第93話 会社の拠点
「できれば今後は、高城留美子先生に草稿を簡単に描き直してもらえると助かります。そのほうが、ずっとイメージを掴みやすいので」
帰り際、斎藤律は高城兄妹を島川ビルの入口まで見送り、少し迷った末にそう提案した。
「凌乃に手直ししてもらうのか? 別に構わないけど、俺の絵でも大体の意味は伝わってたと思うけどな」
涼介は不思議そうな顔をする。
重要なカットは一応きちんと描いたつもりだ。
こういうものは、大まかなイメージさえ伝われば十分なのではないだろうか。
「……」
あんな絵、誰が分かるんだよ!?
斎藤の口元が引きつった。
どうやら目の前の少年は、自分の画力を正しく認識していないらしい。
数え切れないほどの原稿を見てきた斎藤ですら、あの抽象画から内容を読み取るのは難しかった。
さっきだって、ほとんど登場人物の台詞だけを頼りにストーリーを追っていたのだ。
「まあ、斎藤さんがそう言うなら、ちゃんとした絵コンテは凌乃に仕上げてもらうよ」
涼介の返事を聞いて、斎藤はほっと息をついた。
それが一番だ。
あの抽象画を頼りに作品全体の映像イメージを固めろと言われても、さすがに無茶がすぎる。
斎藤律と会った日から、さらに2日が過ぎた。
涼介は凌乃と鳳凰院紗織を連れ、会社設立に必要な定款の認証や資本金の払い込みといった手続きを済ませた。
鳳凰院が事前に準備を進めてくれていたおかげで、手続きはかなり順調だった。
法務局へ設立登記を申請する前に残された大きな問題は、本店所在地をどこにするかだけだ。
8月22日、土曜日。
涼介は凌乃を連れて東京へ向かった。
今日は鳳凰院と前もって約束しており、実際に候補地を見て会社の拠点を決める予定になっている。
秋葉原駅前では、鳳凰院紗織がすでに待っていた。
今日はいつものオタク趣味全開の格好ではない。
珍しく、かなりカジュアルな服装だった。
黒いキャミソールの上からゆったりとした白い上着を羽織り、片方の肩を無造作に覗かせている。
長い髪は後ろでポニーテールにまとめ、顔にはラフにサングラスを掛けていた。
涼介の姿を見つけると、鳳凰院は小首を傾げ、人差し指でサングラスを少し持ち上げる。
その奥に覗く澄んだ瞳は、楽しげに笑っていた。
「今日の格好、好き?」
「……」
妹の目の前で、堂々とからかわれてしまった。
まるで恋人や、少なくともいい雰囲気の相手にでも聞くような台詞だ。
鳳凰院はこういうことを平然と言ってくる。
もっとも、涼介も最近ではだいぶ慣れてきた。
むしろ真面目に彼女の全身を見てみる。
服そのものはかなりシンプルだ。
だが、鳳凰院が着ると妙に映える。
「似合ってるよ」
素直に褒めると、
「ふん」
隣から小さな鼻息が聞こえた。
凌乃は涼介の視線に気づいたらしく、鳳凰院の胸元をじっと睨んでいる。
何よ、そのいやらしい身体。
私に見せつけてるわけ?
凌乃はこっそり自分の胸元へ視線を落とした。
同年代の中では十分に恵まれているほうだ。
それでも相手と比べれば、まだかなり差がある。
「そろそろ行きましょうか。今日は何か所も見ないといけないから」
鳳凰院は唇に笑みを浮かべたまま、先に歩き始めた。
――ちゃんと見てくれたんだ。
――前より少し大胆になったかも。
彼女の鼓動が、ほんの少しだけ速くなった。
その日の午後、3人は10件以上のオフィス物件を見て回った。
候補地は秋葉原、練馬、杉並。
すべて見終えたところで近くの喫茶店へ入り、3人で相談することになった。
「まず、秋葉原の古いビルは却下でいいでしょ?」
真っ先に意見を出したのは凌乃だった。
「遠いし、設備も古いし。私、あんなところで絵を描くのは嫌だから」
今日、凌乃が一緒についてきたのには理由がある。
涼介から、家賃を節約するために今借りている仕事場を引き払い、機材や道具をすべて新会社へ移してはどうかと提案されていたのだ。
そうなれば、今後は自分もそこで絵を描くことになる。
だからこそ、凌乃もかなり乗り気で物件を見て回っていた。
とはいえ、秋葉原は遠慮したい。
この辺りはパソコンショップが多く、ゲーム会社や関連店舗も少しずつ集まり始めており、以前よりオタク文化の色が濃くなっている。
それでも通いやすさや家賃などを総合的に考えれば、3人の会社にはあまり向いていなかった。
鳳凰院も頷いた。
「確かにね。坪単価が2万円近いもの。練馬と比べると高すぎるわ」
「時雨沢はどう思う?」
両手で頬杖をつき、手の甲に頬を乗せたまま、鳳凰院が涼介を見る。
彼女自身は、正直どこでも構わなかった。
学校へ通う必要もないので、会社の近くに部屋を借りれば済む。
極端な話、会社に泊まり込んだっていい。
