毎日が平和なココット村、ついに勇者が警戒を弱める!?
始まりの村ココットは、今日も平和だった。
「いらっしゃいませー!」
朝のパン屋には、焼きたての香りが満ちている。
窓の向こうでは、サッシャがパン生地をこねていた。
大きな手が、生地を力強く押し、折り、また押す。
無駄のない動き、真剣な眼差し。
筋肉質な腕に力が入り、シャツの袖が僅かに張る。
その姿を、店の前を通りかかった若い女性たちが窓越しに見ていた。
「はぁ……」
「……かっこいい」
「分かる……」
「いつも思うけど、サッシャさんって本当に素敵よね」
「ちょっと怖そうなのに、パンをこねてる時はすごく真剣で……」
「しかも、子供に笑いかける時はあんなに優しい顔するのよ」
「ずるいわ……」
本人には聞こえていない。
サッシャは今日も黙々とパンをこねている。
「……」
少し離れたところから、その様子を見ている男がいた。
ルシオンである。
勇者として魔王を監視するためにこの村へ滞在している……はずだった。
「……」
ルシオンは腕を組んで、じっとサッシャを見る。
魔王サタニトゥス。
200年前まで、人間領を脅かした魔族の王。
その正体は間違いなく、このパン屋の店主だ。
それは分かっているのだが……
「……本当に、楽しそうだな」
サッシャが焼き上がったパンを窯から取り出す。
ふわりと立ち上る湯気。
「よし」
その顔には、満足そうな笑みが浮かんでいた。
ルシオンは思う。
魔王なら、もっと何か企んでいてもおかしくない。
だが、この10年間、サッシャはパンを焼いている。
村人と話して、子供たちにパンを配っている。
休みの日には──
「サッシャおじちゃん!」
「おう」
休日の昼。
村の広場で子供たちが走り回っている。
「鬼ごっこしよう!」
「俺が鬼か?」
「うん!」
「仕方ないな」
「逃げろー!」
子供たちが一斉に走り出す。
「待てぇ!」
サッシャが追いかける。
大人とは思えないほど本気で走る。
「きゃー!」
「サッシャおじちゃん速い!」
「待て待て!」
「こっちー!」
「そっちは卑怯だろう!」
笑い声が広場に響く。
ルシオンは少し離れた場所から眺めていた。
「……」
魔王。世界を震撼させた存在。
その男が今は、子供たちと鬼ごっこをしている。
「……まあ」
ルシオンは小さく笑った。
「悪くないか」
◇
その日の午後。
サッシャは木陰に座り、一冊の本を読んでいた。
風が木々を揺らす。ページをめくる大きな手。
普段の迫力ある姿とは違い、静かで落ち着いた雰囲気を纏っている。
その姿を見た女性たちが、また小声で騒いでいた。
「……知的」
「本を読んでるサッシャさん、素敵……」
「いつもの豪快な姿とのギャップが……」
「分かる……」
「今日も目の保養……」
当の本人は、何も知らずに本を読んでいる。
少し離れたところでは、ルシオンも木にもたれながら本を読んでいた。
ふと顔を上げると、サッシャと目が合った。
「……」
「……」
「何を読んでる?」
サッシャが尋ねる。
「歴史書です」
「ほう」
「魔王サタニトゥスの時代について」
「…………」
「何です?」
「いや」
サッシャは本へ視線を戻した。
「趣味が悪いな」
「本人に言われると複雑ですね」
ルシオンは笑った。
サッシャも僅かに笑う。
「お前も休むのか?」
「勇者だって休みますよ」
「そうか」
「サッシャさんは?」
「余……じゃなかった」
一瞬、サッシャが言葉を止める。
「俺は、パン屋だからな。休みくらいある」
ルシオンは笑った。
「確かにそうですね」
その言葉に、以前ほどの警戒心はなかった。
◇
翌日、ルシオンとサッシャがパン屋で雑談していると。
カラン、とパン屋の扉が開く。
「いらっしゃいませ」
サッシャが顔を上げる。
「……あ」
そこにいたのは──
「こんにちは、サッシャさん」
ミラだった。
黒く長い髪、透き通るような肌、宝石のような吸い込まれる赤い瞳、誰もが見惚れる美貌。
今日も変わらず美しい。
「おう、ミラ来たのか」
「はいフェンリルパンを5つください」
「5つ?」
「ええ」
「この前より増えたな」
「気に入ったもので」
「そうか」
サッシャは棚からパンを取り出す。
その瞬間。
「お前っ!?」
ルシオンが立ち上がった。
ミラが振り返る。
「あら」
「なぜここに!?」
「なぜ?」
ミラは首を傾げる。
「パンを買いに来たのですが?」
「いや、そうじゃなくて!」
「では何でしょう?」
「お前は──」
ルシオンが言いかけると、サッシャがちらりと見る。
「店内で騒ぐな」
「……」
ルシオンは口を閉じた。
ミラも何事もなかったようにパンを受け取る。
