第95話 お兄ちゃんは妹を守るものでしょ?
「お兄様、くれぐれも凌乃とは適切な距離を保ってくださいね。もし凌乃に何か変なことをしたと分かったら、警察に通報しますから」
カフェの前で涼介と別れる際、新垣瑠璃は丁寧に一礼して礼を告げたあと、真顔でそんなことを言い残した。
涼介は返す言葉もなかった。
どうやら完全に変態認定されてしまったらしい。
凌乃のように、その場で言うだけ言ってすぐ忘れるタイプではない。瑠璃は本気で涼介を変態だと思っているようだった。
「ともかく、今日はありがとうございました。夏休みが終わるまでには、このゲームを最後までクリアしてみます。もし途中で分からないところがあったら、兄上様に聞いてもいいですか?」
「俺に聞くのは……さすがにまずくないか?」
涼介は頬を引きつらせた。
「私の周りにはオタクがいませんから。普通の友達にこんなことを聞くのはちょっと……でも兄上様なら問題ありません。なので、お願いします」
そう言い残すと、瑠璃は小走りで去っていった。
どういう理屈だ、それ。
女の子が18禁ゲームで詰まるたびに自分へ攻略法を聞きに来るなんて、これでは強制的に変態役を押しつけられているようなものではないか。
さすがの凌乃だって、ここまで酷いことは言わないだろう。
涼介は首を振り、心の中でため息をついた。
家に帰った涼介は、そのまま部屋へ戻って原稿の続きを進めるつもりだった。
ところがリビングの前を通りかかったところで、中から鈴を転がすような笑い声が聞こえてきた。
覗いてみると、凌乃がソファにうつ伏せになり、ショートパンツから伸びた両脚をぱたぱたさせながら、楽しそうに携帯電話を握っていた。
誰かと電話しているらしく、さっきからずっと楽しげに喋り続けている。
こんなに元気な凌乃を見るのは久しぶりだった。
涼介も少し安心する。
「そうなの。しばらく話してなかったから、すごく不安だったんだから」
「そうそう。私とあいつが一緒に作った漫画、もうすぐアニメが始まるの。絶対見てよね!」
「――」
考えるまでもない。
相手は新垣瑠璃だろう。
女の子同士の関係というのは不思議なものだ。
互いの気持ちさえ確認できれば、まるで何事もなかったかのように仲直りできてしまう。
男同士なら、下手をすれば校庭で一度殴り合ってからでなければ収まらないかもしれない。
涼介はキッチンで水を1杯飲むと、そのまま2階へ上がった。
電話中の凌乃はその姿に気づき、受話器へ向かってさらに二言三言話してから、
「じゃあ約束ね。学校で!」
そう言って電話を切った。
ソファから勢いよく飛び起き、バフィー柄のスリッパを鳴らしながら階段を駆け上がる。
そしてそのまま、涼介の部屋のドアを勢いよく開けた。
ちょうど服を脱ぎかけていた涼介が、呆れた顔で振り返る。
「俺の部屋に入るときはノックしろって言ったよな?」
仕方なく、脱ぎかけていた服を着直す。
凌乃の頬がわずかに赤くなった。
しかしすぐに平静を装い、
「べ、別に前にも見たことあるし! 大した身体でもないくせに、誰が見たがるのよ!」
「それを言うためだけに俺の部屋へ来たのか?」
「違うわよ! 瑠璃から電話が来たの。仲直りしたから、一応あんたにも教えておこうと思っただけ」
凌乃は腰に両手を当て、満面の笑みを浮かべていた。
ここ数日まとわりついていた陰鬱な空気は、すっかり消えている。
「そうか。それはよかったな」
「何よ、あんた、とぼけてるの?」
「瑠璃が言ってたわよ。あんたが電話して、ちゃんと説明してくれたから安心できたって。それで、これからも友達でいられることになったの」
その言葉を聞き、涼介は少し意外そうに凌乃を見た。
瑠璃はそんなふうに説明したのか。
てっきり凌乃に全部告げ口するものだと思っていた。
妹の親友に、自分で作った18禁ゲームを勧めたことまで。
「とにかく、今回は本当に助かったわ!」
「お礼はちゃんと用意してあげるから!」
それだけ言い残し、凌乃は部屋を出ていこうとする。
「おい。そこまで言うなら、せめて『ありがとう』くらい言っていけよ」
涼介はその背中を見ながら、苦笑交じりに首を振った。
「何よ。イリヤだって言ってたでしょ? お兄ちゃんは妹を守るものでしょ? だったら私を助けるのは当然じゃない」
その言葉と同時に、ドアが閉まった。
涼介は一瞬呆気に取られたものの、すぐに笑みを浮かべる。
そんなことを言われてしまえば、反論のしようがない。
きっと、そういうものなのだろう。
見返りなんて求めず、困ったときには手を差し伸べる。
