勇者常連になる。問題発生!小麦の拒絶反応事件!
サッシャとルシオンが出会ってから──3ヶ月。
始まりの村ココットでは、すっかり見慣れた光景になっていた。
「いらっしゃいませー!」
「こんにちは、サッシャさん。今日の新作は?」
「お前、本当に毎日来るな」
「もう常連ですから」
銀髪の爽やかな勇者が、当然のようにパン屋の扉を開ける。
最初の頃こそ、魔王を監視するため。
そう自分に言い聞かせていたルシオンだったが。
「今日はウロボロスパンだ」
「ウロボロス?」
「ああ」
サッシャが棚から取り出したのは、細長いパンだった。
その中心には一本のウインナー。
それを包むように、二本のパン生地が絡み合い、輪になっている。
まるで蛇が自らの尾を咥える伝説の魔獣──ウロボロス。
「……これは」
「今月の新作だ」
「美味しそうですね」
「肉好きの男どもには好評だぞ」
「じゃあ、これを」
「毎度あり」
ルシオンは受け取ったパンを、その場で一口食べる。
「……うん。美味しい」
「そうか」
「ウインナーがいいですね」
「だろう?」
サッシャが嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、ルシオンも自然と笑った。
「先月のデニッシュも美味しかったですよ」
「ああ、あれか」
「女性客に大人気でしたね」
「季節の果物を使ったからな」
先月の新作は、苺や桃、葡萄などの果物を使った色鮮やかなデニッシュ。
村の女性たちから大好評だった。
「新作は季節ごとに変えるつもりだ」
「いいですね」
「パン屋だからな。色々作ってみたい」
サッシャは楽しそうに言う。
ルシオンは、その姿を見るたびに思う。
──本当に、楽しそうだ。
魔王だった男。
1000年近く王座に座り続け、世界を震撼させた男。
そんな肩書きを全部捨てて、今はただパンを焼いている。
それが、なんだかおかしくて。
そして少し羨ましくもあった。
「そういえば」
サッシャがふと尋ねる。
「勇者というのは、王都でも忙しいのではないか?」
「まあ、色々ありますね」
「それなのに3ヶ月もここにいるのか」
「……まあ」
ルシオンは苦笑した。
「王都より、ここの方が落ち着くんですよ」
「そうか」
サッシャは深く追及しなかった。
そんな何気ない会話が続く。
そしてルシオンが何気なく口にした。
「そういえば、最近ちょっと気になる子がいるんです」
「ほう?」
「村の近くに住んでいる子なんですが」
サッシャが顔を上げる。
「パンやパスタが食べられないんですよ」
「好き嫌いか?」
「最初は僕もそう思ったんですが……違うみたいで」
ルシオンの表情が曇った。
「食べると、蕁麻疹が出るんです」
「……」
「ひどい時は呼吸まで苦しくなってしまう」
サッシャの顔から笑みが消えた。
「教会で治療してもらえば、何とか回復するんですけど……」
「原因は?」
「それが分からないんです」
ルシオンは困ったように言う。
「パンやパスタを食べると、必ずそうなる。でも他のものなら問題ない」
「……」
サッシャは腕を組んだ。
「小麦の拒絶反応かもしれんな」
「え?」
「小麦を使ったものを食べると症状が出るのなら、小麦そのものが原因の可能性がある」
「小麦……」
「ああ」
サッシャは静かに頷いた。
「以前、余の部下にも──」
一瞬、言葉が止まる。
「ごほん…俺の知り合いにも、卵が駄目な者がいた」
「卵が?」
「ああ」
サッシャは少し遠くを見るような目をした。
「卵を食べると、同じように酷い拒絶反応を起こしてな。ある時、瀕死の状態になってしまった」
「そんな……」
「ちょうどその頃だった」
サッシャは苦笑する。
「聖女と共に、勇者が余の城へ攻め込んできたのだ」
「…………」
ルシオンが固まった。
「……それ、まさか」
「何だ?」
「その時代って……」
「ああ。700年ほど前の話だ」
「……」
サッシャは懐かしそうに続ける。
「俺はなりふり構わず聖女に頼んだ」
「……」
「土下座してな」
「魔王が!?」
「部下の命がかかっていたから仕方なかろう」
サッシャは当然のように言った。
ルシオンは何も言えなかった。
「原因は卵だった。聖女も、食べ物でそういう拒絶反応が起こることを知らなかったらしくてな」
