第8話 命乞い
「えっ?」
高城凌乃は一瞬、固まった。
いきなり何を言い出すんだよ。
たかが秘密ごときで殺人まで話を飛躍させる必要ないでしょ。
涼介のことは嫌いだ。
だが、そこまで憎んでいるわけではない。
ましてや、本当に殺したいなどと思ったことは一度もなかった。
「冗談よ」
新垣瑠璃は甘く笑い、いたずらっぽく舌を出した。
「もう、怖いこと言わないでよ。本気なのかと思ったじゃない。びっくりした……」
凌乃は胸を撫で下ろしながら、軽く胸を叩いた。
「お兄様と一度、きちんと話してみたら? もしかしたら、あなたのことを理解してくれるかもしれないわよ」
「無理無理。あいつ、勉強だけはできる完璧な優等生バカだもの。私の趣味なんて、絶対に理解できないわ」
凌乃は慌てて両手を振った。
上の世代からすれば、漫画を描くことなど『遊んでいる』としか思われない。
あの義兄が理解してくれるはずがなかった。
何しろ、あいつは――親が理想とする、いわゆるいい子なのだから。
◇
少女たちがデパートを見て回りながら、どうすれば秘密を守れるか話し合っていると、凌乃の携帯電話が震えた。
「あれ?」
鞄から取り出し、画面を見る。
着信表示は――『島川編集部』。
あらかじめ電話帳へ登録してある番号だ。
凌乃の番号を知ってる編集者は、一人しかいない。
「さっきの編集者から?」
新垣瑠璃が横から覗き込み、画面の表示を確認した。
「たぶん。ほかに私の番号を知ってる人はいないし」
「出る?」
凌乃は迷った。
先ほど編集部で受けた仕打ちを思い出すと、まだ消えきっていなかった怒りが一気に込み上げてくる。
今は、とても通話ボタンを押す気になれない。
そのとき、横から細い指が伸びてきた。
緑色の通話ボタンを、軽く押す。
「えっ、瑠璃、何してるの?」
凌乃が止める間もなく、電話の向こうから声が聞こえてきた。
伊織刹那の声だった。
『もしもし、高城先生ですか?』
新垣瑠璃は凌乃へウインクすると、拳を握って励ます仕草を見せた。
早く返事をしろ、ということらしい。
「はい。何ですか、伊織編集者。原稿の催促なら切りますけど」
凌乃の態度は露骨に不機嫌だった。
声にも、それがはっきり表れている。
指はすでに通話終了ボタンの上へ置かれていた。
相手が一言でも嫌味や脅しを口にしたら、すぐに切るつもりだった。
(本当に嫌な人)
(考える時間をくれるって言ったばかりなのに、どうしてもう電話してくるのよ)
(今すぐ私に折れろっていうの?)
(最低!)
『違います、違うんです、高城先生』
電話越しの伊織の声は、驚くほど穏やかになっていた。
先ほど会議室で見せた態度とは、まるで別人のようだ。
『今回の補償について、改めてご相談したくて……とにかく、休載だけはしないでいただけませんか?』
「えっ?」
凌乃の顔に、戸惑いが浮かぶ。
自分がいつ、休載すると言ったのだろう。
『月魔女変身』は、凌乃が心血を注いで描いてきた作品だ。
どんなことがあっても、投げ出したり、適当な終わらせ方をしたりするつもりはない。
自分自身のためにも、作品を応援してくれる読者のためにも、最後まできちんと描き切る責任がある。
思いがけない話に、どう答えたらいいか分からなかった。
『もしもし、高城先生? 聞こえていますか?』
隣にいた新垣瑠璃は、困惑したままの凌乃を見て、彼女の手から携帯電話を受け取った。
そのままスピーカーモードに切り替える。
「初めまして、伊織編集者。私は凌乃の友人、新垣瑠璃と申します。どのような補償を提示できるのか、率直にお話しください」
『先ほどは、私の配慮が足りませんでした。高城先生に損害を与えてしまったことについて、編集部へ申請し、これまでの原稿一枚当たりの単価を基準に、三倍の補償を行うつもりです』
『これが、私にできる最大限の譲歩です。どうかご理解いただけませんか……』
電話の向こうから、伊織刹那の言葉が途切れることなく続いていた。
