消えた魔王の行方、現在パン屋経営中。警戒を強める勇者!
翌朝。
始まりの村ココットにある宿屋の一室で、勇者ルシオンは一枚の古びた資料を睨んでいた。
「……魔王サタニトゥス」
資料に記されているのは、10年前まで魔族領を統べていた男についての記録。
魔王。
1000年以上、王座に君臨し、かつては人間領への侵攻を率いた存在。
だが、200年前に大規模な侵攻を停止。
以降は人間領との戦争を避け、交易や外交を進めるようになった。
そして10年前──突然、姿を消した。
「……」
ルシオンは資料をめくる。
魔王の容姿。
黒髪。
鋭い赤い目。
長身。
そして──膨大な魔力。
「全部一致してるんだよな……」
昨日出会ったパン屋の店主、サッシャ。
どう考えても怪しい。
いや怪しいどころではない、ほぼ本人だ。
「……なのに」
ルシオンは額を押さえた。
「なんでパン屋なんだ」
そこだけが、どうしても理解できなかった。
魔王が10年も姿を隠している。
それならば、何か企んでいると考えるのが普通だ。
力を蓄えているのかもしれない。
新たな侵攻計画を立てているのかもしれない。
あるいは──
「世界征服のための資金を、パン屋で稼いでいる……?」
そこまで考えてルシオンは自分で首を振った。
「……いや、それはないか」
だが警戒は必要だ。
勇者として、そして何より、人間側を守る者として。
ルシオンは立ち上がった。
「今日も様子を見に行こう」
そうして向かった先は、もちろんパン屋だった。
カラン。
「いらっしゃいませー……って」
サッシャが顔を上げる。
「お前か」
「おはようございます」
「朝から来るとはな」
「昨日、また来ると言ったでしょう」
「そうだったな」
サッシャは淡々と答えながら、焼き上がったパンを並べている。
ルシオンは店内を見回す。
「……」
怪しいところはない。
こじんまりとはしているものの普通のパン屋だ。
客も村人ばかり。
「何にする?」
「そうですね……」
ルシオンは棚を見る。
ドラゴンパン。
グリフォンパン。
ウルフパン。
フェンリルパン。
そして普通の丸パンやクロワッサンやバケットなど。
「……フェンリルパンを」
「またか」
「気に入ったので」
「そうか」
サッシャはパンを包む。
ルシオンはその手元を観察する。
魔力を使っていないか。
何か特殊な術式を仕込んでいないか。
毒など入れていないか。
「……」
「何をそんなに見ている」
「いえ」
「パンに毒でも入っていると思っているのか?」
「そこまでは思ってません」
「ならいい」
サッシャは包みを渡した。
「銀貨一枚だ」
「はい」
ルシオンは代金を払い、そして一口。
「……」
「どうだ?」
「美味しいです」
「そうか」
サッシャは満足そうに頷いた。
──何なんだ、この人。
ルシオンは思う。
昨日は魔王だと確信したが、目の前にいるのは、ただのパン屋の店主だ。
客が来れば笑顔で迎え、子供には熱いから気をつけろと声をかけ、老人が来れば重い荷物を運んでやり、パンが焼ければ嬉しそうに窯を覗く。
「……」
ルシオンがぼんやり眺めていると。
「サッシャさーん!」
店の外から声がした。
「ん?」
村の少年が顔を覗かせる。
「今日もグリフォンパンある?」
「ああ」
「じゃあ二つ!」
「ほら、熱いから気をつけろよ」
「ありがとう!」
少年は嬉しそうにパンを抱える。
その直後。
「あちちっ!」
「だから熱いと言っただろう」
サッシャが慌てて少年の手を取る。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
「無理して持つな」
サッシャはパンを包み直し、少年へ渡した。
「ほら。これなら持てる」
「ありがとう!」
少年が走っていく。
ルシオンはその様子を見ていた。
「……優しいんですね」
「普通だろう」
「魔王も、子供には優しいんですか?」
「……」
サッシャの動きが止まる。
「子供みたいな部下が多かったからな」
「そうなんですか」
「ああ」
少しだけ遠くを見るような目。