「……」
「それでも何とか一命を取り留めてくれた」
サッシャの表情が柔らかくなる。
「だから、その者のために卵を使わないパンを作った」
「パンを?」
「ああ」
サッシャは笑った。
「何度も失敗した。固すぎたり、膨らまなかったり、味が酷かったり」
「……」
「それでも懸命に作った。そして、ようやく完成した時には、あいつは泣きながら食べてくれたよ」
「……その人は」
「もう死んだ」
サッシャは静かに答えた。
「200年前に、病でな」
「……そう、なんですか」
「ああ、いい妻だったよ」
「……妻?」
「そうだ」
ルシオンが少し驚く。
その様子を見てサッシャは苦笑した。
「優しい性格でな、助けてくれた聖女にお礼がしたいと言って、病み上がりだというのに会いに行こうとするんだ」
「……」
「何とか手紙だけで納得してもらったんだがな」
ルシオンは黙って聞いている。
「その……200年前に侵攻をやめたのも……」
ぽつり。その言葉に、サッシャがルシオンを見る。
「……気づいたか」
「もしかして」
「ああ」
サッシャは窓の外を見る。
「妻に人間領にある海を見せたかったんだ」
「……あなたなら、いつでも連れて行けたでしょう?」
「そうだな」
サッシャは少し笑った。
「だが、晩年は長いこと病に伏せっていたから、無理な長距離移動はな」
「……」
「それでも気丈に振る舞っていたよ」
少しの沈黙。
「……他に家族は?」
「息子と娘が一人ずついる」
サッシャの顔が、ほんの少し明るくなる。
「二人とも妻に似ていてな。聡明な子たちだ」
「そうなんですか」
「ああ」
「じゃあ……」
ルシオンは少しだけ笑った。
「魔王職も、その二人に任せたんですか?」
「そういうことだ」
「そう…だったんですね」
ルシオンは頷いた。
「……家族がいてくれて、良かったですね」
「ああ」
サッシャも静かに頷く。
「妻がいなくても、大事な子供たちがいる。それが救いだ」
少しだけしんみりした空気。
「……よし」
サッシャが突然立ち上がった。
「え?」
「しんみりしている暇はないな」
「サッシャさん?」
「小麦が原因なら、小麦を使わないパンを作ればいい」
「え?」
サッシャの目が変わった。
先ほどまでの穏やかな父親のような顔ではない。
パン作りを始めた時にだけ見せる、職人の目。
「その子がパンを食べられないと決まったわけではない」
「……」
「小麦が駄目なら、別のものを使えばいい」
「でも、何を?」
「……そうだな」
サッシャは腕を組む。
しばらく考えてから言う。
「確か東方に、米という穀物がある」
「米?」
「ああ」
「それをどうするんです?」
「粉にする」
「粉?」
「小麦粉の代わりになるかもしれん」
ルシオンの目が見開かれる。
「そんなこと、できるんですか?」
「知らん」
「え?」
「だから試す」
サッシャは笑った。
「やってみる価値はある」
「……サッシャさん」
「何だ?」
「本当に作るつもりですか?」
「もちろん」
サッシャは胸を張った。
「パン屋だからな」
「……」
ルシオンはしばらく黙っていた。
そして立ち上がる。
「なら、僕も手伝います」
「お前も?」
「はい」
「勇者がパン作りを手伝っていいのか?」
「勇者にも休日はありますから」
「そうだったな」
二人は顔を見合わせる。
「よし」
サッシャが腕まくりをする。
「米粉のパンを作るぞ」
「おー」
「声が小さい」
「おー!」
「よし!」
こうして元魔王と勇者による──新しいパン作りが始まった。
その日の夕方、村の子供たちがパン屋の窓から中を覗く。
「サッシャおじちゃん、何作ってるのー?」
「新しいパンだ!」
「勇者のお兄ちゃんもいる!」
「何それー?」
「秘密だ」
「えー!」
店の中から笑い声が響く。
ルシオンは、その光景を見ながら思った。
かつては、この男を倒すために剣を握った。
今はこの男と一緒に、誰かのためのパンを作ろうとしている。
「……不思議だな」
「何がだ?」
「いえ」
ルシオンは笑った。
「何でもありません」
サッシャも笑う。
「なら、次は米をどうやって粉にするか考えるぞ」
「はい!」
そして始まりの村の小さなパン屋で。
世界にまだ存在しなかった、新しいパンの開発が始まった。




