第82話 結婚したあと
「時雨沢先生?」
新垣瑠璃の声は小さく、早川留美には内容まで聞き取れなかった。
ただ、涼介が固まっていることには気づいたらしい。
「そろそろお願いしますね。閉店時間も近づいていますから」
涼介がなかなかサイン本を瑠璃へ返さないのを見て、早川留美が声をかけた。
「あっ、すみません」
高城涼介は我に返った。
気を抜いていたせいで声を作るのを忘れ、思いきり地声を出してしまった。
目を上げると、新垣瑠璃がじっとこちらを見つめている。
この声……どこかで聞いたことがあるような。
さっきまで話していた声とは、全然違う。
少女の顔には、わずかな疑問が浮かんでいた。何かを思い出そうとしているようにも見える。
まずい!
ここで正体に気づかれたら面倒だ。
涼介はすぐに自分の失敗に気づき、慌てて口を開いた。
「こういうことって、実は性別はあまり関係ないと思うんだ」
再び声を作ったものの、今度はさっきよりも不自然になってしまった。
新垣瑠璃はわずかに眉を寄せ、数秒ほど涼介の顔を見つめる。
サングラスとマスクで表情までは見えない。
それでも、妙な既視感だけがどうしても消えなかった。
「時雨沢先生、喉の調子が悪いんですか?」
「ちょっとね。ずっとサインしながら話してたから、少し声が枯れてきたみたいだ」
涼介は軽く咳払いして誤魔化した。
「それで、さっきの質問だけど……」
少し間を置き、考えをまとめる。
「『キノ』に、こんな言葉があるよね。『世界は美しくなんかない。そしてそれ故に、美しい』」
「人と人との気持ちも、たぶん同じなんじゃないかな。正しいか間違っているかなんて、多くの場合は社会があとからつけた基準にすぎない」
「好きなら、好きでいい。自分の中でその気持ちが本物だと思えるなら、それで十分だと思うよ」
やっぱり、この言葉にはそういう受け取り方もできるんだ。
新垣瑠璃は、ほっとしたように息を吐いた。
さっき質問する前は、本当に怖かった。
好きな作家から、変な人間だと思われるのではないか。
そんな不安があったからだ。
けれど、自分が感じていたとおりだった。
時雨沢先生はとても懐の広い人だ。
お兄様と、少し似ている。
目の前の作家から、自分の気持ちに対する偏見はまったく感じられなかった。
それどころか、きちんと自分なりの答えまで返してくれた。
「じゃあ……好きなら、自分から動いたほうがいいんでしょうか?」
瑠璃はさらに、一番聞きたかったことを尋ねた。
「それは、本人が決めることかな」
涼介は喉に少し違和感を覚えていた。
瑠璃との会話は、それまでの十数人分を合わせたより長い。
さすがに声を作り続けるのが少し辛くなってきた。
それでも、どうにか続ける。
「恋愛に正解なんてないよ。こうして迷って、誰かに聞きたくなっている時点で、まだ覚悟ができていないんじゃないかな」
そういえば、以前カフェで彼女と話したときにも似た話をした。
あのとき涼介は、いっそ自分から想いを伝えてみればいいと勧めた。
しかし瑠璃には不安があり、それが理由で今まで行動できずにいる。
今もこうして悩み続けているからこそ、好きな作家のサイン会にまで来て、こんな相談を持ちかけたのだろう。
だったら、この機会にもう少しだけ探ってみてもいいかもしれない。
瑠璃が凌乃のことを、どこまで理解しているのか。
涼介はペンを取り、サイン本に短い言葉を書き加えてから、新垣瑠璃へ差し出した。
「ひとつ質問を書いておいたよ。これに答えられるなら、自分から動いてみてもいいかもしれないね」
瑠璃は本を受け取った。
扉ページにはサインのほかに、短い一文が書かれていた。
――君は、本当にその人のことを十分に知っている?
