第99話 こいつ、本当にムカつく!
浴室にいた涼介は、2階から響いてきた凄まじい物音を耳にして、やっぱりな、とでも言いたげな表情を浮かべた。
念のため、時間を見計らって風呂に入っておいて正解だった。
いくら腹が立っているとはいえ、さすがに浴室まで追いかけてきて文句を言うことはないだろう。
「我慢が足りないな。まだ3話なのに」
『魔法少女まどか☆マギカ』において、第3話でマミが命を落とす展開は確かに大きな転換点だ。
だが、それはあくまで始まりにすぎない。
ここで初めて、この作品がどんな物語なのか、その方向性がはっきりと示される。
最近は他の仕事に追われ、まだその先の脚本まで書く余裕がなかった。
残りはある程度まとめてから凌乃に渡したほうがよさそうだ。
そうすれば、続きを読むたびに怒鳴り込まれる回数も減るだろう。
そもそも、凌乃は少し感情移入しすぎなのだ。
あれくらいの展開で、扉を蹴破るほど怒る必要があるだろうか。
今の音を聞く限り、ひょっとするとまた錠前まで壊しているかもしれない。
思えばこの半年だけで、涼介の部屋の鍵はすでに2度交換されている。
どちらも高城凌乃の蹴りの犠牲になったものだった。
シャワーを浴び終えた涼介は寝間着に着替え、2階へ戻った。
すると、凌乃はすでに高城勇夫に頭を押さえられ、自分の部屋へ連れ戻されていた。
今は畳の上に正座させられ、しおらしく俯いている。
さすがにあれだけ派手な音を立てれば、父親も黙ってはいない。
少女の怒鳴り声を聞いた瞬間、高城勇夫は寝室から飛び起きてきたのだ。
「ふざけるのもいい加減にしなさい! こんな時間にあれだけ大きな音を立てたら、近所迷惑だろう!」
「しっかり反省しなさい!」
高城勇夫の叱責はかなり厳しい。
凌乃も自分に非があることは分かっているため、俯いたまま大人しく説教を受けていた。
だが、廊下に涼介の姿を見つけた途端、その目にむっとした怒りが宿る。
涼介はそんな妹に向かって、べっと舌を出してみせた。
その瞬間――
「……っ!」
凌乃の髪が逆立ちそうな勢いで怒りが再燃した。
こいつ、本当にムカつく!
私のマミ先輩を返せ!
今にも飛びかかりそうになったところで、高城勇夫が振り返る。
涼介は即座に表情を戻し、何事もなかったかのように父親へ丁寧に頭を下げた。
「涼介、もう遅いから早く休みなさい。壊れた鍵は明日、業者を呼んで直しておくから」
「分かりました、父さん」
「扱いが違いすぎるでしょ、お父さん! 先に私を怒らせたのはこいつなんだから!」
凌乃は納得がいかない。
「涼介みたいに聞き分けのいい子が、わざわざお前を怒らせるわけがないだろう。仮に何かあったとしても、あんなことをしていい理由にはならない!」
「言い訳するな。今日の学力テストだって散々だったんだろう? お兄ちゃんは満点だったそうじゃないか」
「それとこれとは関係ないでしょ……」
凌乃は弱々しく抵抗したが、高城勇夫にあっさり封殺された。
学生である以上、成績の影響は大きい。
家庭内においてすら、ある意味では発言力に直結する。
その点、涼介は凌乃に対して圧倒的な優位に立っていた。
涼介は軽く頭を下げ、自分の部屋へ戻った。
扉を閉めても、廊下の向こうからはまだ父親が凌乃を叱っている声がかすかに聞こえてくる。
妹が小さくなって説教を受けている姿を想像すると――
「ぷっ……」
涼介はとうとう堪えきれず、吹き出してしまった。
◇
9月に入り、新学期が始まってから1週間が過ぎた。
ここ数日は毎晩、涼介が凌乃の勉強を見る生活が続いている。
どうにか夏休み前の学力までは取り戻させることができた。
そして週末。
兄妹は半日ほどかけて凌乃の私物や資料を箱詰めし、引っ越し業者を手配して、栄町に借りていた作業場を完全に引き払った。
荷物の行き先は、東京・練馬区に構えた会社の本拠地だ。
鳳凰院紗織もその場に来ていた。
3人で室内を簡単に整理し、それぞれの作業スペースを分けていく。
凌乃は自分専用の一角へ引っ込み、周囲から見えにくいように工夫しながら、嬉々として自分好みの空間を作り始めた。
一方、涼介はまだがらんとしているオフィスで、鳳凰院紗織と2人きりになり、今後の方針について話していた。
「10月末までには、それなりの人数を揃えたいな」
「最初から育てるつもり? 前に渡したメモの学生には連絡したの?」
鳳凰院紗織が尋ねる。
東京工芸大学の芸術系学科に通う学生たちは、確かに有力な候補だった。
専門分野を学んでいる新卒なら、採用先として最も狙いやすい。
