第88話 第89話 逃げるは恥だが
「どの高城留美子って……他にいるの?」
「『月魔女変身』の作者だよ」
「君がコスプレしてるそのキャラだって、高城先生の作品だろ。そんなこと聞くほうが変じゃないか?」
「言われてみれば確かに……っていうか、その衣装すごいな。めちゃくちゃ再現度高くない?」
「よかったら、一緒に写真撮ってもらえませんか?」
突然呼び止められた2人の青年は、最初こそ少し不機嫌そうだった。
だが、新垣瑠璃の顔を見るなり、その不満もどこかへ消えてしまったらしい。
むしろ、瑠璃にはよく分からない表情まで浮かべている。
この顔は、教室でも見たことがある気がする。
照れている……?
質問に答えてもらった手前、瑠璃も2人の頼みを断らなかった。
「ありがとうございます!」
2人は嬉しそうにデジタルカメラを握りしめ、深々と頭を下げてから去っていった。
思っていたほど怖くない。
普通の人と、あまり変わらないようにも見えた。
けれど今の瑠璃には、オタクそのものについて考えている余裕などなかった。
頭の中がひどく混乱している。
「ありえない……」
「そんなはず……」
「高城留美子が18禁ゲームの制作に参加してるなんて……」
他の人間は、あの漫画家の正体を知らない。
だが、新垣瑠璃は知っている。
何年も一緒に過ごしてきた親友。
いつだって心の片隅にいる、大切な人。
そんな凌乃が、こんなことをするはずがない。
誰かが大胆にも、名誉を傷つける危険まで冒して凌乃の名を騙っているのだろうか?
もし本当にそんなことが起きているなら、出版社が真っ先に本人へ連絡するはずだ。
けれど、凌乃からは何も聞いていない。
――いや。
待って。
何も聞いていなかったわけでは、ないのかもしれない。
――『ねえ……瑠璃。オタクって、どう思う?』
数か月前。
学校の屋上で昼休みを過ごしていたとき、凌乃がわざわざそんなことを尋ねてきた。
その記憶が、不意に蘇った。
荒唐無稽な考えが、瑠璃の中に浮かび上がる。
「新垣さん?」
スタッフが様子のおかしさに気づき、声をかけてきた。
その声で、瑠璃は我に返る。
「すみません。93番って、どちらですか?」
「え?」
「仕事が始まるまで、まだ数十分ありますよね。少しだけ自由に動いてもいいでしょうか?」
「……?」
……
そのころ。
涼介と鳳凰院紗織は、2人がかりで3メートルもある旗竿を片づけていた。
ようやく一息ついた、そのとき。
背後から足音が聞こえてきた。
「お兄様……?」
戸惑いの混じった呼び声に、涼介は意外そうに振り返る。
そこにいたのは、本来ならここにいるはずのない人物だった。
「知り合い?」
鳳凰院紗織は、駆けてきた少女を上から下まで眺めながら尋ねた。
初めて見る顔だ。
しかも涼介のことを「お兄様」と呼んでいる。
まさか、家にもう1人妹でもいるのだろうか?
「うん。凌乃の同級生。残りは任せてもいい? ちょっと話をしないといけないみたいだ」
涼介の表情は、妙に気まずそうだった。
まるで浮気現場でも押さえられたような顔だ。
それが紗織には面白かったが、涼介が説明する気を見せない以上、無理に聞くつもりもない。
「いいわよ。残りくらい1人で片づけられるから。打ち上げだけは忘れないでね」
「うん。時間には間に合わせる」
……
会場の隅。
新垣瑠璃は、これまでずっと信頼していた『お兄様』を前にして、世界が崩れ落ちたような気分になっていた。
「どういうことなんですか?」
「どうしてお兄様がここにいるんですか? あれは何をしていたんです? 18禁ゲームを売ってたんですか? どうしてそんなことを……」
「お金が欲しいにしたって、そんなことする必要ないじゃないですか。凌乃と一緒に漫画まで描いてるんだから、お金に困ってるわけじゃないでしょう!」
興奮しているせいで、言葉がまとまっていない。
(バレたか……しかも現場を押さえられた)
涼介は心の中でため息をついた。
わざわざ摊位まで辿り着いたということは、すでに重要な情報をいくつか聞いているのだろう。
これ以上ごまかしても意味はない。
むしろ、今のうちに知られたのは悪いことではないのかもしれない。
このまま隠し続ければ、いずれもっと面倒な形で露見していた可能性が高い。
「とりあえず落ち着いて。ちゃんと説明するから」
「落ち着けません!」
「お兄様は、ずっと私を騙してたんですか? 凌乃のことを見ていてくれるって約束したのに、18禁ゲームの制作に誘い込んでたんですか!」
(俺が?)