知っている……とは思う。
長いあいだ同級生として一緒に過ごしてきた。
凌乃の喜怒哀楽なら、ほんの些細な仕草からでも気づけるくらいには。
けれど、本当に「十分」なのかと問われれば、自信はなかった。
最近の凌乃には、自分に隠していることがかなり多いように感じる。
「今日はサイン会に来てくれてありがとう。それから、『キノ』を好きでいてくれて嬉しいよ」
時雨沢先生の声が聞こえた。
新垣瑠璃が顔を上げると、彼がこちらへ手を差し出している。
視線は自然と、その手に落ちた。
瑠璃は礼儀として軽く握手をする。
すぐに涼介は手を離した。
その瞬間、既視感がさらに強くなった。
細くて長い指。
どこかで、よく似た手を見たことがある気がする。
ふと机の上に置かれていた携帯電話が目に入った。
ソニー製の折りたたみ式携帯。
たしか、凌乃から自分がもらった限定モデルと同じシリーズだ。
お兄様が使っていたのも……この色だったような?
「次の方、お願いします」
絶妙なタイミングで早川留美が声をかけ、瑠璃の思考を遮った。
仕方なく、少女は軽く頭を下げる。
「ありがとうございました」
そのままサイン台を離れた。
数歩進んだところで、どうしても気になって一度だけ振り返る。
『時雨沢恵一』はすでに次のファンへサインを書いていた。
横顔はマスクに隠され、ほとんど見えない。
「時雨沢先生……なんだか、すごく身近な感じがするんだよね……」
新垣瑠璃はサイン本を胸に抱えたまま、考え込みながら店を出ていった。
……
店内では、ようやくサイン会が終わりに近づいていた。
最後のファンが帰ると、書店の扉が閉じられる。
涼介は長く息を吐き、椅子の背にもたれかかった。
サングラスを外し、眉間を揉む。
「お疲れさまでした、時雨沢先生」
早川留美がペットボトルの水を差し出した。
「今日のサイン会、大成功でしたよ。反応もかなり良かったです」
「ありがとうございます」
涼介は水を受け取り、何口か一気に飲んだ。
「やっと終わった……」
「このまま帰りますか? それとも少し店内で休んでいきます?」
「帰ります」
涼介は固まった手首を軽く回した。
「そういえば時雨沢先生。金賞を取ったあの作品ですが、次々号あたりの月刊誌に掲載される予定で……」
帰る前に、早川留美は『Fate/Zero』の宣伝についていくつか確認を取った。
「早ければ9月中旬から下旬には単行本を出せそうです。今回も『キノ』と同じように、挿絵は会社側で手配しますか?」
「いえ。挿絵なら、もっと適任の人がいます。こちらで用意します」
元になった作品から派生した小説なのだ。
挿絵をつけるなら、やはり凌乃に任せるのが一番いい。
「分かりました。それでは今日はここまでですね」
「皆さん、お疲れさまでした!」
涼介は立ち上がり、残っていたスタッフたちにも挨拶してから、店の裏口を出た。
……
一方、M展の会場では、来場者のほとんどがすでに帰り始めていた。
一部のサークルは撤収作業に入り、順番に会場をあとにしている。
午後はゲームが完売してしまったため、高城凌乃と五更真緒もそれぞれ自由に会場を回り、終了後は先に帰っていた。
涼介が到着したころ、会場に残って待っていたのは鳳凰院沙織だけだった。
「今日は本当にお疲れさま。任せきりにして悪かった」
涼介は申し訳なさそうに言った。
「何言ってるの。私だって制作メンバーの1人でしょう?」
鳳凰院沙織は眼鏡を外し、ハンカチでレンズを拭いていた。
さすがに今日は疲れが見える。
「サイン会はうまくいった?」
「うん。まあ、成功だったと思う」
この件については凤凰院にも隠していなかった。
ゲーム企画の中心人物でありながら、M展初日に姿を見せないのだ。
共同制作者には事情くらい説明しておくべきだろう。
そもそもネットでは「時雨沢」という名前を使っていたため、隠そうとしても無理がある。
「本当に優しいお兄ちゃんね」
鳳凰院沙織は、わざと拗ねたような顔をした。
「妹を喜ばせるために、私を1人でM展に置いていくんだもの」
そのまま、意味ありげな目で涼介を見つめる。
「結婚したあとも、そんなふうに妹ばかり優先されたら困るんだけど?」
その瞳には、冗談だけでは済ませられないような熱が宿っていた。
涼介は思わず心臓が跳ねるのを感じた。
結婚したあとって……。
「……焼肉でも奢ろうか?」
涼介は探るように提案した。
鳳凰院沙織は口元をふっと緩めると、立ち上がって自分のバッグを肩にかけた。