「子供に罪はないからな」
「……」
ルシオンは何も言えなかった。
その時。
「サッシャさーん!」
また別の子供が駆け込んでくる。
「今日はドラゴンパンじゃなくてウルフパン!」
「おう!」
「あとね、お母さんが昨日のフルーツパン美味しかったって!」
「そうか、ありがとうなって伝えておいてくれ!」
サッシャは笑った。
──やっぱり。
ルシオンは思った。
この人が本当に魔王なのだろう。そう疑う気持ちは、まだ消えない。
だが昨日までとは少し違う。
サッシャがパンを焼く姿を見ていると、不思議と剣を抜く気にはなれなかった。
それどころか──
「……サッシャさん」
「なんだ?」
「新作はありますか?」
「あるぞ」
「どんなパンです?」
「秘密だ」
「気になります」
「なら明日来い」
「……」
ルシオンは少し笑った。
「分かりました」
その日の夕方。
ルシオンは宿へ戻る途中で、ふと足を止めた。
「……僕は何をしているんだ」
魔王を監視するために始まりの村へ来た。
なのに今日買ったパンは3つ。
明日の新作も気になっている。
「……」
ルシオンは手元の紙袋を見る。
中には、最後に買ったフェンリルパンが一つ。
可愛らしい顔をしている。
「……食べよう」
ぱく。
「……美味しい」
その夜。
宿の一室で、ルシオンは王国へ提出する報告書を書いていた。
机の上には、王国から渡された正式な報告書用紙。
羽根ペンを手に取り、今日までの出来事を整理する。
まずは事実からだ。
ルシオンは筆を走らせた。
──始まりの村にて、魔王サタニトゥスと思われる人物を確認。
「……」
そこで一度、筆が止まる。
間違いない。
あの男は、かつて自分たちが討伐を目指した魔王サタニトゥスだ。
本人も否定していない。
だから、ここまでは問題ない。
ルシオンは続ける。
──現在、同村にてパン屋を経営。
「……」
筆先が止まった。
ルシオンは書きかけの文章を見つめる。
「…………」
少し考える。
そして、紙を見つめたまま呟いた。
「……これ、報告してどうするんだ?」
魔王がパン屋を経営している。
確かに重要な情報ではある。
しかしその男が毎朝パンを焼いて、子供たちと遊んで、新作パンを作って、村人たちから慕われていること。
そして──
「……」
今日もルシオンに新作パンの味見を頼んできたこと。
「…………」
ルシオンは筆を置いた。
「……いや」
もう一度紙を見る。
そこには、
──始まりの村にて、魔王サタニトゥスと思われる人物を確認。
その一文だけが残っている。
「……これ以上書いたら」
サッシャの顔が浮かんだ。
『おう、ルシオン。今日も来たか』
『焼きたてだぞ』
『気をつけて食えよ』
そして、あの豪快な笑顔。
「……」
ルシオンは椅子に深くもたれた。
「……サッシャさん、怒るだろうな」
いや、怒るだけならまだいい。
王国が大騒ぎして、調査隊でも送り込もうものなら──
「……パン屋、続けられなくなるかもしれない」
それはなぜだか嫌だった。
ルシオンはしばらく黙っていた。
やがて報告書を畳む。
「……まだしばらく報告しなくていいか」
◇
翌朝、パン屋の扉が開かれる。
──カラン。
「いらっしゃいませ」
「おはようございます、サッシャさん」
「おう、今日は早いな」
「新作が気になって」
「そうか」
サッシャは焼きたてのパンを一つ取り出す。
「これだ、サンドワームコロネ」
「……!」
焼きたての香りが広がる。
ルシオンは思わず笑った。
「いただきます」
ぱくっ。
「……美味しい」
「そうか」
「サッシャさん」
「なんだ?」
「あなた、本当に魔王だったんですか?」
サッシャは少しだけ考える。
「だったな」
「……そうですか」
「何だ?」
「いえ」
ルシオンは笑う。
「パン屋さんだな、と思って」
「そうだパン屋だ」
ルシオンはもう一口食べる。
魔王への警戒は、まだ解いていない。
けれど、勇者の中では『討伐対象としての魔王』より、『パン屋のサッシャ』の存在が少しずつ大きくなり始めていた。




