86 話
「オー! オー! オー!」
ステージ上の4人が一斉に踊り始めた。
音楽には不思議な力でも宿っているかのようで、リズムが切り替わるたび、客席の波が大きくうねる。
早川静香は踊りながら、観客の中へ視線を走らせていた。
探しているのは、たった1人。
けれど、あまりにも人が多い。
しかも隙間もないほど密集しているせいで、なかなか見つけられなかった。
イントロはもう半分を過ぎている。
少しずつ焦りが募ってきた、そのとき――。
人混みの中で、ぴょこぴょこと跳ねる金色が目に入った。
1人の少女が、まるでぜんまいを限界まで巻かれた人形のように、楽しそうに全身を動かしている。
周囲の観客に混ざり、全力で応援の波に加わっていた。
(あれって……妹さん?)
千葉第一高校の試験会場で、高城凌乃とは一度顔を合わせている。
あれだけ目立つ金髪で本当によかった。
そして、その隣。
早川静香は高城涼介の姿を見つけた。
向こうもこちらを見ていて、気づいたらしく軽く手を振っている。
(来てくれたんだ……)
久しぶりに見る。
少し背が伸びたような気もする。
アイドル少女の顔に、思わず笑みがこぼれた。
その一瞬だけ、ダンスの動きが止まる。
ちょうどイントロが終わった。
静香はその場で立ち止まり、最初の歌詞を口にする。
視線はまっすぐ、涼介のいる方向へ向けたまま。
「ごめんね、素直じゃなくて――夢の中なら言える」
「思考回路はショート寸前――今すぐ会いたいよ!」
歌いながら、静香は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
(この歌詞……改めて聞くと、告白みたいだよね……)
しかも今は、気になる相手が客席から自分を見ている。
そう意識した途端、余計に恥ずかしくなってくる。
「オー! オー! オー!」
客席から響いた歓声に、静香は我に返った。
余計なことを考えるのをやめ、全力でダンスに戻る
やがて曲調は緩やかになり、1曲目が終わった。
……
ステージを下りても、早川静香の胸はまだ激しく高鳴っていた。
激しいダンスのせいなのか。
それとも、別の理由なのか。
本人にもよく分からない。
後ろから退場してきた朝倉未来が、バックヤードへ入った途端、静香の腕にぎゅっと抱きついてきた。
「すごかったね、静香! 今日のお客さん、熱気がすごすぎるよ。あんな人の波、初めて見た!」
これまでDream Chaserが経験してきたステージでは、観客から返ってくる反応も今日ほど強烈ではなかった。
普段は肩身の狭い思いをしているオタクたちも、思う存分楽しめるM展では、その情熱を一気に爆発させるのだろう。
「うん。私もびっくりした」
「前のほうのお客さん、そのままステージに上がってきそうで怖かったよね」
「ちょっと視線が怪しい人もいたし……静香ちゃんに言われた通り、今回はちゃんと見えても大丈夫なようにしておいてよかった!」
少女たちはそんなことを話しながら、控室へ戻っていった。
ステージの出来はかなりよかった。
伊東慎平も満足したらしく、4人にしばらく休憩するよう告げると、自分は仕事の打ち合わせのために部屋を出ていった。
少し休んだあと、早川静香は立ち上がり、ロッカーから私物を取り出す。
そこで、携帯電話に未読メッセージが1件届いていることに気づいた。
送信者を確認した瞬間、顔がぱっと明るくなる。
高城涼介からだった。
「すごくよかった。次のステージも楽しみにしてる」
たったそれだけ。
ごく普通の褒め言葉だ。
(別に……普通に褒めてもらっただけだから)
そう自分に言い聞かせる。
けれど心臓は、勝手にひとつ大きく跳ねた。
早川静香は下唇を軽く噛み、緩みそうになる口元を必死に抑えようとした。
けれど、どうしても隠しきれなかった。
……
Dream Chaserのステージが終わると、会場の音楽も少し落ち着いたものへ変わった。
司会者が登壇し、このあとは観客参加型の企画や、声優、業界モデルによるステージなどが続くらしい。
高城凌乃は残りの出演者にはあまり興味がないようで、涼介を引っ張ってしばらく会場を回ったあと、そのまま帰宅することになった。
2人が家へ戻ったころには、もう18時近い。
どうにか家族そろっての夕食には間に合った。
食後。
自室へ戻った涼介は、意外な相手から電話を受けた。
島川の漫画編集者、斎藤律だった。
「もしもし。夜分に失礼します、LAMP先生」
受話口から聞こえてきた声には、かなり疲労が滲んでいる。
「斎藤さん、こんな時間までまだ仕事ですか?」
涼介が時計を見る。
すでに21時を回っていた。
