第98話 「高城! 涼介!」
勉強というものは、少しでも気を抜けばすぐに結果へ表れる。
もともと地頭が飛び抜けていいわけではない凌乃なら、なおさらだった。
その日の夜。
涼介の部屋では、高城凌乃が畳の上にあぐらをかき、頬を膨らませながら不満そうな顔をしていた。
「何よ。今回の問題、前にやってたやつと全然難易度が違うじゃない。千葉第一の学力テストって厳しすぎない?」
「お父さんも言いすぎなのよ。まるであんたに勉強を見てもらわなきゃ、私が何もできないみたいに言ってさ」
今日1日を通して見れば、凌乃の機嫌は悪くなかった。
放課後に学力テストの結果が返ってくるまでは。
夕食の席で、高城勇夫は答案用紙を見ながら深々とため息をつき、まるで娘の将来を託すかのように涼介の手を握った。
『凌乃の将来は、お前に任せたぞ』
そんなことを、目を潤ませながら言われたのだ。
あそこまでされては、涼介も断りようがない。
「実際、その通りだろ。誰も見てないと、すぐ成績が落ちるんだから」
「千葉第一の学力テストは別に難しくない。少なくとも入試より上じゃない。単純に、お前が夏休みの間に鈍っただけだ」
涼介は手にした答案用紙をひらひらと揺らした。
そこには、赤い数字がはっきりと記されている。
――62点。
かなり危うい点数だった。
ぎりぎり赤点を免れた程度である。
「明日からまた勉強を見る。まず中学範囲を復習して、そのあと高校の内容も少し先取りするぞ」
涼介は棚から、去年使っていたノートと問題集を引っ張り出した。
今回は以前とは違う。
この先ずっと面倒を見るわけにもいかない以上、凌乃自身に勉強する習慣をつけさせる必要がある。
「くっ……!」
凌乃としては不満しかないが、反抗するわけにもいかなかった。
ここで拒否すれば、父親の高城勇夫が容赦なくパソコンを没収する可能性が高い。
パソコンを取り上げられたら死ぬ。
少なくとも凌乃にとっては、それくらい重大な問題だった。
「その代わり、勉強を見てやる報酬として、暇なときにこのラフを直してくれ」
涼介は1冊のノートを凌乃へ差し出した。
「何これ?」
「2か月後くらいから作り始める予定の新作アニメの脚本」
「ああ、島川に行った日に斎藤さんに見せてたやつ? てっきり内容がダメで、直しを食らったのかと思ってた」
「違う。絵の部分だけ、もう少し分かりやすくしてほしいらしい」
凌乃は納得したようにノートを受け取った。
そして1ページ目を開いた瞬間、そこに広がる惨状に目を細める。
「……まあ、ちょっと抽象的だけど、別に分からなくはないじゃない。魔法少女が怪物と戦ってるんでしょ?」
「だよな。俺もそう思う。ただ、向こうが言うなら直しておけばいいだろ。お前ならそんなに時間かからないだろうし」
その点については、兄妹そろって完全に同意見だった。
どうやら2人は、抽象画を読み取る感覚だけは妙に近いらしい。
もし斎藤律がこの場にいたら、泣きたくなっていたかもしれない。
「いいよ。鉛筆で簡単に描き直せばいいんでしょ?」
「ああ。絵柄は『カードキャプターさくら』を参考にしていい。ただし、ちゃんと違いは出してくれ。ひと通り直したら見せて」
「はいはい。ほんっと注文が多いんだから」
凌乃は軽く鼻を鳴らし、畳から立ち上がった。
◇
自分の部屋へ戻った高城凌乃は、椅子に腰を下ろし、かなり気楽な様子でノートをぱらぱらとめくった。
全部で50枚ほど。
どのページにも、文字と雑な絵がびっしりと書き込まれている。
「3話分しかないんだ」
以前『カードキャプターさくら』を作っていたときも、まるで連載作品を追いかけるような感覚だった。
凌乃は何度も涼介を急かし、早く次のNAMEを寄越せと言ったものだ。
あいつはいつも、ちょうど面白くなってきたところで止める。
それを一番強く思い知らされたのは、『Fate/stay night』の体験版を遊んだときだった。
本当に性格が悪い。
「最初から最後までまとめて渡してくれればいいのに」
ぶつぶつ文句を言いながら、凌乃は1ページ目を開く。
「『魔法少女まどか☆マギカ』……? 何よこれ。今回のタイトル、前より地味じゃない? あいつ、ほんと名前つけるセンスないわね」
どうせ『カードキャプターさくら』と同じような、魔法少女の日常ものだろう。
