第81話 サイン会
島川書店の扉が開き、サイン会は予定どおり始まった。
作者である涼介は、開会にあたって少し声を低く作りながら簡単な自己紹介をし、集まってくれた読者たちへ感謝を伝える。
その後は、1人ずつ順番にサインをしていく時間となった。
今回用意された商品は、『キノの旅』第1巻から第4巻までをまとめた、イラスト付きの特装セットだ。
幸い、サインをするのは第1巻の扉ページだけでいい。
もし全巻にサインしなければならなかったら、1人につき7回。
600人なら4200回である。
そんなもの、普通の人間の腕が耐えられるはずもない。
「時雨沢先生、すごく若いね」
「うん。顔が隠れてるのが残念だけど、あの感じなら素顔も結構格好いいんじゃない?」
「さっき挨拶したとき、声はちょっと低かったけどね。でも想像してたよりずっといい感じだった」
「整理券を取れた人、羨ましいなあ!」
店の外では、整理券を手に入れられなかった読者たちが、遠巻きに店内の様子を眺めていた。
涼介はひたすらサインを書きながら、ときおり目の前のファンと言葉を交わしている。
今日集まっている読者は女性の割合が高く、作者本人の印象についてもおおむね好評だった。
この時代のライトノベル作家といえば、人前に出る機会の少ない生活を送っている者も多い。
そのため読者側も、多少太っていたり、髪が薄かったりしても驚かない程度には心構えができている。
そんな中で、いかにも若々しい雰囲気を持つ作家が現れれば、好意的に受け止められるのも当然だった。
新垣瑠璃も懸命につま先立ちになり、人垣の向こうにある店内を覗き込んでいた。
しかし前には背の高い若者も多く、なかなか時雨沢恵一の姿をきちんと見ることができない。
店内からは、次々と『キノの旅』の特装セットを抱えた読者が出てくる。
その大半が、嬉しそうな顔をしていた。
「先生と握手までしちゃった! 指がすごく細かったよ」
「近くで見ると、本当に若いよね。高校生みたいだった!」
「そりゃそうでしょ。島川がサイン会の告知で出してたじゃん。時雨沢恵一先生、16歳だって」
「えっ、私そこ見落としてたかも」
「くそっ、そんなファンに整理券が当たるなんて……!」
瑠璃はようやくつま先立ちをやめ、呼び出しを待つことにした。
周囲から聞こえてくる会話を耳にしているうちに、ふとある考えが浮かぶ。
やっぱり、お兄様とは本当に仲がいいのかもしれない。
同じ作家で、年齢も近い。
友人になっていても不思議ではなかった。
「サイン会が終わったら、ちゃんとお兄様にお礼しないと……」
今日は本当に助けてもらった。
整理券が取れなかったと分かった瞬間など、本気で目の前が真っ暗になったほどだ。
ずっと楽しみにしていたサイン会なのに、危うく参加すらできなくなるところだった。
……
「疲れた……!」
高城涼介は、少しだけ後悔していた。
どうして自分は、あんなに整理券を増やそうなどと言ってしまったのだろう。
まだ400人少々しか終わっていないというのに、右手にはもうはっきりと疲労が溜まっている。
「時雨沢先生、ありがとうございます! 第5巻で完結なんですよね?」
「次の作品も出す予定はありますか?」
サインを書いている最中、読者から質問を受けることも多かった。
涼介はそのたびに答え、最後には握手もする。
「第5巻が終わってから考えようかな。今のところ、新作の予定はまだないよ」
「もし出たら絶対買います! 先生、頑張ってください!」
目の前にいる整理番号486番の女性は、見たところ30歳を超えているようだった。
それなのに涼介を前にすると、まるで少女のようにはしゃいでいる。
握手を終えると、嬉しそうに弾む足取りでその場を離れていった。
その様子を隣で見ていた早川留美は、目を細めて笑う。
「時雨沢先生、本当に女性人気がありますね。このまま同じペンネームを使えば、次回作もかなり有利に宣伝できそうです」
「からかわないでくださいよ」
涼介は苦笑した。
『Fate/Zero』と『キノの旅』では、作品の方向性がまるで違う。