業界経験がないぶん、人件費も比較的抑えられる。
「もう電話した。明日、大学へ行って話を聞く約束をしてる」
こういう準備に関して、涼介はいつも早い。
「今の資金力だと、雇えて70人くらいが限界だと思う。それ以上になると維持できない。全員を新卒で揃えるつもりもないし、何人かは経験者を中途で採用する」
その言葉を聞いた鳳凰院紗織が、意外そうに涼介を見る。
「ちょっと待って。まさか、全部自社スタッフで揃えるつもりなの?」
「重要なポジションだけ押さえて、残りは外注でいいんじゃない?」
アニメ制作では、外部スタッフを大量に使うのが一般的だ。
社内に抱えるのは、ごく一部の中核スタッフだけという会社も珍しくない。
たとえば動画マン。
原画と原画の間を埋める動画を描き、動きを滑らかにつなげる役割を担う。
業界では最も人数が多く、仕事量も多い一方で、人の入れ替わりも激しい。
入門職に近いこともあり、単価は低い。
現在の相場では、1枚あたり150~170円ほどだった。
「こういうスタッフまで固定給で雇うのは、どう計算しても効率が悪いよ。1人が1日に描ける枚数だって、多くて15、16枚くらいでしょう?」
今回のアニメ制作そのものに参加するつもりはないものの、鳳凰院紗織も株主の1人だ。
そのため、最低限の業界事情は事前に調べていた。
「固定雇用にすれば、そのぶん余計な支出がかなり増える。あなたなら、その程度は調べてると思ってたけど」
「もし外注先との繋がりがないなら、島川の編集に聞けばいいんじゃない? 業界の連絡先くらい持ってるでしょう」
「いや。俺は最初から、自前のアニメ制作チームを育てるつもりだ」
「動画マンも含めてな。そうしたほうが、画面全体の品質を管理しやすい。予算に余裕があるなら、むしろもっと採りたいくらいだ」
涼介は首を横に振った。
外注のほうが安い。
そこに疑問はない。
だが、品質面で常に同じ水準を保てるとは限らなかった。
記憶にある、とある有名漫画のアニメ版でも、外注先との連携がうまくいかなかったせいで、戦闘シーンのキャラクターの顔がまるで餅のように伸びる、派手な作画崩壊を起こしていた。
テレビシリーズでは、納期と予算の都合から起こりやすい問題だ。
鳳凰院紗織は脚を組み、膝の上を指先で軽く叩きながら、少し驚いたように涼介を眺めた。
その方針を採るなら、会社が負担する制作費はおそらく倍近くなる。
外注であれば、経験のある動画マン1人の1か月分の作業量をまとめて依頼しても、8万円に届かないことすらある。
「だから、ここを借りた一番の理由は、広さだったわけ?」
「そういうこと」
「70人近いスタッフを抱えたら、人件費だけでもかなり重いよ。1本のアニメのためにそこまでやって、本当に採算が取れるの?」
アニメ制作は、ギャルゲー制作とはまるで違う。
数人の小さなチームだけでどうにかできる仕事ではない。
利益の出し方も、商品を作って売るだけの単純なものではなかった。
作品が人気を得たあとに生まれる、さまざまな権利収入。
グッズ、ゲーム化、映像商品、その他の二次展開――。
そういったものが積み重なって、初めて大きな利益になる。
業界では、アニメがヒットしても最大の利益を得るのは権利を持つ側で、実際に制作を担ったスタジオは製作委員会にすら参加できず、わずかな制作費だけを受け取ることも少なくない。
もっとも、涼介の場合は自分自身が原作権を持っている。
それは大きな強みだった。
同時に、弱みでもある。
漫画原作のアニメ化ではなく、最初からオリジナル作品として世に出す以上、既存のファンがいない。
立ち上がったばかりのアニメ制作会社が手掛ける、完全オリジナル作品。
「製作委員会を組むとき、大手を引き込むのはかなり苦労すると思うよ。たぶん、私たちが一番多く出資することになる」
「それでいい。最初からそのつもりだ」
「一番多く出資するってことは、成功したときに取り分も一番大きいってことだからな」
涼介は迷いなく頷いた。
アニメ制作に関して、彼が目指している形は、記憶にある『京都アニメーション』に近かった。
「権利収入まで含めれば、制作費は十分に回収できると思ってる。ただ、利益が戻ってくるまでに時間がかかるだけだ」
「それに――」
涼介は少し間を置いた。
「俺は、今の業界のやり方が好きじゃない」
「どういうところが?」
「アニメが好きだからってこの世界に入ってきた若い連中を、安い単価で使い潰して利益を出すやり方だよ」
涼介は静かにそう言った。