それはさすがに冤罪だ。
凌乃のほうから、自分のキャラクターを他人に描かせるなんて嫌だと言って参加してきたのだから。
とはいえ、今それを正直に言えば事態がさらに悪化するだけだ。
「そんなにオタクが嫌い?」
涼介が尋ねた。
「はい!」
瑠璃は迷いなく言い切った。
「私はずっと、お兄様はすごくいい人だと思っていました。でも、オタクだったことも、私を騙していたことも受け入れられません」
「だから今日から、もうお兄様とは話しません。凌乃のことも、これ以上そっちに引き込まないでください」
「それと、サイン会の件で助けてもらった分は、ちゃんと何かでお返しします」
まるで絶縁宣言でもするような口調だった。
それでも数日前、サイン会で助けてもらったことは忘れていない。
怒っていることと、恩を返すことは別。
そこだけはきっちり分けているらしい。
(かなり極端だな……)
けれど、そこまで意外でもなかった。
今の社会にオタクへの偏見が根強くあることは、涼介もよく知っている。
瑠璃はこれ以上話す気がないらしく、スタッフのもとへ戻ろうとした。
もうすぐ仕事が始まる。
彼女にとっても、この場でこれ以上言葉を重ねる意味はなかった。
「じゃあ、もし凌乃もオタクだったら?」
背を向けた瑠璃を、涼介が呼び止めた。
「お兄様が変な影響を与えただけです! 凌乃は女の子なんですよ。そんなものに興味を持つはずがありません!」
瑠璃は即座に否定する。
「仮の話だよ」
涼介は静かに続けた。
「もし本当にそうだったら、それでも凌乃と友達でいられる? それとも、俺と同じように扱う?」
「……」
瑠璃の足が止まった。
肩がわずかに震えている。
大好きな相手と、自分が心の底から嫌悪している存在が重なってしまう。
想像するだけで、力が抜けていくようだった。
「『世界は美しくなんかない。そして、それ故に美しい』――覚えてるよね?」
涼介の声が続く。
「何かが存在すれば、それを好きな人もいれば、嫌いな人もいる。そういうものだよ」
「君が凌乃を好きなように、凌乃にも何かを好きになる自由がある」
「……」
瑠璃は、実のところ薄々気づいていた。
涼介のもとへ来る前から、そんな可能性は考えていたのだ。
ただ、それを受け入れたくなかった。
だから全部、この優しいお兄様のせいにした。
凌乃の性格は、自分が誰よりよく知っている。
嫌いなことを無理やりやらされるような子ではない。
誰かに強制されたところで、自分がやりたくないことなら絶対にやらない。
それでも。
凌乃を失いたくなかった。
(見なかったことにすればいいよね……)
(知らないふりをしていれば……)
逃げるのは恥ずかしい。
でも、役に立つことだってある。
どうしても目の前に突きつけられてしまったときは――そのとき、自分の本当の気持ちで判断するしかない。
瑠璃はそれ以上何も言わなかった。
涼介に一礼し、その場から逃げるように小走りで去っていった。
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第89話 あなたが羨ましい
新垣瑠璃は、何も言わずに去っていった。
涼介は引き止めなかった。
こういうことは、本人が自分で考えて答えを出すしかない。
スペースへ戻ると、鳳凰院紗織はほとんど片づけを終えており、その場で涼介を待っていた。
「さっきの子、今にも泣きそうな顔してたけど。まさか、いじめたの?」
「そんなわけないよ。凌乃の友達なんだけど、オタクが嫌いなんだ」
「なるほどね」
説明を聞けば、紗織も大体の事情を察した。
今の社会でオタクがどんな目で見られているか。
自分自身、嫌というほど知っている。
「それで、解決したの?」
「今すぐは無理かな」
涼介は首を振り、携帯電話を取り出した。
凌乃に電話をかけ、そろそろ打ち上げ会場へ向かうよう伝えるつもりだった。
それに、今の新垣瑠璃と妹を会わせたくない。
この状態で鉢合わせでもすれば、本格的な修羅場になりかねない。
