第90、91話 悲劇は心を癒やす
M展であの一件が起きてから、2日が過ぎた。
水曜日。
涼介は昨夜、原稿を仕上げるために遅くまで起きていたせいで、目を覚ましたのは10時を回ってからだった。
簡単に身支度を済ませ、朝食を取るためリビングへ向かう。
そこで意外な姿を目にした。
高城凌乃が、リビングのソファに座っていたのだ。
ここ2日ほど、食事の時間を除けば自室から一歩も出てこなかったというのに。
涼介の姿に気づくと、少女はじろりと睨んできた。
「起きるの遅すぎない? 今日、出かけるんじゃなかったの?」
そういえば今日は、もともと東京へ行く予定だった。
以前から鳳凰院と約束していた日で、法務局へ行き、会社設立の登記手続きを進めることになっていた。
「言い忘れてた。金曜日に延期したよ」
妹の様子を考えると、予定どおり出かけられない可能性もあると思い、鳳凰院に頼んで2日ずらしてもらったのだ。
「何よ。せっかく朝早く起きたのに」
高城凌乃は不満そうに頬を膨らませた。
「学校が始まるまでずっと落ち込んでるかと思ったけど、少しは元気になったみたいだね」
「誰が落ち込んでるって? 部屋でゲームしてただけなんだけど」
凌乃はふんと鼻を鳴らした。
もし強がりにもレベルがあるなら、彼女は間違いなく最高ランクだろう。
昨夜、涼介がトイレへ行くために起きたとき、凌乃の部屋からかすかな泣き声が聞こえた気がする。
プライドが高すぎるのも考えものだ。
涼介はそのまま母の美恵子が残してくれた朝食を食べようと、ソファの前を通り過ぎた。
だが凌乃の横を通ったところで、不意に呼び止められる。
「ねえ、あんたさ……ちょっと酷すぎない?」
「?」
ここ2日、妹とはほとんど言葉を交わしていない。
怒らせるようなことをした覚えもなかった。
それなのに凌乃は、今にも飛びかかって噛みつきそうな顔をしている。
「とぼけないでよ! HFルート、もう1つのエンディングまで見たんだから……【天の杯】!」
その言葉と同時に、美恵子が庭で植木の手入れをしている隙を狙い、高城凌乃が一気に距離を詰めた。
涼介の襟元をつかみ、そのままソファへ押し倒す。
「ちゃんと説明してもらおうじゃない! 『もっといい結末がある。士郎と桜は幸せになれる』って、どういう意味よ!?」
凌乃は覚えていた。
【桜の夢】という悲しい結末を迎えたあと、HFルートに真エンディングが存在するかどうか、わざわざ涼介に確認したのだ。
あのとき言われた言葉は、一字一句忘れていない。
「えっ?」
涼介は思わず声を漏らした。
親友と喧嘩して、あれだけ落ち込んでいたはずなのに。
そんな状態でも普通にゲームを進めていたのか?
あの意地の悪い言い方をした以上、プレイヤーである妹から報復を受けるだろうとは予想していた。
だが、まさかこんなに早いとは思わなかった。
「『士郎は死なないよ……』」
「『生きたいんでしょ?』」
「『奇跡を見せてあげる。今度のはすごいよ。だって本物の魔法なんだから』」
「『お兄ちゃんは妹を守るものでしょ?』」
「『私は士郎のお姉ちゃんなんだから、弟を守らなきゃね』」
昨夜見たあの結末が、凌乃の脳裏に蘇る。
イリヤが画面に現れた瞬間、彼女は完全に固まった。
あのCGは自分自身が描いたものだ。
まさか、こんな場面に使われるとは夢にも思っていなかった。
てっきり涼介が、プレイヤーに発見させるためのイリヤ専用隠しルートでも仕込んでいるのだと思っていたのだ。
だからこそ。
イリヤが最後に残した言葉を目にしたとき、受けた衝撃はあまりにも大きかった。
今になっても、まだ胸の奥がざわついている。
「ふざけないでよ! 士郎を生かすために、なんでイリヤが死ななきゃいけないの!」
「Faetルートみたいに、みんな幸せになるエンディングにできなかったわけ!?」
「私の感情を弄ぶの、そんなに楽しい!?」
「本当にありがとうね! おかげで昨日はモニター抱えて1時間以上泣いたわよ! 日曜日の嫌なことなんて全部吹っ飛んだわ!」
「老害作者! 私のイリヤ返して!」
凌乃は涼介の上にまたがったまま、獣のように暴れ始めた。
拳が雨あられと胸元へ降ってくる。
(……え?)