「まあ、仕事が立て込んでまして。それで今日は、LAMP先生と高城留美子先生に、来週一度会社まで来ていただけないかと思いまして」
「何かありましたか?」
「アニメ化について、制作側が原作者のお2人と一度打ち合わせをしたいそうです。それと――」
斎藤律は一度言葉を切った。
「私、退職届を出しました。2か月後には島川を辞めます。それまでに、新しい担当編集への引き継ぎも進めておきたいと思っています」
「……待ってください。辞めるんですか?」
高城涼介は明らかに面食らった。
まさか斎藤律本人の口から、そんな話を聞くとは思ってもいなかった。
彼の担当作品には、かなりの数のヒット作があったはずだ。
「ええ。まあ、個人的な事情です。ただ、その点は心配しないでください。『カードキャプターさくら』のアニメ放送が始まったあとの話ですし、最後まできちんと片づけてから辞めますので」
電話の向こうの斎藤は、どこか沈んでいた。
涼介はしばらく黙ってから、口を開く。
「編集を辞めたあと、斎藤さんはどうするつもりなんですか?」
「たぶん、業界には残ると思います。競業避止の関係で編集職には就けませんから、演出や監督関係の仕事を受けられないか、いくつか当たってみるつもりです」
……
島川編集部。
斎藤律は濃い隈を浮かべながら、涼介と電話をしつつ、キーボードを叩き続けていた。
最近、『カードキャプターさくら』の企画そのものは驚くほど順調に進んでいる。
アニメ制作部門も急ピッチでスケジュールを組んでいた。
このまま問題が起きなければ、来週から本格制作に入り、夏休み最後の週には第1話を放送できる見込みだ。
しかし、その順調さとは対照的に――。
斎藤自身の昇進枠は、また潰されたらしい。
昇進できる人数には毎年限りがある。
半年前、伊織刹那が職業倫理上の問題を起こして昇進資格を失ったことで、副編集長の席は空いたままだった。
斎藤律は考えていた。
『カードキャプターさくら』のアニメ化まで成功させ、結果さえ残せば、山崎編集長とてもう自分を押さえ込めない。
役職が上がるだけでなく、空席となっている副編集長への昇進もほぼ確実だ、と。
「本当に救いようのない職場ですよ」
斎藤律は、自嘲の混じった笑みを浮かべる。
「俺を昇進させないためだけに、上層部を動かして、集英社から高い金を積んで副編集長を引き抜いたんですから」
結局、現場の一編集者がどれほど実績を上げても、上には逆らえない。
ヒット作を何本育てたところで、その功績の一部は編集長の実績として積み上がる。
この部署では、編集長の座まで上がれなければ、どれほど能力があっても限界があるのだ。
「ふっ……まあ、それだけあの爺さんが俺を警戒してるってことでもありますけどね」
扱いにくい部下が副編集長にまで上がれば。
いずれ自分の椅子を奪われかねない。
そう思われているのだろう。
「ですから、心配しないでください」
斎藤は電話の向こうの高城涼介へ続けた。
「お2人の作品は、信用できる編集者にきちんと引き継ぎます。伊織刹那みたいな人間に渡すつもりはありません」
(野村なら……)
能力が飛び抜けているわけではない。
それでも、今ある作品をきちんと守る程度なら問題ないだろう。
斎藤律はそう考えていた。
「大丈夫ですよ、斎藤さん」
電話越しに、少年の声が返ってくる。
「『カードキャプターさくら』をここまで面倒見てくださって、本当にありがとうございました」
「いえ。では今日はこのへんで。私もそろそろ帰ります」
斎藤律は最後のファイルを処理し終え、パソコンを落とした。
机の上を片づけ、荷物をまとめ始める。
「少し待ってください」
「まだ何か?」
斎藤は特に気に留めなかった。
作品のアニメ化について、まだ何か確認したいことでもあるのだろう。
「今後の作品展開についてなら、来週お会いしたときに話しても間に合いますよ」
「いえ。作品の話じゃありません」
「斎藤編集、あなた自身についてです」
受話器から届いた言葉に、斎藤律の眉がわずかに動いた。
(俺自身のこと?)
まさか、島川を辞めないよう説得するつもりなのか。
そこまで作者に信頼されているのなら、それはそれで嬉しい話ではある。
「どうぞ」
とはいえ、斎藤律には斎藤律の考えがある。
涼介に何を言われても、決心を変えるつもりはなかった。
あの老人の下でこの先も働き続けるくらいなら、辞めたほうがよほどましだ。
すると。
電話の向こうから聞こえてきたのは、斎藤がまったく予想していなかった言葉だった。
「もし僕から斎藤編集に声をかけたら――」
「僕の会社で、働いてみる気はありませんか?」
「……」
斎藤律の手が、ぴたりと止まった。