だからこそ、兄妹なのだ。
8月最後の1週間は、あっという間に過ぎていった。
涼介は何日も続けて朝早くから出かけ、夜遅くに帰宅し、さらに深夜まで作業を続けた。
その甲斐もあって、ようやく『Fate/stay night』の販売ルートを確保することができた。
M展での大ヒットという実績があったため、秋葉原の大手ゲームショップ数店舗との商談も驚くほど順調に進んだ。
これだけ売れている作品を、わざわざ断る店などない。
ネット上でも『Fate/stay night』の評判は急速に広がり始めていた。
先行販売された初回分7500本は、すでにかなり大きな反響を呼んでいる。
会社の公式サイトに設置された唯一のコメント欄も、再販を求める声でとっくに埋め尽くされていた。
涼介は会社資金の半分を投入し、新たに1万本をプレス。
秋葉原の店頭へ流したところ、こちらも飛ぶように売れた。
発売初日だけで半分が消えたのだ。
このペースなら、1週間もあればほぼ完売するだろう。
涼介の予想を遥かに上回る勢いだった。
この調子なら、年間10万本以上も十分狙える。
慌てて追加生産を手配することになり、山崎のおじさんの店にあるディスク複製設備は、このところほとんど休む暇もなく稼働し続けていた。
会社の資金も急速に積み上がっていく。
税金を差し引いたあとでも、会社の手元資金は7100万円に達していた。
次に増産する分は多少販売ペースが落ちるだろうが、それでも9月中に1億円を突破する可能性は高い。
今後は通信販売のルートも早急に整備する必要がある。
それが実現すれば、利益の伸びはさらに加速するはずだった。
それ以外にも、『Fate/Zero』の残り3巻を書き上げることができた。
挿絵についても凌乃に頼み、すでに完成している。
十数枚程度の簡単なものだったので、凌乃にとってはそれほど大きな負担ではなかった。
「このサイズのラフって……もしかして、ライトノベルの挿絵を描けってこと?」
依頼したとき、凌乃はかなり驚いていた。
涼介が渡したラフに描かれている人物は、アルトリア以外、これまで見たことのないキャラクターばかりだったからだ。
「別に前日譚を書いたんだ。第4次聖杯戦争の話。順調にいけば、9月下旬には完成版を読めると思うぞ」
「原稿、先に読ませてくれないの?」
作者本人がすぐそばにいるのだ。
だったら原稿を直接読ませてもらうのが一番手っ取り早い。
他の読者より先に、自分が一番乗りで読める。
そんな特別感を味わえるなんて最高ではないか。
「ダメだ」
涼介は一切迷わず拒否した。
「何よ、ケチ! まさか私からまで本代を取るつもり?」
凌乃は不満そうだったが、涼介は「原稿はもう編集に渡した」と言って誤魔化した。
実際に渡したのはコピーで、元のノートは今も涼介の机の引き出しに大切にしまってある。
冗談じゃない。
HFルートだけでも拳でシナリオ変更を迫ってきたような妹だ。
出版前に『Fate/Zero』の全編なんて読ませたら、どうなるか分かったものではない。
本気で床に押さえつけられて、原稿を書き直すまで解放してもらえないかもしれない。
何しろ凌乃は妹という立場をいいことに、遠慮なく涼介へ掴みかかってくる。
かといって涼介が本気で抵抗して、変なところに手でも触れようものなら、今度こそ本当に変態扱いされかねない。
ならば、最初から避けるに越したことはない。
正式に出版されてしまえば、凌乃が読んだところでもう手遅れだ。
そのときこそ、盛大に驚かせてやればいい。
夏休みが終わる2日前。
涼介は東京へ向かい、原稿と挿絵の原画を早川留美へ手渡した。
仕事熱心な女性編集者は胸を叩き、必ず9月下旬の発売に間に合わせてみせると請け負ってくれた。
涼介の予定どおりだった。
同時に『Fate/stay night』もさらに増産するつもりでいる。
ゲームと小説で互いの売上を押し上げ、できれば一気に大きなブームへ繋げたい。
資金さえ十分に確保できれば、これから大量にアニメーターを募集するときにも、それなりの待遇を提示できる。
「アニメ制作はゲームとは違うからな。何千、何万枚っていう作画を、凌乃1人だけに任せたところで、腕が壊れるまで描かせても終わらないだろうし」
もっとも、その前にもう1つ、大切なことが残っている。
涼介は机の上のカレンダーへ目を向けた。
**8月30日。**
その日付には、赤いペンで大きな丸がつけられている。
「時間が経つのは早いな」
今日は――
**『カードキャプターさくら』のアニメ、第1話放送日だった。**




