第7話 いっそ殺しちゃう
「時雨沢先生、すごすぎます!
あの伊織編集者が、何も言い返せなくなるなんて!」
早川留美は涼介に追いつくと、隣へ並んで小声で言った。
二人はすでに漫画編集部を離れ、エレベーターホールまで戻ってきている。
「でも、本当に妹さんへ休載を勧めるつもりなんですか?
そうなったらアニメを予定どおり放送できなくなりますし、ファンからも不満が出ると思いますけど……」
留美は伊織刹那の肩を持つつもりなどなかった。それでも高城凌乃のことを考えれば、休載はあくまで最後の手段だ。
「さっきも言ったでしょう。僕が凌乃の代わりに決めるつもりはありません。どうするかは、あいつ次第です」
高城涼介は笑いながら、到着したエレベーターへ乗り込んだ。留美も慌ててあとを追う。
「それなら、さっき伊織編集者に言っていたことは……」
「単なる腹いせですよ。少し脅かしてやりたかっただけです」
再婚してから、まだそれほど時間は経っていない。
涼介も凌乃に深い情を抱いているわけではなかった。
それでも、同じ高城の姓を名乗る家族だ。
妹が一方的に虐げられているのを見て、何もしないというのも気分が悪い。
「ぷっ……」
留美は、立ち去る直前の伊織刹那の顔を思い出し、こらえきれずに吹き出してしまった。目の前にいる若い作家は、見た目からは想像できないほど大人びている。
「時雨沢先生にあれだけ脅されたら、伊織編集者は今日一日、気が気じゃないでしょうねえ」
「いい大人なんですから、自分がしたことの責任くらい取るべきですよ」
涼介が何気なく答えたところで、エレベーターは一階へ到着した。二人はエレベーターを降りる。
「見送りはここまでで結構です、早川編集者。明日、契約書に署名するためにまた来ます。これからよろしくお願いします」
「こちらこそ! 時雨沢先生にご指名いただけたなんて、本当に幸運です!」
早川留美は深々と九十度に頭を下げた。
それは心からの言葉だった。
文章を書く力も、人生経験も、涼介のほうが自分よりはるかに上だ。
自分が作家を導くというより、むしろ彼に気を遣ってもらっているような気さえする。
涼介は笑顔で軽く手を振った。エレベーターの扉が閉まり、天然なところがある美人編集者とは、ひとまずここで別れることになった。
◇
凌乃がどこで金を得たのかは、すでに突き止めた。家へ帰ったあと、両親へ報告する材料としては十分だろう。これ以上、妹の行き先を追いかける必要もない。涼介は受信機を鞄の奥へしまった。
東京には、もう一日滞在する予定だ。まだ時間には余裕がある。
以前からインターネット上でやり取りしていた相手と会うには、十分だろう。
昨日の時点では予定がはっきりしていなかったため、会う約束までは取りつけていない。
ただし、相手の携帯電話の番号は聞いてあった。
「それじゃあ、次は新宿のデパートで携帯電話を買うか」
この時代、携帯電話はまだ高価な先端機器だ。
最も安い機種でも、十万円近くする。高城美恵子の家計では、涼介にまで持たせる余裕などなかった。
しかし今は、新人賞の賞金として五十万円を手にしたばかりだ。
いつでも連絡を取れる道具だと考えれば、一台くらい買っても問題はない。
涼介は島川映画の受付で近くの店を尋ね、簡単な手描きの地図を受け取った。それを頼りに、新宿の街を歩き始める。
◇
「もう、何なのよ! また子供扱いして、私には何もできないみたいな顔までして! ほんっと腹が立つ!」
高城凌乃は怒りに任せて、空中を蹴りつけた。隣を歩く、凌乃より半分ほど頭一つ分背の高い少女が、慌ててその腕を抱き寄せる。
「もう、そんな動きをしたら駄目よ。スカートの中が見えちゃうでしょ」
少女は凌乃へ身体を密着させ、大きな動きを封じた。
緑色のダウンジャケットに包まれた身体は、すらりと細い。冷たい風にチェック柄のスカートが揺れ、黒いタイツに覆われた両脚が寒さに耐えるように寄せられている。