だが数回コールしたあと、電話は切られた。
「……あいつ、絶対遊びに夢中になってるな」
仕方なく、涼介はメッセージを送った。
今日スペースで起きたことも、短く書いておく。
「僕たちも先に出よう。打ち上げまで少し時間があるし、どこかで休みながら相談したいことがある」
「会社の人材採用についてなんだけど」
「まあ。もう家業を大きくする準備を始めるの? さすが、私が見込んだ男ね」
(家業って……)
いまだに、その手の冗談には慣れない。
涼介は聞かなかったことにして、紗織と一緒に会場を離れた。
……
午後1時。
東館B区のステージ。
さまざまな衣装を身にまとった出演者たちが次々と舞台へ上がり、そのたび会場いっぱいの歓声が響いた。
新垣瑠璃も、その中にいた。
心は落ち着かない。
目の前にいるのは、これまで自分が危険な存在だと思っていた人たちだ。
客席を見渡す。
わざわざ探すまでもなかった。
一瞬で、あの金色が目に飛び込んできた。
見間違えるはずがない。
その隣には、自分と同じキャラクターの衣装を着た小柄な少女もいる。
胸を抉られたような痛みが走った。
そして、視線が重なる。
その瞬間。
凌乃が、後ろめたいことがばれた子供のように一歩退いた。
(もう……知らないふりはできないんだ)
(やっぱり、私は受け入れられない……)
客席からフラッシュが絶え間なく焚かれている。
肌を大きく露出した女性キャラクターが描かれたTシャツを着ている者までいる。
こちらをじろじろと眺める視線に、全身を無数の虫が這い回るような不快感が込み上げた。
表情を抑えきれない。
瑠璃の顔には、はっきりと嫌悪が浮かんでいた。
……
M最終日は、最後まで大盛況のまま幕を閉じた。
人々が会場をあとにし始める。
午後4時30分。
高城凌乃は、人の流れに混じりながら、呆然と展示場を出ていった。
五更真緒が、半歩ほど後ろを歩いている。
凌乃の手には携帯電話。
その指には、今にも本体を握り潰しそうなほど力がこもっていた。
まさか午後のステージに、親友が立っているなど夢にも思わなかった。
はっきりと見えた。
離れた場所から視線が重なった。
そして初めて。
新垣瑠璃の目の中に、自分への嫌悪を見つけてしまった。
舞台が終わったあと、簡訊が届いた。
『もう友達をやめよう。考えたけど、やっぱりオタクの凌乃は受け入れられない』
そのときになってようやく、涼介から届いていた警告にも気づいた。
「もっと早く、あいつのメッセージを見てれば……」
そうすれば、顔を合わせずに済んだかもしれない。
凌乃は後悔した。
まさか、こんなことになるなんて。
これからどうすればいい?
瑠璃に簡訊を送る勇気が出ない。
嫌われてしまったのなら、電話をかけたところで即座に切られるだけだろう。
もう完全に、変態扱いされている。
ブブッ――。
携帯電話が震えた。
表示された名前は、あいつ。
凌乃は足を止め、通話ボタンを押して耳に当てる。
『会った?』
電話の向こうから、義理の兄の声が聞こえた。
「……うん」
何を言えばいいのか分からない。
完全に、どうしていいか分からなくなっていた。
涼介はそれ以上尋ねなかった。
『五更に代わって』
五更真緒が電話を受け取る。
「凌乃、今かなり落ち込んでるだろ?」
「そうね。魂でも抜かれたみたい。やっぱり子供ね。何を言っても反応しないもの」
『悪いけど、そのまま連れてきてくれる?』
「打ち上げの店まで連れていくわ。心配しなくていい」
短いやり取りを終え、五更真緒は電話を切った。
携帯電話を凌乃の手へ押し戻す。
「ほんと、幼稚ね」
「友達に見られたくらいで、私の前でそんな情けない顔してどうするの」
「ネットじゃあれだけ口が回るんだから、ちゃんと説明すればいいじゃない」
五更真緒は凌乃の手首をつかみ、そのまま新宿方面へ引っ張っていく。
「好きに言えば」
普段なら、こんなことを言われれば必ず言い返していた。
でも今は、その気力すらない。
説明?
