第94話 危うくいい人だと思うところだった
「じゃあ、今日はここまでだね」
練馬駅前。
涼介は凌乃と一緒に、鳳凰院紗織と別れた。
同時に、今後の予定についても確認しておく。
来週は夏休み最後の1週間だ。
その間に会社を正式に立ち上げ、『Fate/stay night』の販売ルートも確保しなければならない。
今後の資金源として、ここは何より重要だった。
アニメ制作が本格的に始まれば、口座にある金など恐ろしい勢いで消えていく。
家に帰った涼介は、そのまま自室へ籠もり、昼夜を問わず原稿を書き始めた。
一方の高城凌乃は、自室のベッドの上で枕をぎゅっと抱きしめていた。
枕元に置かれた携帯電話をぼんやりと見つめ、何かを待ち続けている。
勇気を振り絞ってメールを送ってから、もう2時間。
それなのに、携帯は一度も震えていなかった。
「瑠璃……まだ怒ってるのかな……」
「あと1週間で新学期か……同じクラスになれるかな……」
数日が経ち、【Heaven's Feel】から受けた衝撃もようやく薄れてきた。
そのせいか、今度は親友と学校で顔を合わせることへの不安が、再び胸の中に広がり始めている。
凌乃は寝返りを打ってドアのほうを見たあと、時計へ視線を移した。
すでに0時を回っていた。
普段なら、とっくに眠っている時間だ。
けれどM展が終わって以来、毎晩2時を過ぎるまで眠れない。
疲れ切って、何も考えられなくなってからでなければ、なかなか眠りにつけなかった。
新学期。
瑠璃に、あのときと同じ嫌悪のこもった目で見られる。
そう想像するだけで胸が苦しくなり、目の奥に涙が滲んでくる。
「……どうしよう」
金髪の少女は不安そうに枕を抱きしめた。
そして答えの出ないまま、いつしか眠りへ落ちていった。
その頃、涼介はまだ自室で原稿に向かっていた。
まずは『Fate/Zero』を一気に書き上げる。
それが今の最優先事項だ。
何事にも順番というものがある。
全体の作業量を考えれば、全4巻しかないこの作品が一番片づけやすい。
新学期までにすべて書き終えることも、十分可能だろう。
現在は、ちょうど三王の宴まで進んでいた。
集中していると、時間はあっという間に過ぎる。
ようやくペンを置いた頃には、すでに深夜2時になっていた。
「ふぅ……!」
涼介は大きく息を吐き、欠伸をする。
そろそろパジャマに着替えて寝よう。
そう思ったところで、携帯のディスプレイに未読メールの表示が出ていることに気づいた。
何気なく携帯を開き、内容を確認する。
「ん?」
意外な相手だった。
新垣瑠璃からだ。
『お兄様、明日お時間はありますか? お会いしてお話ししたいことがあります』
相変わらず、ずいぶん丁寧な書き出しだった。
久しぶりに見る彼女からのメールに、涼介は一瞬、時間でも巻き戻ったのかと思ってしまった。
M展で鉢合わせして以来、凌乃の親友から連絡が来たことは一度もない。
『今日からもうお兄様とは話しません』
あそこまできっぱり宣言していたのだから、少なくとも新学期までは意地を張り続けるものだと思っていた。
それが、まだ大して日も経っていないうちに向こうから連絡してきたらしい。
涼介は少し考え、返信を打った。
『大丈夫。場所は?』
送信してから、わずか5秒。
すぐに返事が届いた。
『以前お会いしたカフェでお願いします。午後2時、前と同じ席でお待ちしています』
『分かった』
翌日。
千葉駅の近く。
新垣瑠璃は重い足取りで歩いていた。
月の半ばにあったあの仕事以来、これほど長い間、高城凌乃と連絡を取らなかったのは初めてだった。
本音を話せる唯一の友人が、自分の日常から消えてしまった。
胸の中が空っぽになったような感覚だった。
仕事。
また仕事。
何も考えられなくなるほど自分を疲れさせている間だけは、少し楽になれた。
だが、新学期はもう目前だ。
夏休み最後の1週間くらいは家で過ごしなさいと母親に言われ、外での撮影仕事も入れられなくなった。
立ち止まった途端、頭の中に浮かんでくるのは凌乃の笑顔ばかりだった。
一緒に笑ったこと。
一緒に遊んだこと。
どれだけ追い払おうとしても、消えてくれない。
そんな中、昨夜。
凌乃からメールが届いた。
『私たち……まだ友達でいられる?』
その一文を見た瞬間、新垣瑠璃は耐えられなくなった。
涙が次々と溢れてきた。
あの日、あれほどひどいことを言ったのに。
それでも凌乃のほうから連絡してくれた。
すぐに返事をしたかった。
文章だって何度も書いた。
それなのに、最後の送信ボタンだけが押せなかった。
今でも凌乃のことが好きだ。
それだけは、はっきり分かっている。
たとえ彼女がオタクだったとしても、その気持ちは変わらない。
けれど、また同じような場所に出くわしたとき、自分が嫌悪感を抑えられるかどうかは分からなかった。
もし抑えられなければ、また凌乃を傷つけてしまうかもしれない。
新学期が始まっても自分の中の拒絶感が消えず、もう一度あの日と同じことをしてしまったら。
今度こそ、本当に取り返しがつかなくなる。
瑠璃は以前、『時雨沢恵一』本人からサインをもらった『キノの旅』を開いた。
そこに書かれている言葉へ目を落とす。
――君は、本当に相手のことを十分に知っている?
