパンだ」
サッシャが胸を張る。
「……かわいい」
女性客が呟く。
「かわいい……」
「食べるのがもったいない……」
「尻尾まである……」
「これ、絶対人気出るわ」
サッシャは満足そうに頷いた。
「中にはカスタードを入れてある」
「まあ!」
「絶対美味しい!」
その時。
──カラン。
「こんにちは」
銀髪の青年が入ってきた。
「お、ルシオン」
「今日も新作があるんですか?」
「ああ」
サッシャがケットシーパンを指差す。
「これだ」
「……」
ルシオンが固まった。
「……」
「どうした?」
「……ケットシーですね」
「そうだ」
「……可愛いですね」
「そうだろう」
サッシャは得意げだ。
「では、一つください」
「毎度あり」
ルシオンはケットシーパンを受け取った。
両手で持ち、正面から見る。
「……」
つぶらな瞳、尖った耳、ふっくらとした頬、得意気な顔。
なんとも愛らしい。
「……」
ルシオンは、パンを口元まで持っていく。
「…………」
止まった。
「……どうした?」
「いや……」
もう一度持ち上げる。
「……」
ケットシーと目が合う。
もちろんパンなので、実際には目など動かないのだが、
「…………」
どうしても、食べられない。
「ルシオン?」
「……」
「食べないのか?」
「食べます」
「なら食べろ」
「はい……」
ルシオンは覚悟を決めた。
「……いただきます」
口を開ける、ケットシーの耳へ歯が近づく。
「…………」
ピタッ。止まる。
「…………無理です」
「なぜだ」
「可愛すぎます」
「パンだぞ」
「分かってます!」
店内から笑い声が起こる。
「勇者様、ケットシーに負けてる!」
「魔獣を倒せるのに!」
「勇者様かわいい!」
「うるさいですよ!」
ルシオンの顔が赤くなる。
サッシャは腕を組んだ。
「ふむ……」
「何です?」
「お前、猫が好きなのか?」
「……好きですけど、というか動物全般好きですよ」
「そうか」
サッシャはケットシーパンを見る。
「なら仕方ない」
「何がです?」
「別のところから食べろ」
「……」
「尻尾とか」
「尻尾は無理です!」
「耳は?」
「もっと無理です!」
「では顔か」
「一番無理です!」
店内が笑いに包まれる。
「勇者様、頑張って!」
「食べないとパンが冷めちゃうよ!」
「サッシャさん、新しいパン作ってあげたら?」
「そうだな」
「え?」
サッシャがケットシーパンを持ち上げる。
「顔を潰すのが嫌なら、顔のないケットシーにするか」
「それはもうケットシーじゃないですよ!」
また笑い声。
結局。
ルシオンはケットシーパンを食べることができなかった。
「……」
店を出たルシオンは、袋の中のケットシーパンを見る。
「……どうしよう」
食べたい。ものすごく食べたい。
サッシャのパンだから絶対美味しいはず。
でも、可愛い。
その葛藤を抱えたまま宿へ戻ることになった。
──その翌日。
カラン。
「いらっしゃいませ」
「サッシャさん」
「おう」
「昨日のケットシーパンなんですが」
「食べたか?」
「……まだです」
「まだか」
「でも、ちゃんと食べたいんです」
「なら今日食べろ、ダメになっちまう」
「……頑張ります」
サッシャは少し考えた。
「そうだ」
「?」
「お前に頼みたいことがある」
「何です?」
「新作の味見だ」
「……味見?」
「ああ」
サッシャは奥から小さな皿を持ってきた。
そこには、焼きたてのパンが三つ。
「これは?」
「試作品、これが塩パン、こっちはマーガリン入りのバターロール、こっちが木苺を練りこんだパンだ」
「全部新作?」
「ああ」
「……」
ルシオンの目が輝いた。
「僕が食べても?」
「お前なら味について正直に言うからな」
「……」
「甘すぎる、硬い、香りが弱い。そういうことを遠慮なく言ってくれ」
「……」
「今後は新作ができたらお前に食べてもらいたいと思ってる」
「……!」
ルシオンは胸を張った。
「任せてください!」
「頼む」
「勇者として──」
「パン屋の味見係としてだ」
「……はい」
こうして勇者ルシオンは、サッシャの新作パン味見係に昇級した。
「では、一つ目」
「いただきます」
ぱく。
「うん。美味しいです」
「二つ目」
ぱく。
「これは少し生地が甘すぎるかもしれませんマーガリンにはパン本来の味が合うかと」
「なるほどな」
「三つ目は……」
ぱく。
「香りは良いですけど、もう少し木苺の果肉を感じられると食感が良くなると思います」
「ふむ」
サッシャは真剣にメモを取る。
ルシオンも真剣だ。
「……なんだか楽しいですね」
「そうか?」
「はい」
「ならよかった」
その光景を見ていた村人が呟く。
「勇者様、すっかりパン屋の人だねぇ」
「本当ね」
「最初はずっとよそよそしい感じだったのにね」
「今じゃ新作パンの味見してるわよ」
「平和ねぇ」
本当に平和だった。
そしてその日の午後。
ルシオンは再びケットシーパンを手にしていた。
「……」
サッシャが横から見る。
「今度こそ食うのか?」
「はい」
「頑張れ」
「……いただきます」
ルシオンは目を閉じた。
そして──ぱくっ。
「……!」
耳を一口。
「……美味しい」
「そうだろう」
「……美味しいです」
ルシオンは少し寂しそうにパンを見る。
「でも……」
「何だ?」
「顔が……」
「まだ気にしているのか」
「だって……」
ルシオンはケットシーパンを見つめる。
「こんなに可愛いのに……」
サッシャはしばらく黙っていた。
「……次はもう少し可愛くするか」
「なぜ!?」
「お前がもっと困るだろう」
「サッシャさん!?」
店内に笑い声が響く。
こうして元魔王と勇者の距離は、また一つ縮まった。
そしてサッシャの店には、新たな常連が誕生した。
『新作パン味見係・勇者ルシオン』。
なお本人は、
「次の新作、何ですか?」
「まだ秘密だ」
「気になります!」
すっかり楽しみにしていた。