「こんな寒い日に生脚で出歩けるなんて、凌乃はすごいわね。私は厚手のタイツを履いていても寒いのに」
「瑠璃が細すぎるんだから。食べる量が少ないんじゃない?」
「ふふ、仕方ないでしょう。モデルは体型をキープしないと、写真に映ったときに太って見えるもの」
新垣瑠璃は小さく笑った。それでも凌乃の唇がまだ不満そうに尖っているのを見て、そっと彼女の手を取る。そのまま指を絡め、手をつないだ。
「もう怒らないの。今回のことを教訓にして、これからは契約書の内容を必ずきちんと確認するのよ。分かった?」
「うぅ……もっと早く瑠璃に相談しておけばよかった」
凌乃は悔しそうな顔をする。先ほどまで姉のように信頼していた伊織編集者が、本性をむき出しにした姿を思い返すだけで、今も腹が立って仕方がない。
「大丈夫よ。まずは一緒にデパートを見て回りましょう。少し落ち着いたら、もう一度あの編集者のところへ行って、今度は私も一緒に話すから」
瑠璃は凌乃の手を引きながら、店内へ足を踏み入れた。
「契約を変えられなくても、せめて報酬くらいはもっと払わせないとね」
暖房の温かな風が、二人を正面から包み込む。怒りですでに身体が熱くなっていた凌乃は、思わず瑠璃の手を振りほどいた。
「暑っ……。ここの暖房、効きすぎじゃない?」
凌乃はダウンジャケットのファスナーを下ろし、裾をぱたぱたと動かして熱を逃がす。
その後ろを歩く瑠璃の顔には、なぜか少しだけ残念そうな表情が浮かんでいた。
空になった指先をそっと擦り合わせ、先ほどまでの感触を惜しむようにしている。
「そういえば、会議室から出たときに、あいつとぶつかったのよ」
デパートの中を歩きながら、凌乃が不意に口を開いた。表情は少し複雑だ。
「あいつ?」
新垣瑠璃が不思議そうに顔を向ける。
「ほら、あの人よ。私のお父さん、再婚したって言ったでしょう?」
「突然できたお兄さんのこと?」
「そう、そいつ!」
瑠璃の表情は平静だった。ただ、その目の奥には、わずかな警戒心が滲んでいる。
「どうして、その人が島川ビルにいたの?」
「それなのよ。会うなんて思ってなかった。朝、家を出るときにも確認したけど、あいつはまだ寝てたのに!」
凌乃は思い返しただけで苛立ち、舌打ちした。
「よりによって、あんなところを見られるなんて……最悪。恥ずかしすぎる」
「それよりも――」
新垣瑠璃は一度言葉を切った。
「あなたが漫画家だということを、その人に知られたんじゃない?」
「えっ?」
凌乃は足を止め、振り返った。
「たぶん……知られたかも」
兄とぶつかったとき、涼介は会議室のすぐ外に立っていた。どうやって漫画編集部へ入ったのかは分からない。しかし自分を見つけた以上、内部の編集者に事情を尋ねる可能性は高い。
「まずい……。あいつに知られたら、継母にも絶対に伝わる。全部ばれちゃう!」
凌乃の表情に焦りが浮かんだ。
彼女が漫画を描いていることは、家族には完全に隠している。
外には仕事場まで借りており、週末に時間ができれば、一日中そこへ籠もっていた。長時間の作画で勉強に影響が出ていないかと言われれば、そもそも凌乃は昔から勉強が得意ではない。
あんな退屈なものは、いくら見ても頭に入らなかった。
しかし、自分の父親がどう考えるかは分かっている。
漫画家をしていることが知られれば、学校の成績が悪い原因を、すべて漫画のせいにするはずだ。
そうなれば、凌乃の意思など関係なく、連載をやめさせられる。将来、父親が望む大学へ合格するまで、長い間ペンを持つことすら禁止されるかもしれない。
高城家は、昔ながらの価値観を持つ家庭だ。父親は公務員で、新しい文化や職業に対する理解も乏しい。
「どうしよう、瑠璃?」
凌乃は親友へ助けを求めるような目を向けた。こんなとき、どうやって両親をごまかせばいいのか、まるで思いつかない。
新垣瑠璃はしばらく考え込んだ。やがて、ひどく真剣な顔で口を開く。
「いっそ、殺しちゃう?」




