第85話 逃走中のアイドル少女
東京国際展示場、A地区。
早川静香は上着を羽織り、マスクとフードで顔を隠しながら、人混みの中を小走りで進んでいた。
上着の下には、すでに着替えを済ませたステージ衣装が隠れている。
「93番……こっちで合ってるよね?」
方向を確認すると、静香は足を速めた。
せっかく会える機会ができたのだ。
どうしても一言くらい挨拶しておきたい。
いきなり現れたら、高城君も驚くかもしれない。
そんなことを考えながら目的のスペースまでたどり着いたものの――。
そこに、ずっと気にかけていた恩人の姿はなかった。
目に入ったのは、すっかり片づけられた空っぽのスペースだけ。
――本日分完売。
ぽつんと置かれた札に、そう書かれている。
「もう売り切れたの?」
完全に計算違いだった。
搬入数が少なかったのか、それとも想像以上に売れたのか。
こんなことなら、先に涼介へメッセージを送っておけばよかった。
「サークルの人を探してるの?」
隣のスペースから、興味深そうな声がかかった。
8月の真夏だというのに、全身を包み込むような格好をしている。
これでは嫌でも目立ってしまう。
「はい。どこへ行ったか、ご存じですか?」
静香はすぐに敬語で尋ねた。
まだ近くにいるなら、会えるかもしれない。
「30分くらい前には片づけて出ていったよ。でも、男の子のほうはM展を見て回るって言ってたかな」
「それにしても羨ましいよ。開場から1時間でゲームが完売だってさ。しかも君みたいに、あとから訪ねてくる人までいるし。俺の同人誌も、あそこの半分くらい売れてくれたら在庫を抱えずに済むんだけどなあ」
隣のサークル主は感慨深そうにぼやいた。
YPEMNへ向かう人の流れのおこぼれがなければ、自分のスペースなどほとんど見向きもされなかっただろう。
「せっかくだし、俺の本も見ていかない? あっちのゲームには敵わないけど、来たついでにどう?」
彼は可愛らしい絵柄の同人誌を手に、懸命に売り込んできた。
このやり方で、ついさっきも3、4冊は売れている。
やはり配置抽選は重要だ。
YPEMNの近くでなければ、今回は大赤字だったかもしれない。
隣のサークル主はさらに何か言おうとしたが、目の前の『覆面客』はまったく興味を示さなかった。
スマートフォンを取り出し、素早く文字を打ち込んでいる。
「ありがとうございます、おじさん。また今度見に来ますね。今ちょっと急いでるので」
え?
おじさん?
俺が?
サークル主は一瞬、反応できなかった。
いくら何でも、おじさん呼ばわりはひどくないか?
確かに老けて見られやすいが、まだ20代なのだ。
しかし抗議する暇もない。
目の前の少女が、にこりと笑う。
その瞬間。
通路を抜けた風が、少女のフードをふわりと持ち上げた。
そこから覗いたのは、青く染められた前髪。
その特徴的な髪を見て、サークル主は最近気になっていた新人アイドルグループを思い出した。
たしか今日、M展でステージ出演するはずだ。
そのグループのリーダーも、こんな髪色ではなかったか。
「待って! まさか君――!」
サークル主が目を見開く。
静香もフードがずれたことに気づき、慌てて手で押さえた。
けれど、もう遅い。
どうやら気づかれてしまったらしい。
「内緒ですよ!」
静香は唇の前に人差し指を立てた。
次の瞬間には、その場から一気に駆け出していた。
しっかり握っていたはずの上着が風にあおられ、裾が大きく翻る。
ヒールが床を叩く乾いた音が、激しい雨音のように続いた。
ふわりと香りを残しながら、その姿がスペースの前を駆け抜けていく。
「待って! サインだけでもくれない!?」
その反応を見て、サークル主は確信した。
やっぱり本人だ!
背後から飛んでくる声にも、早川静香は振り返らなかった。
「機会があったら、隣のサークルの人に頼んでみてくださーい! もしかしたら、もらえるかもしれませんよ!」
え?
隣?
ということは。
あのDream Chaserのリーダーは、ゲームを買いに来たのではなく、わざわざサークル主を訪ねてきたのか?