オタクを嫌っている親友の前で、オタクだらけの大型イベントに参加しているところを見られた。
それも、18禁ゲームの制作に関わっている。
こんな状況で、何をどう説明すればいいのか。
自分の趣味を捨てる以外に、新垣瑠璃と元の関係へ戻る方法など思いつかなかった。
けれど、それも凌乃には受け入れられない。
「羨ましい」
五更真緒が、ぽつりと言った。
「何が?」
「一番仲のいい友達に嫌われたこと? やっぱりあんた、人を怒らせるのだけは得意ね」
凌乃は感情を抑えきれず、睨みつけた。
「違う」
五更真緒は低い声で答える。
「お兄さんがいること」
「いつでも相談できる相手がいて、何かあれば真っ先に電話をくれる」
人で溢れる新宿の街。
夕陽が2人の影を長く伸ばしている。
凌乃は真緒に手首を引かれながら、混乱した頭でその言葉を反芻した。
(私に、お兄さんがいることが羨ましい?)
横を向き、五更真緒の横顔を見る。
いつもどこか冷めているその顔が、夕暮れの光に染まっていた。
表情まではよく見えない。
「あんなやつの何が羨ましいのよ」
凌乃は小さく呟く。
「いっつも説教ばっかりして、あれこれ口出してきて」
「そう」
「自分がどれだけ恵まれてるのかも分からない、その態度。やっぱり腹が立つわね」
五更真緒は手を離さなかった。
ただ、歩みがほんの少しだけ遅くなる。
「うちには、弟と妹しかいないの」
珍しく、自分から話し始めた。
「あの子たちはもう十分聞き分けがいいけど、私が長女だから」
「困ったことがあっても、自分で考えるしかない。相談できる相手もいないし、どうすればいいか教えてくれる人もいない」
「転んでも、誰も起こしてくれない。自分で立ち上がるしかない」
「だから――」
五更真緒が振り返った。
いつになく真剣な目で凌乃を見る。
「ちゃんと口出ししてくれるお兄さんがいるあなたが、羨ましい」
凌乃は言葉を失った。
「着いた」
五更真緒が、とある居酒屋の前で足を止める。
「入りましょ。あんまり待たせるのも悪いし」
……
個室には、すでに涼介と鳳凰院紗織が座っていた。
五更真緒に押し込まれるように凌乃が入ってくると、涼介が眉を上げる。
「よう。まだ生きてたか」
挑発するような言い方に、凌乃もわずかに生気を取り戻した。
むっとして睨み返す。
「うるさい。ほんとムカつく」
金髪の少女はどさりと涼介の向かいに座り、そっぽを向いた。
鳳凰院紗織が茶を注いでやる。
「とりあえず、お茶でも飲んだら?」
「……ありがとう」
凌乃は湯呑みを受け取った。
手の中の温もりで、ほんの少しだけ気持ちが落ち着く。
涼介は、見るからにしょげている妹を眺めた。
今度はからかわず、単刀直入に尋ねる。
「で、これからどうする?」
「……分かんない。しばらく放っておく」
高城凌乃は、湯呑みの中身を一気に飲み干した。
「そう」
「何よ。まさか、この程度のことで私が落ち込んでるとでも思ってる?」
「瑠璃を怒らせたのは悪かったけど、学校が始まったら謝ればいいだけでしょ」
無理やり笑顔を作る。
何でもないことのように振る舞いながら、急須を手に取り、もう一度自分の湯呑みを満たした。
「ほら、全員そろったんだから打ち上げ始めようよ。私、お腹空いて死にそう!」
「ゲーム大成功のお祝いでしょ? 私にも取り分あるんだから、今回は大儲けね!」
涼介は、自分の妹がここまで露骨に無理をしている姿を初めて見た。
(相当こたえてるな)
けれど、それ以上は何も言わなかった。
打ち上げは、どこかぎこちない空気のまま進んでいった。
……
2時間後。
4人は店を出て、それぞれ別れた。
涼介は凌乃と一緒に帰りの電車へ乗る。
その道中、金髪の少女は一言も喋らなかった。
ただ黙って歩いている。
家に着いてからも、真っ先に自分の部屋へ入り、鍵をかけてしまった。
「少し1人にしておくか」
今は、自分で今日のことを消化する時間が必要だろう。
涼介は無理に声をかけず、自分の部屋へ戻った。
この年頃の少女にとって、親友を失うことは世界の終わりにも等しい。
布団をかぶって泣いていたとしても不思議ではない。
(凌乃より、新垣のほうがもっと泣いてそうだけどな)
何しろ、あの少女が凌乃に抱いている感情は――。
ただの友情だけではないのだから。