確かに一部の読者はそのままついてきてくれるだろうが、逆に失望する者だって少なくないはずだ。
好きだった作家が、次は18禁ゲームの関連作品を書く。
そんなことになれば、熱狂的なファンの中には、好意が裏返って妙な方向へ走る者が出てもおかしくない。
実際、ここまでの400人あまりの中にも、涼介へ抱きつこうとしたり、キスしようとしたりする者が何人かいた。
警備スタッフが素早く止めてくれなければ、少年のファーストキスはこのサイン会で失われていたかもしれない。
だからこそ、涼介は最初からサイン会などやりたくなかったのだ。
……
サイン会はそのまま順調に続いていった。
新垣瑠璃も整理番号に従って列へ入り、ようやく時雨沢恵一本人の姿をはっきりと見ることができた。
「なんとなく……見覚えがあるような気がする」
顔はマスクとサングラスでほとんど隠れている。
それでも体格だけを見ると、記憶の中のお兄様に少し似ていた。
「やっぱり、似た者同士って仲良くなるのかな……」
同じ作家。
同い年。
そして2人とも、同世代とは思えないほど落ち着いている。
瑠璃は、これまで涼介と交わしてきた会話を思い返した。
お兄様は、どんなことが起きても冷静に対応する。
物事を見るときも、一方的に決めつけることなく、できるだけ客観的に考えようとする人だった。
そもそもこの社会で、自分のような想いを抱えている人間が、本心から悩みを打ち明けられる相手を探すのは難しい。
そう思うと、さっきまで張り詰めていた気持ちが少しだけ軽くなった。
お兄様と友人になれる人。
そして、『キノの旅』を書ける人。
もしかしたら、本当に今の自分の迷いを晴らしてくれるかもしれない。
「時雨沢先生、ありがとうございました!」
前に並んでいた女性が嬉しそうな声を上げ、サイン入りの特装セットを胸に抱きながら、名残惜しそうにその場を離れた。
遮る人がいなくなる。
ついに新垣瑠璃の番だった。
長机の向こうには、少し疲れた様子の時雨沢恵一が座っている。
彼は瑠璃へ手を差し出した。
「次は君だね」
……
高城涼介は喉に少し違和感を覚えていた。
長いあいだ声を作り続けていたせいで、思わず2度ほど咳払いする。
目の前の新垣瑠璃を観察したが、こちらの正体に気づいた様子はない。
涼介は内心でほっとした。
時雨沢恵一の正体は、今のところ彼女に知られないほうがいい。
もし自分がずっと彼女をからかっていたのだと受け取られれば、かえって面倒なことになる。
今の関係を崩さないほうが、何より自然だった。
そもそも今回こんなことをしたのも、高城凌乃のためだ。
ここで正体がばれれば、頭の回る瑠璃のことだ。
そこから何か余計なことまで結びつけてしまう可能性がある。
「何か聞きたいことはある?」
目の前の少女が緊張して言葉を出せずにいるのを見て、涼介は少し可笑しくなった。
こんな一面もあるのか。
軽く話すだけなのだから、そこまで緊張することでもないだろう。
相手が憧れの作家だとしても、所詮は初対面の人間だ。
妖怪でも怪物でもない。
涼介は、これまでのファンたちと同じように、作品について何か聞きたいのだろうと考えていた。
せいぜい物語の内容について質問するか、次回作に期待していると伝える程度だろう。
それに答えてしまえば、今日の自分の役目もほぼ終わりだ。
「あります!」
瑠璃は、時雨沢恵一が本にサインを書き終えるのを見ながら、意を決した。
もう迷っている時間はない。
サイン会で話せる時間など、ほんのわずかなのだから。
「時雨沢先生に、ひとつ相談したいことがあるんですけど……いいですか?」
「もちろん」
新垣瑠璃はできるだけ声を潜め、小さな声で尋ねた。
「先生は……禁断の恋について、どう思いますか?」
わずかに間を置く。
「女の子同士の恋愛です。それって……間違っていることなんでしょうか?」
「……」
「?」
涼介は、突然頭のてっぺんを殴られたような衝撃を受け、思わず全身をびくりと震わせた。
待て。
新垣さん。
君がそこまでしてサイン会に来たがっていた理由って――
『キノの旅』の作者に、そんな人生相談をするためだったのか?