あの出来事が起きる前なら、迷わず「知っている」と答えただろう。
けれど今は、分からない。
だから新垣瑠璃は涼介にメールを送り、会う約束を取りつけた。
認めたくはないが、今の凌乃を一番理解しているのは、もしかすると涼介なのかもしれない。
カフェへ入る。
以前と同じ席には、すでに高城涼介が座っていた。
彼は瑠璃に気づくと、軽く手を上げる。
「お兄様、お時間を取っていただいてすみません」
少女はスカートの裾を整え、涼介の向かいに腰を下ろした。
新垣瑠璃の視線は落ち着かず、なかなか彼の顔を正面から見ることができない。
あれほどひどいことを言っておきながら、今さら厚かましく助けを求めている。
彼女にとっても、かなり気まずい状況だった。
俯いたまま、指をぎゅっと握る。
「それで、今日はどうしたの?」
涼介はコーヒーをひと口飲んでから尋ねた。
「まず……お兄様に謝りたくて。あの日は、ひどいことを言ってしまいました」
「まあ、気にしなくていいよ。厳密に言えば、君が言ってたことも間違いじゃないし。凌乃が18禁ゲームのイラストを描くようになったのは、俺にも原因があるから」
最初にデモ版の原画を手伝わせていなければ、凌乃が『Fate/stay night』の制作に深く関わることもなかった可能性が高い。
そうなれば、新垣瑠璃に知られることもなかった。
原因の一端が自分にある以上、問題を解決する手助けくらいはするべきだろう。
そもそも、そんな事情がなくても涼介は手を貸したはずだ。
これだけ「お兄様」と呼ばれているのだから。
妹の悩みを解決するのも、兄の役目というものだろう。
「それで……凌乃とは、これからも友達でいたいんだろ? そのために俺を呼んだの?」
瑠璃がなかなか話を切り出さないので、涼介のほうから本題に入った。
「はい。もっと凌乃のことを知りたいんです。だから、お兄様にお願いしたくて……」
新垣瑠璃は顔を上げ、まっすぐ涼介を見る。
「凌乃と仲直りする方法を、一緒に考えてください」
「でも、君はオタクが嫌いなんだろ?」
「それでも、凌乃は特別です!」
瑠璃は迷わず言い切った。
しかし、少し間を置いてから続ける。
「……お兄様も、一応は特別です。オタクではありますけど、私を助けてくださるなら、いい人だと思うことにします」
なんだそれ。
たった1週間で、またいい人認定されたぞ。
しかも凌乃のときは即答だったくせに、自分にはしっかり条件までついている。
完全についで扱いじゃないか。
「まあ、そこまで言うなら、1つ方法を教えてあげるよ。興味があるなら試してみればいい」
涼介は少し間を置き、持ってきた鞄から『Fate/stay night』のゲームケースを取り出した。
そのまま、瑠璃の前へ差し出す。
「凌乃のことをもっと知って、仲直りしたいなら、まずはあいつが好きなものに触れてみるのが一番だ」
目の前に置かれたケースを見て、新垣瑠璃の表情がなんとも言えないものになった。
パッケージの右上には、大きく「18禁」と書かれている。
裏返してみれば、肌の露出が多いCGも載っていた。
「つまり……凌乃が好きなゲームを、私にもやってみろということですか?」
「そういうこと。オタクそのものに拒否感があるなら、少しずつ慣れていけばいいだろ?」
涼介からすれば、瑠璃の嫌悪感は長年積み重なった先入観によるところが大きい。
変えたいのなら、実際に触れてみるしかない。
これでも受け入れられないのであれば、無理に関係を修復するより、お互い距離を置いたほうがいいのかもしれない。
「妹の友達に、自分で作った18禁ゲームを勧めるなんて……」
新垣瑠璃は深く息を吸った。
そして、どうしても抑えきれないというように、嫌そうな顔をする。
「さっきの言葉、撤回します。お兄様はやっぱり変態ですね。あまりにも普通にしているから、危うくいい人だと思うところでした」
「……?」
方法を考えてくれと言ったのは君じゃないか。
涼介は思わず額を押さえた。
ほかに手段があるなら。
あるいは、ここまで話がこじれる前なら。
涼介だって、もっと穏当な方法で瑠璃のオタクに対する印象を変えようとしただろう。
だが、もう秘密は完全に知られている。
しかも一度は「絶交」まで話が進んでしまった。
ここまで来た以上、多少荒っぽいやり方になるのも仕方がない。
「……でも、凌乃のためですから。今回はお兄様を信じてみます」
瑠璃はもう一度、ゲームケースを見つめた。
「これをやればいいんですよね?」
「まあ、ちゃんと最後までやってみればいいよ。途中を飛ばしたりしないでさ」
新垣瑠璃はしばらく迷っていたものの、最後にはゲームケースを自分の鞄へしまった。
「……分かりました」




