紆余曲折の末ついに完成!米粉パン!
──それから、3週間。
「……駄目だ」
サッシャは、机の上に並べられたパンを見つめていた。
「また失敗ですか?」
隣でルシオンが呟く。
「ああ」
「これは?」
「硬い」
「こっちは?」
「硬い」
「じゃあ、これは?」
「……硬い」
「全部硬いじゃないですか」
「うむ」
サッシャは腕を組んだ。
机の上には、試作に試作を重ねたパンが並んでいる。
膨らまない。
崩れる。
焼きすぎる。
水分が多すぎる。
食感が妙にもちもちする。
もちもちしすぎて噛みちぎれない。
「米粉というのは、なかなか難しいな」
「でも、少しずつ良くなっていますよ」
「そうか?」
「最初の頃なんて、パンというより石でしたから」
「……そうだったな」
サッシャは遠い目をした。
最初に作った試作品は、焼き上がった瞬間から異様な硬さを誇っていた。
ルシオンが一口食べて、渋い顔をした。
「……歯が負けますね」
と言ったほどである。
「しかし」
サッシャは失敗作を眺める。
「諦めるわけにはいかん」
「はい」
その理由は、一人の子供だった。
パンが食べられない子供。
食べると蕁麻疹が出て、呼吸が苦しくなる。
その子のためにサッシャは、かつて妻のために卵を使わないパンを作った時と同じように、何度でも挑戦していた。
「……もう一度だ」
「付き合いますよ」
「すまんな」
「今さらですよ」
ルシオンは笑った。
「僕も、完成させたいですから」
そして、さらに数日。
「……どうだ?」
窯から取り出されたパン。
表面はこんがりと焼けている。
ふっくらしている。香りもいい。サッシャがそっと押してみる。
「……」
指が柔らかく沈み、ゆっくりと戻ってきた。
「……」
「……」
二人は顔を見合わせる。
「成功……ですか?」
「分からん」
「食べてみましょう」
「ああ」
サッシャが一つ割ると、中から白く柔らかな生地が現れた。
「……」
ルシオンが一口食べる。
「……!」
「どうだ?」
「美味しいです」
「本当か?」
「はい」
もう一口。
「外は香ばしくて、中は柔らかい」
「……」
サッシャは黙ってパンを見つめた。
「……できた」
小さく呟いた。
「できましたね」
「ああ」
サッシャは笑った。
「米粉パンだ」
──完成した。
小麦を使わず、米から作った粉を使ったパン。
もちろん、原材料や製造環境などには十分注意し、教会の治療師とも確認を重ねた。
そして今日、ついにその子供がパン屋へやってきた。
「……」
少年はサッシャの前に座っていた。
目の前には、焼きたての米粉パンだが、手を伸ばせない。
「怖いか?」
サッシャが優しく尋ねると、少年は小さく頷いた。
「……また、苦しくなったら……」
「無理に食べなくていい」
サッシャはそう言った。
「少しでも怖いなら、やめていい」
「……」
「ただな」
サッシャはパンを少年の前へ置いた。
「これは、お前が食べられるかもしれないパンだ」
「……食べられる?」
「ああ」
ルシオンも隣で見守っている。
「もちろん、まずは少しだけにしましょう」
「うん……」
少年は小さくパンをちぎった。
ほんの一口。
指先が震えている。
恐る恐るゆっくりと口へ運ぶ。
「……」
かじる。
もぐ。
「…………」
誰も何も言わない。
固唾を飲んで見守る。
少年は自分の身体を確認するように、胸元へ手を当てる。
「…………」
数秒。
「……苦しく、ならない」
少年の目が大きく開く。
「…………本当に?」
ルシオンが静かに頷く。
「ああ」
少年はもう一度パンを見る。
そして今度は、さっきより少し大きくかじった。
「……」
もぐもぐ。
「……美味しい」
ぽろり。少年の頬に一粒の涙が落ちた。
「……美味しい」
もう一粒。
「パンって……」
少年は泣きながら笑った。
「パンって、おいしいんだね……!」
その瞬間サッシャは何も言わなかった。
ただ、静かに目を閉じる。
その横顔には、長い年月を越えて蘇った記憶があった。
卵を食べられなかった、かつての妻。
初めて作ったパンを、美味しそうに食べてくれた彼女。
そして今、目の前でパンを食べて泣いている子供。
「……そうか」
サッシャはゆっくりと笑った。
「美味しいか」
「うん……!」
「なら、作った甲斐があったな」
少年はパンを両手で抱える。
「これ……もう一個食べてもいい?」
「もちろんだ」
「やった……!」
少年が嬉しそうに笑う。
ルシオンは、その光景を黙って見つめていた。
「……サッシャさん」
「ん?」
「僕、あなたを誤解していたかもしれません」
「何だ、突然」
「あなたは確かに魔王だった」
「ああ」
「でも──」
ルシオンは微笑む。
「今は、誰かに美味しいものを食べてもらうために必死になれる、ただのパン屋さんですね」
「……」
サッシャは少しだけ目を細めた。
「そういうことにしておけ」
「はい」
二人は笑った。
そしてその日。
始まりの村のパン屋に、新しい商品が加わった。
米粉パン。
小麦を食べられない人でも食べられる可能性を求めて作られた、サッシャ渾身の新作。
それは後に、村だけではなく周辺の町でも評判になっていく。
だがサッシャにとって一番嬉しかったのは、売り上げでも評判でもなかった。
「サッシャおじちゃん!」
「おう!」
「また米粉パン食べたい!」
「ああ。いつでも焼いてやる」
「ありがとう!」
少年の笑顔が何より嬉しかった。
その日の夜。
店を閉めたサッシャは、静かな店内で一人、米粉パンの試作品を眺めていた。
「……なあ」
誰もいない店内で、ぽつりと呟く。
「見ているか?」
返事はない。
それでもサッシャは笑った。
「また一つ、パンが増えたぞ」
遠い昔に失った、大切な妻へ。
そしてかつて共に生きた者たちへ。
「……余も、まだまだ頑張れそうだ」
窓の外には、穏やかな月が浮かんでいた。




