第97話 新学期
翌日。
島川ビル、漫画編集部。
朝8時きっかりに出社した野村秀夫は、自分の席へ向かうなり、思わず足を止めた。
隣のデスクには、斎藤律がまだ座っていたのだ。
目の下には、墨でも塗ったような濃い隈ができている。
「斎藤、お前……まさか昨日からずっと会社にいたのか?」
引き継ぎを担当している野村も、昨日は残業していた。
それでも『カードキャプターさくら』の初回放送が無事に終わったことを確認した時点で帰宅している。
「まあな。『カードキャプターさくら』の視聴率と完走率が出るのは、放送終了から2時間くらいあとだし。他にも引き継ぎの仕事が山ほどあって、気づいたときには終電がなくなってた」
「仕事中毒かよ。そんな働き方してたら、そのうち過労で倒れるぞ」
あまりにも自分の身体を雑に扱っている同僚を見て、野村は呆れたように悪態をついた。
「心配するな。こう見えて、昨日も数時間はちゃんと寝た」
斎藤は欠伸をしながら立ち上がった。
休憩室でコーヒーでも淹れるつもりらしい。
「そういえば、昨日の視聴率と完走率はどうだった?」
野村もマグカップを手に取り、そのあとを追う。
今後の『カードキャプターさくら』を引き継ぐ以上、その数字は当然気になる。
「まあ、あまり期待できないとは思うけどな。かなり強引なスケジュールで放送まで持っていったし、同じ時間帯には人気番組も多い。視聴率を取るのは難しいだろ?」
作品そのものには自信がある。
ただ、NHKの衛星放送を契約している層は比較的年齢が高い。
そのうえ有料の教育系チャンネルで放送される子供向けアニメだ。
数字には限界があるだろう。
「お前だって、そう思ってたんじゃないのか? じゃなきゃ、こんなタイミングで辞表なんか出さないだろ」
野村はぶつぶつと話し続ける。
もしアニメが成功すれば、斎藤の実績は大きく伸びる。
コミックスの売上だって跳ね上がり、そのぶんボーナスも期待できる。
昇進できないにしても、その金を受け取ってから辞めればいいのに。
だが、斎藤は首を横に振った。
「俺が辞めるのは、時間を無駄にしたくないからだ。一度決めたなら、できるだけ早く次へ進んだほうがいい」
そこで斎藤は、野村をちらりと見た。
「それに、前にも言っただろ。いい作品は、ちゃんと評価されるって」
流し台の前に立ち、カップに残っていた水を捨てる。
それをコーヒーメーカーの下に置き、スイッチを押した。
そして、あまりにも平然とした口調で言った。
「昨夜の『カードキャプターさくら』は、NHKの有料衛星放送内で視聴シェア30%。完走率は80%だった」
「そうか……」
出社したばかりで頭がまだ起きていなかった野村は、ぼんやりと相槌を打つ。
だが、数秒後。
ようやくその数字の意味を理解した。
「……待て! 今、何%って言った!?」
コーヒーメーカーが低い駆動音を響かせる。
休憩室に濃い香りが広がった。
斎藤は出来上がったコーヒーを一口飲み、苦味で少しだけ眠気を飛ばす。
「NHKの有料衛星放送は全部で125チャンネル。昨夜、そのうちの視聴者全体の30%が『カードキャプターさくら』を見ていた。その中で最後まで見たのが80%。ここまで説明しないと分からないか?」
眉をひそめながら言い残し、斎藤はカップを持って編集部へ戻っていった。
野村は、その場に立ち尽くしていた。
そんなに数字がいいのか?