(そういうこと?)
だから、こんなに早く元気になっていたのか。
優れた悲劇は人の心を癒やす。
落ち込んでいるときに、それ以上に悲しい物語を見れば、悲しみの基準そのものが引き上げられるということなのだろうか。
(何その特殊な復活方法……)
……
数分後。
庭仕事を終えた美恵子が、剪定ばさみを手にリビングへ戻ってきた。
そこで不思議そうに目を瞬かせる。
涼介が、力尽きたようにソファに横たわっていた
一方の凌乃はダイニングテーブルに座り、何食わぬ顔でお茶を飲んでいる。
「どうしたの、涼介?」
母親から心配そうに声をかけられ、涼介は苦笑するしかなかった。
まさか妹にボコボコにされたとは言えない。
やはり、ゲーム制作者が生身のプレイヤーと近すぎる距離にいるのは危険だ。
幸い凌乃も、本気で殴ったわけではなかった。
もし本気だったなら、あの怪力では数日寝込む羽目になっていたかもしれない。
涼介は「何でもない」と母へ伝え、身体を起こした。
それを確認した美恵子は安心したように、再び庭の手入れへ戻っていった。
凌乃がふんと鼻を鳴らす。
「あんた、会社ができたら本当にカミソリ送られてくるかもしれないからね。会社の前で待ち伏せされても知らないから!」
涼介は肩をすくめた。
少女の脅しなど、まったく気にしていない。
オタクたちの精神力が、そこまで脆いとも思えない。
そもそも『Faet/Zero』すらまだ発売されていない。
ましてや会社を立ち上げたあと、最初に動かす予定の企画は――。
「まあ、何にせよ。元気が戻ったなら、このシナリオにもちゃんと意味があったってことだね」
「何よ。そういう綺麗事ばっかり言って」
凌乃はぶつぶつ文句を言ったが、その口元はわずかに緩んでいた。
「そうだ。せっかく起きてるなら、一緒に島川へ行かない?」
「『カードキャプターさくら』のアニメ制作で、原作者の意見を聞きたいらしい。それとは別に、斎藤さんと個人的に話したいこともあるんだ」
ちょうどFae/aynighをクリアし、【天の杯】の洗礼を受けたばかりだ。
凌乃もしばらくゲームを起動する気にはなれなかったため、時間は空いている。
そのまま涼介と一緒に出かけることになった。
……
アニメ化に際して原作者の意見を求めるのであれば、脚本よりも原画側のほうが重要だ。
もともとTVアニメを参考に構成した作品でもあり、今回『カードキャプターさくら』を担当するアニメ監督も、涼介の脚本には大きく手を入れるつもりがなかった。
その方針を確認すると、涼介は早々に打ち合わせから抜けた。
一方、凌乃は興味津々のまま残っている。
アニメ制作の現場そのものに、かなり興味を持ったらしい。
制作スタッフのアニメーターたちも彼女を気に入っていた。
その多くは『月魔女変身』のアニメ制作にも参加していたスタッフで、すでに「高城留美子」のファンになっている。
質問されれば、惜しみなく何でも教えていた。
涼介としても、その展開は願ったり叶ったりだった。
そもそも凌乃を連れてきた目的の1つが、これだ。
制作工程や現場経験を今のうちに学んでおけば、将来自分たちでアニメを作るときにも戸惑わずに済むだろう。
関係を築いておけば、資金に余裕ができたとき、人材を引き抜ける可能性だってある。
会議室を出ると、斎藤律がすでに廊下で待っていた。
「お久しぶりです、斎藤編集」
「下の喫茶店で話しましょう」
「勤務中に勝手に抜けても大丈夫なんですか?」
「今さら僕みたいな干されかけの人間が少しくらい席を外したところで、誰も気にしませんよ」
斎藤律は苦笑し、そのまま先に歩き出した。