新垣瑠璃は少し驚きながら凌乃を見る。
本人も、信じられないという顔をしていた。
電話越しでも分かる。
伊織は心から反省して謝っているわけじゃない。
弱みを握られ、追い詰められて、必死に許しを乞うているんだ。
休載。
買い取り契約を結んだあとも、漫画家である凌乃が編集部に対して使える唯一の切り札。
だが、それは相手も傷つける代わりに、自分がもっと大きなダメージを受ける手段だった。
瑠璃の知る凌乃なら、休載を盾に誰かを脅すことなど絶対にできない。
仮に口にしたとしても、対面で話せば、大人である編集者にはすぐ見抜かれてしまうだろう。
本当は連載を止める気などない、と。
瑠璃は、何よりも大切に思っている親友が、どれほど純粋な少女なのかをよく知っている。
嬉しいことも、悲しいことも、怒ったことも、すべて顔に出る。
大切なことほど、胸の内へ隠しておけないのだ。
(あのお兄さんが何かしたのかしら)
新垣瑠璃はそう考えた。
電話の向こうの伊織は、明らかに取り乱している。
追い詰められた末、最後の命綱へ必死にしがみついているようだった。
(これ以上は引き出せそうにないわね)
瑠璃は凌乃に代わり、返事をした。
「恐らく、それが可能な最大限の補償なのでしょう。これ以上追及する必要はないと思います」
「ただし、補償金は次の原稿を提出する前に、全額支払ってください。それが守られるなら、凌乃は休載しません」
『ありがとうございます! 本当にありがとうございます!』
新垣瑠璃は、それ以上話を聞かずに通話を切った。
凌乃は、まだ状況を理解できずにいる。
編集部を出てから、まだ二時間ほどしか経っていない。
それなのに、相手のほうから謝罪してきた。
想像してたのと、まるで違ってた。
「満足した? あの編集者が提示した補償」
「まあまあね。ちゃんと謝るなら、私だってそこまで心が狭いわけじゃないし」
高城凌乃は腰へ両手を当て、少し唇を尖らせた。
どうやら機嫌は直ったらしい。
「でも、変よね。どうして急に態度を変えたんだろう?」
「良心が痛んだんじゃないかしら。それか、上司に叱られたのかもしれないわね。悪いことをしたのは、向こうなんだから」
新垣瑠璃は天使のような笑みを浮かべ、携帯電話を凌乃の鞄へ戻した。
「そうよね! ラッキー☆ やっぱり瑠璃と一緒にいると、運までよくなる!」
凌乃は何も疑わずに笑い始めた。
先ほどまでとは打って変わって、楽しそうに売り場を見て回る。
新垣瑠璃は、各売り場を興味深そうに覗いていく凌乃の姿を見つめていた。
顔には笑みを浮かべている。
だが、胸の奥で別の考えが渦巻いていた。
(やっぱり、一度あのお兄さんに会う必要がありそうね)
(凌乃にとって脅威になるかどうか、確かめないと……)
(私が凌乃のために仕返しする機会を奪って、そのうえ、私と凌乃だけの秘密まで知ってしまった)
(あの男……危険だわ)
幸い、凌乃自身は、誰が自分のために伊織へ圧力をかけたのか気づいていないようだった。
「瑠璃、何をぼーっとしてるの? 早く来て!」
凌乃はすでに少し先まで歩いていた。
瑠璃がその場から動いていないことに気づき、慌てて手を振る。
「今行くわ!」
◇
高城涼介は、デパートの売り場を行ったり来たりしていた。
さすがは東京の中心地の一つである新宿だ。
デパートの内装は非常に豪華で、記憶にある三十年後の店舗と比べても見劣りしない。
この時代、電子機器はまだ高級品に分類される。
学生服姿の涼介は、売り場の中でひどく目立っていた。
両親も一緒にいない。
周囲から見れば、これほど高価な商品を買える少年には、とても思えないだろう。
そのため、しばらく商品を眺めていても、販売員から声をかけてもらえなかった。
「あの……この携帯電話を見せてもらえますか?」
仕方なく涼介のほうから、カウンターの店員へ手を上げる。
そして、ガラスケースの中に並べられた、十八万円の値札が付いた折りたたみ式携帯電話を指差した。