凌乃はペン立てから鉛筆を取り出し、涼介の落書きを消しながら、自分なりの解釈で人物と背景を描き起こしていく。
「でも今回の敵、ほんと変な見た目ね。さくらのクロウカードとは全然違うじゃない」
描きながら、同時に話も追っていく。
あくまでラフなので、作業は早かった。
1時間もかからないうちに、第1話と第2話の修正はほとんど終わっていた。
全体的に、可愛らしく柔らかな雰囲気にまとめてある。
出来栄えに満足した凌乃は、そのまま第3話へ進んだ。
――『もう何も怖くない』。
「マミ先輩、格好いいじゃない。ティロ・フィナーレ!」
巨大なマスケット銃を構える巴マミを描きながら、凌乃は楽しそうに笑った。
「この人がチームのリーダー役なのかな?」
かなり頼りになる。
まだ契約もしていない鹿目まどかと美樹さやかという2人のお荷物を連れていても、魔女相手に余裕で立ち回っている。
「今回は『カードキャプターさくら』より、『月魔女変身』に近い感じね。友情がテーマなのかな?」
凌乃は続きをめくった。
「まだ願い事決めてないの? ずいぶん悩むわね」
巴マミがまどかとさやかに願いについて尋ねる場面を読み、凌乃は少し考え込んだ。
自分なら、そんなに悩まない。
「好きな漫画が全部アニメ化するとか、面白いギャルゲーが一生遊びきれないくらい出るとか……」
奇跡を起こせるキュゥべえなら、それくらい簡単に叶えられるのではないだろうか。
「私もこんな契約獣ほしいなぁ。アニメがヒットしたら、この子のぬいぐるみ絶対売れそう」
凌乃は顔を上げ、ベッドの脇に置かれた『月魔女変身』のぬいぐるみへ目をやった。
以前、瑠璃と一緒に買ったものだ。
もう少しすれば、『カードキャプターさくら』のグッズも出るだろう。
そうなれば、この周辺にはさらに可愛いものが増えるはずだ。
そんなことを考えながら、凌乃は続きを読み進めた。
やがて、巴マミがまどかを連れ、さやかの救出へ向かう場面に入る。
「この暁美ほむら、なんか嫌な感じ。ずっとまどかが契約するのを邪魔してるし、何を考えてるのか分からない」
「今回の魔女は危険だとか偉そうに言ってたくせに、マミ先輩にあっさり捕まってるじゃない」
「この程度で、よくあんな上から目線できるわね」
凌乃は、このキャラクターが少し気に入らなかった。
次のページをめくる。
鹿目まどかが、自分も魔法少女になり、これからは巴マミと一緒に戦いたいと伝える場面だった。
凌乃は心から、マミのために嬉しくなる。
「よかったじゃない。仲間ができて」
「そういえば、この話のタイトルは『もう何も怖くない』だったわね。そういう意味だったんだ」
凌乃は上機嫌で、さらにページをめくった。
「何よ。全然大したことないじゃない。マミ先輩が一方的に倒してるし」
視線がノートの上を流れていく。
だが、そのページの最後のコマで――
凌乃はふと違和感を覚えた。
巴マミのティロ・フィナーレをまともに受け、身体をリボンで拘束された魔女。
倒されたはずのそれが、突然大きく口を開いている。
その奥から、何かが這い出してこようとしていた。
「……え?」
嫌な予感がした。
とてつもなく、嫌な予感が。
次のページ。
本体らしき異様な頭部が、倒された魔女の口から飛び出す。
わずか1コマで巴マミとの距離を詰め――
目の前で止まる。
そして、鋭い牙が並ぶ巨大な口を開いた。
ポキッ。
凌乃の手にしていた鉛筆の芯が、力の入りすぎで折れた。
「……え?」
次のコマ。
宙にぶら下がる、少女の身体。
魔法少女の衣装が解けながら、その身体は地面へ落ちていく。
巨大な芋虫のような魔女は、それで終わらなかった。
落ちていく身体にまで食らいつき、そのまま飲み込んでいく。
巴マミ。
死亡。
死因――頭部喪失。
「…………」
高城凌乃は、しばらく完全に固まった。
握っていた鉛筆に、さらに力が入る。
そして次の瞬間。
パキンッ!
鉛筆が真ん中からへし折れた。
凌乃は無言でノートを閉じる。
深く息を吸った。
椅子から立ち上がる。
足早に部屋を出る。
向かう先は、廊下を挟んだ向かい側。
兄の部屋。
その扉の前で立ち止まった凌乃は、同年代の少女とは思えないほど勢いよく脚を振り上げ――
ドンッ!!
思いきり扉を蹴り開けた。
「高城ぇぇぇぇ!!」
一拍。
「涼介ぇぇぇぇぇぇ!!」