……
「一応、高城君にはメッセージを送ったけど……会う時間はなさそうだね」
早川静香は急いでB地区のステージ控室へ戻った。
胸には、わずかな落胆が残っている。
まだ返事は来ていない。
ステージを無事に終えるためにも、今は一刻も早く戻るしかなかった。
控室へ入ろうとした、その直前。
廊下の向こうから、伊東慎平が姿を現した。
ほとんど鉢合わせだ。
「危なっ……! ギリギリだった……!」
静香は冷や汗をかいた。
開演前に勝手に抜け出していたことがバレたら、さすがに思いきり説教されるだろう。
自分だけならまだいい。
かばってくれた3人まで巻き込むのは嫌だった。
控室へ入るなり、静香は急いで上着と変装用の小物を外した。
「戻ってきたね、静香ちゃん」
3人のメンバーがすぐに集まってくる。
どの顔にも、多かれ少なかれ好奇心が浮かんでいた。
何か聞こうとした、そのとき。
控室のドアが再び外から開く。
「何で全員、入口に固まってるんだ。もうすぐ本番だぞ」
伊東慎平が眉をひそめる。
その瞬間、4人の美少女は示し合わせたように一斉に散った。
「それと静香。どうした、その汗は。まさか緊張してるのか?」
「お前はリーダーなんだから、みんなの手本にならないと駄目だ。早くメイクを直してこい」
「はい……」
伊東の注意を受け、静香は少し後ろめたそうに頷き、自分の席へ急いだ。
朝倉未来がすぐ隣までやってきて、パフを手に取る。
汗で崩れたメイクを直しながら、静香へ向かってぺろりと舌を出した。
いたずらっぽい表情だ。
「会えなかった?」
もうそれなりに長く一緒に過ごしている。
願いが叶っていたなら、静香の顔に出ないはずがない。
けれど戻ってきたときの彼女は、ほんの少し眉を曇らせていた。
どうやら、うまくいかなかったらしい。
「うん」
未来の問いに、静香は隠すことなく頷いた。
目を閉じ、仲間に顔を任せながらも、手の中ではずっとスマートフォンを握りしめている。
振動を待っているかのように。
そして本番10分前。
控室を出る直前になって、静香は名残惜しそうにスマートフォンをロッカーへ入れた。
これでもう、ステージが終わるまではメッセージを確認できない。
「やっぱり、会えるのは入学してからかな……」
そう呟き、ロッカーを閉めようとした、その瞬間。
微かな振動音が響いた。
「……!」
静香は一瞬固まり、すぐさま携帯電話を開く。
【送信者:高城君】
「今日、ステージがあるの? 君たちだったんだ。しばらく会わないうちに、もう正式デビューしたんだね。おめでとう」
「俺なら、まだM展にいるよ。ちょうどB地区にいる」
「ステージ、頑張って」
「客席から見てるから」
早川静香は大きく息を吸った。
そして大切なものでも扱うように、そっと携帯電話をロッカーへ戻す。
振り返ると、3人の仲間の列へ加わり、一緒に控室を出ていった。
……
会場は熱気に包まれていた。
ざわめきの中、涼介はもう一度、返信が来ていないことを確認してから携帯電話を閉じた。
隣では凌乃が、熱狂に近い会場の空気を全身で楽しんでいる。
2人がいるのは、B地区のステージエリア。
人の流れに合わせて移動した結果、かなり見やすい場所を確保できていた。
巨大なスピーカーがステージ上方から吊り下げられ、激しいドラムのリズムが会場の熱気をさらに煽っている。
流れているのは、『月魔女変身』専用の戦闘BGMだ。
「オー! オー! オー!」
開演時間が近づくにつれ、観客たちは自然と身体を揺らし始めた。
まるで何かを召喚する儀式でも始まったかのようだ。
記憶の中では似たような光景を何度も見たことがある。
けれど、実際にその場へ身を置くのはまったく別物だった。
涼介自身も、人の波に合わせて身体がわずかに揺れる。
「人気、すごすぎるだろ……」
涼介には分かっていた。
このオタクたちの熱気は、ステージに立つアイドルグループへ向けられたものではない。
少なくとも音楽が流れ始める前と今とでは、人の集まり方も空気もまるで違う。
彼らが熱狂しているのは――。
『月魔女変身』という作品そのものだ。
この1時間ほど会場を歩いている間にも、涼介は少なくとも数十のスペースで、妹の作品を題材にした同人誌を見かけていた。
しかも半分以上が、ヒロインである月野を題材にしている。
まさに同人界の女王と呼んでもいい勢いだった。
……
待ちわびた歓声に迎えられ、4人の華やかな少女がステージへ姿を現した。
「みんなー! 戦利品、まだ持てるー!?」
「東館で欲しかった同人誌、ちゃんと手に入ったー!?」
リーダーである早川静香が、登場するなり客席へ声を投げかける。
かつてはオタクという存在そのものに抵抗感を抱いていた。
けれど、アイドルの道を歩き続けると決めた以上、こういう場所と向き合うことも避けては通れない。
何より。
今は、自分が気にかけている人も客席のどこかで見ている。
最高のステージにしよう。
静香!
胸の中で自分自身を鼓舞する。
「オー! オー! オー!」
客席から、地鳴りのような歓声が返ってきた。
全員が、これから始まるステージを待ちわびている。
「ここはM展だよー! 同人誌だけじゃない! 私たちのステージもあるんだから!」
「みんなで最高の空間にしようー!」
「オオオオオ――ッ!」
涼介は、本気で頭蓋骨ごと吹き飛ばされそうな気分になった。
その直後。
「タン! タン! タン! タン!」
独特なリズムが会場全体を包み込む。
早川静香は『月魔女変身』を象徴する決めポーズを取った。
右手でVサインを作り、目元へ添える。
そして澄みきった声が、会場いっぱいに響き渡った。
「ムーン・プリズムパワー、メイクアップ!」