「俺は、練馬で見たあのビルがいいと思う」
「ちょっと待って。あれって、あの空いてたオフィスビルのこと?」
午後、3人は練馬区にある5階建ての小規模なオフィスビルを見ていた。
外壁は古びていたが、中は意外と悪くない。
前のテナントが内装工事を済ませたあと、わずか1年で退去したらしい。
坪単価は8000円。
そのうち3フロアを借りれば、合計120坪。
およそ400平方メートルの広さになる。
「一番手間がかからないだろ? フロアの間仕切りもあるし、基本的な内装や設備も揃ってる。机とか必要な備品を入れれば、すぐ使える」
「なによ。杉並にあった新築のほうを選ぶと思ってたのに」
凌乃は少し不満そうだった。
あちらのほうが明らかに綺麗だった。
坪単価だって、たった2000円高いだけなのに。
「予算が足りないんだよ」
涼介はオフィスの家賃を月100万円以内に抑えるつもりだった。
会社を立ち上げたばかりの段階で、事務所に必要以上の金をかける気はない。
仕事ができれば、それで十分だ。
3フロアあれば、60人以上が働くスペースも確保できる。
いずれ資金に余裕ができたら、残りの2フロアも借りればいい。
そうなれば、小規模とはいえ1棟を丸ごと使えるメリットも出てくる。
「ふん。口座にはあんなにお金があるのに。ケチ」
凌乃が文句をこぼした。
会社への出資を決めた際、凌乃は今回のゲームで得た収益をすべて会社の資金に回していた。
どうせ自分では、それほど大金を使う予定もない。
『カードキャプターさくら』から入ってくる印税だけでも、とても使い切れないほどなのだ。
鳳凰院も同じ判断をしている。
ゲームの権利を会社へ移すための費用や、設立に必要な諸経費を差し引いても、現在使える資金は約3800万円あった。
涼介は笑っただけで、言い返さなかった。
高校生にとっては途方もない大金かもしれない。
だが、会社を動かす資金として考えれば、計画もなく使っているとあっという間になくなる。
使うべきところに使わなければ意味がない。
「じゃあ、ここで決まり?」
鳳凰院が尋ねた。
「うん」
涼介は凌乃を見る。
少女はぷいっと顔を背けた。
「2人とも賛成なら、私が反対したって意味ないでしょ。そこでいいわよ。なんだかんだ、家からも近いし」
相変わらず素直じゃない。
現地では、自分の作業スペースをどこにするか、こっそり考えていたくせに。
涼介はおかしそうに凌乃を見た。
「じゃあ、物件を正式に決めて、本店所在地を確定させたら、すぐ設立登記を進めよう。早ければ来週には会社として動き始められるはずだ」
「よろしく」
鳳凰院は首を横に振り、涼介にウインクした。
「このくらい大したことじゃないわ。それより、その後はどうするつもり? もう人を集め始めてるって言ってたでしょう?」
「うん。斎藤さんとは話がついた。2か月後を目処にアニメ制作を始める。それまでに必要な人材も少しずつ集めておくつもりだよ」
「でも、私、その辺りは全然分からないのよね」
鳳凰院は少し間を置いてから続けた。
「私が聞きたいのは、もうギャルゲーは作らないの?」
その問いに、涼介は少し考え込んだ。
もちろん、ゲーム制作をやめるつもりなどない。
アニメに比べれば開発費はずっと安く、短期的な収益性も高い。
もともとゲーム事業を会社の土台にして、そこで稼いだ利益をアニメ制作へ回すつもりだった。
会社にとっての資金源だ。
手放す理由はない。
ただし、今はプログラマーを新しく雇うだけの余裕がない。
つまり次回作を作るなら、プログラム開発は引き続き鳳凰院がほぼ1人で背負うことになる。
「少し休まなくて大丈夫なのか?」
「あなたの物語を読むことが、私にとっては休息みたいなものよ」
鳳凰院は目を細めて笑った。
そして、わざとらしく隣の凌乃へ視線を送る。
その瞬間、金髪の少女の全身にぞわっと鳥肌が立った。
何なの、この女。
よくそんな恥ずかしい台詞を真顔で言えるわね!?
「それなら……並行して進めるのも無理ではないか」
涼介は顎に手を当てた。
執筆スケジュールを頭の中でざっと計算してみる。
今のところ、もう1本ゲームのシナリオを抱える程度なら、どうにか時間は作れそうだった。
「それで、新作のジャンルはもう考えてるの?」
「たぶん、学園青春ものかな」
そう答えたところで、涼介は思わず隣の妹を見た。
少し前、ソファに押し倒されて胸をぽかぽか殴られたときの光景が脳裏をよぎる。
……なんだか、自分から地雷原の奥へ奥へと進んでいる気がしてきた。
会社設立後に動かす予定の新企画は2本。
どうやら、そのどちらもこの妹の地雷を盛大に踏み抜くことになりそうだった。