「サッシャさん、お代です」
「ああ」
「ありがとうございます」
「それから」
サッシャが奥から大きな紙袋を持ってくる。
「この前頼まれていた、部下たちの分のパンだ」
「まあ」
ミラの表情が少し明るくなる。
「ありがとうございます」
「数は合っているか?」
「…13…14…ええ、助かります」
「ならいい」
「では、また」
「ああ」
ミラが店を出ていく。
「…………」
ルシオンは固まっていた。
「…………え?」
サッシャが振り返る。
「どうした?」
「え?」
「何だ、その腑抜けた顔は」
「いや……」
ルシオンはミラが去っていった扉を見る。
「ミラが……普通にパンを買っていった……?」
「普通に客だろう」
「まお、んん”っ!えっと、だから……」
「今は客だ」
「しかも部下の分まで……」
「頼まれたから作った、前金は貰ってる」
「……」
ルシオンの頭の中で、何かが崩れていく。
そこへ店内にいた村人が口を挟んだ。
「勇者さん、知らないのかい?」
「え?」
「ミラさんは、こうやって時々サッシャさんのパンを買いに来てくれるんだよ」
「……そうなん、ですか?」
「ああ」
「かなり前からだよ」
「……」
別の村人が、うっとりと扉を見る。
「はあ……今日もミラ様、美しい……」
「分かる」
「本当に綺麗よねぇ」
「サッシャさんの知り合いって聞いてびっくりしたわ」
ルシオンは呆然としていた。
「……」
魔王軍幹部。
始祖吸血鬼。
かつて人間たちが恐れた存在。
それがフェンリルパンを5個買って部下の分のパンまで取り置いてもらって帰った。
「……何なんだ、この村」
サッシャは肩をすくめる。
「平和な村だ」
「そ…そうですね」
ルシオンは、思わず笑った。
それから数日、シオンは毎日のようにパン屋へ通うようになった。
「サッシャさん、今日は何があります?」
「ドラゴンパン」
「ください」
「それだけでいいのか?」
「あとキマイラパンも」
「食いすぎじゃないか?」
「美味しいんですよ」
「そうか」
また別の日。
「サッシャさん、これ何です?」
「新作のサラマンダーカレーパンだ」
「食べていいですか?」
「味見してみろ」
「いただきます」
ぱく。
「……美味しい」
「そうか」
また別の日。
子供たちと遊ぶサッシャを見て。
「勇者のお兄ちゃんも一緒にやろう!」
「僕も?」
「うん!」
「……じゃあ、少しだけ」
「やった!」
気づけばルシオンも、子供たちと走り回っていた。
「勇者お兄ちゃん速い!」
「サッシャおじちゃんも速いよ!」
「なら競争します?」
「いいぞ」
「負けませんよ」
「ほう」
そして。
「「よーい、どん!」」
二人の大人が本気で子供たちを追いかける。
その光景を見ていた村の女性たちは──
「……」
「……目の保養すぎない?」
「サッシャさんとルシオン様が並んでる……」
「二人ともタイプが違うのよ……!」
「サッシャさんは大人の色気があって、ルシオン様は爽やかで……」
「無理……」
「何が?」
「尊すぎて無理……」
「すごくわかる」
村の女性たちが静かに撃沈していく。
そんなこととは知らず、サッシャとルシオンは、子供たちと笑っていた。
その日の夕暮れ。
ルシオンは一人、宿へ戻る道を歩いていた。
「……」
最初は、監視するつもりだった。
魔王が何か企んでいないか。
人間領へ危害を加えるつもりがないか。
少しでも怪しい動きがあれば、すぐに報告するつもりだった。
「……あの人」
ルシオンは振り返る。
遠くに見えるパン屋。
窓から漏れる暖かな明かり。
店の中ではサッシャが明日の仕込みをしている。
「魔王なんだろうけど……」
10年前まで、確かに魔王だった。
それは変わらない。
「……毎日、楽しそうなんだよな」
パンを焼き、子供と遊び、本を読んで、村人と笑い、休日を楽み、美味しいパンを食べる。
そんな当たり前の毎日を、サッシャは心から楽しんでいる。
「普通の人……なんだろうな」
ルシオンは苦笑する。
「いや、魔族だけど」
それでも勇者としての警戒心は、確かに残っている。
だが以前のような殺意の籠った敵意は、もうなかった。
◇
翌朝。
パン屋の扉が開く。
カラン。
「いらっしゃいませー」
「おはようございます、サッシャさん」
「おう、今日は早いな」
「パンを買いに来ました」
「いつものか?」
「はい」
サッシャは笑う。
「毎度あり」
ルシオンもつられて笑った。
こうして勇者は今日も、元魔王のパン屋へ通う。
監視のため──という名目を、かろうじて残したまま。
だが実際には、もうすっかりこのパン屋に来るのが楽しみになっていた。