国民的アニメである『ちびまる子ちゃん』ですら、最高視聴率は39.9%。
もちろん、無料の地上波テレビとNHKの有料衛星放送では、母数も視聴環境もまるで違う。
単純に比較できる数字ではない。
だが――完走率は別だ。
80%という数字は、視聴者の大半が途中でチャンネルを変えず、最後まで見届けたということ。
十分に看板級のアニメ番組と呼べる結果だった。
野村にはもう、次号のNHK関連情報誌にある人気番組投票で、『カードキャプターさくら』が上位へ食い込む光景まで想像できた。
「おい! お前、辞表ってまだ取り下げられないのか?」
この成績なら、本当に昇進の可能性が出てくるかもしれない。
これほど能力のある同僚が、職場で不当に冷遇された挙げ句に辞めていくのを、野村は見たくなかった。
「必要ない」
斎藤は振り返らなかった。
「もう決めたことだ。それに、副編集長の椅子より面白そうな場所を見つけた」
自分のデスクの前で立ち止まり、斎藤は手にしたコーヒーカップを持ち上げた。
野村に向かって笑いかけると、そのまま残りを一気に飲み干した。
◇
朝。
千葉第一高校の教室。
「大丈夫~♪ きっと大丈夫~♪ 奇跡だって起こせるよ~♪」
教室へ入った瞬間、高城凌乃の耳に聞き覚えのあるメロディが飛び込んできた。
入り口近くに座っている数人の女子生徒が、『カードキャプターさくら』の主題歌を口ずさんでいる。
そのまま昨日見たアニメについて、楽しそうに話していた。
知らない人間ばかりの新しい環境に少し緊張していた凌乃だったが、その光景を見た途端、肩の力が抜けた。
「おはよう、凌乃!」
窓際の席から、新垣瑠璃が笑顔で手を振っている。
真新しい制服姿だった。
凌乃はすぐにそちらへ歩いていった。
入学初日は自由席で、正式な席はあとでくじ引きによって決められる。
それが千葉第一高校の昔からの決まりだった。
だから瑠璃は少し早めに登校し、凌乃のぶんまで隣の席を確保していた。
中学時代と同じように、前後で並ぶ形になる。
「瑠璃と同じクラスなんて、ラッキー☆」
「私たち、入試の点数も近かったみたいだからね。これもお兄さまに勉強を見てもらったおかげかな」
まあ、確かに。
あいつがいなかったら、そもそもこの学校に合格なんてできなかった。
勉強に関してだけなら、凌乃も涼介のことをかなり評価している。
ただし、それを素直に認める気はない。
「私だってちゃんと勉強したんだからね。全部あいつのおかげみたいに言わないでよ」
「ふふ、そうだね。凌乃もちゃんと頑張ってたもんね。さすが」
瑠璃は楽しそうに笑う。
「そういえば昨日、凌乃とお兄さまが一緒に作ったアニメ見たよ。主題歌もすごく良かった。今朝もみんなその話をしてたし」
「もし原作者が同じクラスにいるって知られたら、サインを頼まれたりするかもね」
褒められた凌乃は、見るからに機嫌を良くした。
もっとも、自分が高城留美子だとクラスメイトに明かすつもりはない。
18禁ゲームの原画を担当したせいで、一度は親友まで失いかけたのだ。
学校で妙な目で見られるのは御免だった。
やがて予鈴が鳴り、騒がしかった教室はすぐに静かになった。
教師が大量の問題用紙を抱えて入ってくる。
「凌乃、ちゃんと復習した?」
後ろから瑠璃が小声で尋ねた。
「新学期早々、学力テストがあるらしいよ」
「……え?」
凌乃の身体が固まった。
その顔に浮かんだ引きつった笑みを見て、瑠璃が驚いたように口元を押さえる。
「まさか……全然やってないの?」
そんなの当たり前でしょ!?
誰がそんなの覚えてるのよ!
「お兄さま、何も言ってくれなかったの? 確か2年生も同じように学力テストがあるはずだけど……」
◇
その頃。
涼介は、2人のちょうど真上にある教室で、退屈そうにペンをくるくると回していた。
前の席から問題用紙が回ってくるのを待っているところだ。
夏休み中はあまりにも忙しく、新学期早々に学力テストがあることなど完全に頭から抜けていた。
もっとも、涼介自身にとっては大した問題ではない。
日本の高校で習う範囲なら、中学を卒業する前にほとんど独学で終えている。
復習?
そんなものは、もう4年ほど前からほとんどした記憶がなかった。
だが、いざ問題用紙を受け取った瞬間。
涼介はふと、あることに気づいた。
「……しまった」
凌乃が元々、勉強の得意なタイプではなかったことを忘れていた。
夏休み中、あれだけ遊び倒していたのだ。
ただでさえ完全に定着していたとは言い難い知識が、かなり抜け落ちている可能性もある。
涼介は問題用紙を見下ろしながら、今さらになって少しだけ嫌な予感を覚えた。
――事前に、ちゃんと復習させておくべきだったかもしれない。