勤務中に席を外す程度なら、見咎められても理由はいくらでも作れる。
だが社内には、音声まで記録できる監視カメラがある。
そこで転職先の雇用主と話しているところを押さえられれば、それこそ面倒なことになりかねない。
……
10分後。
2人は喫茶店の席で向かい合っていた
目の前でよどみなく話す少年を見ながら、斎藤律はいまだに不思議な気分だった。
2日前。
この少年から「自分の会社へ来ないか」と誘われたときは、聞き間違いかと思ったほどだ。
「ということは、少し前のM展で話題になっていたYPEMNというサークルも、高城先生が?」
「はい。あの作品で少しだけ元手を作れました。『カードキャプターさくら』のアニメ化収入も合わせれば、会社を動かすための資金としては足りると思っています」
涼介は隠さず、これまで動いてきた内容をそのまま説明した。
目の前の男を本気で仲間に引き入れたいのであれば、中途半端に伏せるべきではない。
斎藤律ほどの経歴があれば、編集職を離れたとしても、大手アニメ会社への転職を狙える。
立ち上がったばかりで、まだ何の実績もない会社を選ぶ理由は薄い。
「正直、かなり魅力的ですよ。いきなりアニメ監督を任せてもらえるというのは」
斎藤律も、それは認めざるを得なかった。
業界は変わらない。
だが職種は大きく変わる。
この年齢の会社員にとって、それは相当なコストを伴う転職だ。
経歴だけ見れば大手へ入ることもできるだろう。
ただし、そこでは間違いなく下積みからの再スタートになる。
アニメ監督という立場で、最初から1本の作品を任せてもらえることなど、数年はあり得ない。
もし島川の漫画編集部で山崎編集長から執拗に干され、心が折れていなければ。
そもそも島川を辞めようなどとは考えなかっただろう。
斎藤律が欲しかったものは、安定ではない。
自分の能力を正しく評価され、それに見合うだけの機会と対価を得ることだった。
「ただ、先に1つ伝えておきます」
涼介は少し姿勢を正した。
「給与については、当面は業界水準より低くなります。おそらく3分の2程度です。今はまだ資金に余裕がありません」
現在のアニメ監督の平均年収は500万~600万円前後。
月単位で見れば、監督1人だけで50万円前後の人件費が発生する。
この先、アニメーターをはじめとした制作スタッフも大量に集めなければならない。
涼介としては、どうしても最初は人件費を抑えざるを得なかった。
「それなら問題ありません」
斎藤律はあっさり答えた。
現在の収入と比べれば、確かにかなり下がる。
だが大手会社へ転職し、下積みから始める場合と比べれば、それほど大きな差ではない。
何より彼が重視しているのは、金額ではなく機会だった
いきなりアニメ監督として作品を任される。
それだけで、数年間の下積みを一気に飛び越えられる。
今の斎藤律にとって、最も価値があるのは時間だった。
「では、草稿を見せてもらえますか?」
斎藤律が一番気になっていたことを尋ねる。
涼介の誘いを受けるつもりなら、2か月後に島川を退職し、そのまま新会社で企画を動かせるよう、今から準備しておく必要がある。
アニメ監督とは、簡単に務まる仕事ではない。
「もちろんです。時間がなかったので、かなり粗いですが。今のところ、最初の3話分くらいまで大まかに整理してあります」
涼介は鞄から1冊のノートを取り出し、テーブルの上に置いた。
斎藤律がそれを手に取り、表紙をめくる。
最初のページには、この物語のタイトルが記されていた。
――『魔法少女まどか☆マギカ』。




