第78話 走れ!
東京国際展示場の入口には、長い行列が蛇のようにうねっていた。
鈴木宏樹と菊池翔太も、そのうちの1列に並んでいる。
他の来場者と比べれば、2人の位置はかなり前のほうだった。
何しろ、8時間も前から並んでいたのだ。
午前3時には、すでに列へ加わっていた。
「はぁ……人、多すぎない? なんか息苦しくなってきた……」
菊池翔太の顔色は少し青ざめていた。
真夏だというのにフードを深くかぶり、マスクで顔を隠し、その上からサングラスまでかけている。
「息苦しいのは着込みすぎだからだろ? そんなに怖いなら、俺が代わりに買ってきてやったのに。わざわざ来る必要なかったじゃん」
鈴木は呆れたように友人を見た。
この悪友は高校を休学して以来、ほとんど外へ出なくなっている。
人付き合いが極端に苦手で、鈴木と2人きりで話しているときでさえ、視線が泳ぐことがあるほどだった。
「それはちょっと嫌だよ。自分の手であのゲームを買いたいし……それに、購入制限があるかもしれないだろ?」
翔太はそう言って、ぎこちなくマスクを少しだけ下げた。
何度か大きく息を吸い、それからまた元の位置へ戻す。
「楽しみだな……続き、どうなるんだろ」
「俺はエロのほうも気になるけどな。あれだけシナリオの出来がいいなら、そっちもかなり没入できそうじゃん?」
鈴木は悪そうな笑みを浮かべ、期待に満ちた様子で両手をこすり合わせた。
「サークル側がちゃんと数を用意してくれてるといいけどな。売り切れたら最悪だ」
「浅いなあ」
翔太は呆れたように彼を見た。
2人がそんな他愛もない会話を続けていると、突然、列の先頭付近がざわつき始めた。
直後、人の流れが前へ動き出す。
「入場始まったぞ!」
「やっと入れるのか!」
「おおっ! 聖戦開始だ! まず『Fate』の初回分を確保して、そのあと同人誌! 今日は欲しいもの全部買うぞ!」
「どっち行けばいいんだ!?」
菊池翔太は、ほとんど人の波に押されるようにして前へ進んだ。
隣に鈴木がいなければ、その場でしゃがみ込んでいたかもしれない。
怖すぎる。
どうにか入場確認を済ませ、会場内へ入る。
ようやく一息つけると思ったその瞬間、隣にいた鈴木宏樹が翔太の腕をつかんだ。
「東! まず東だ!」
「翔太! 走れ!」
「えっ? 走るの!?」
そこまで急ぐ必要があるのか。
これだけ前のほうに並べていたのに。
だがすぐに翔太は気づいた。
後から入場してきた来場者たちが、次々と自分たちを追い抜いていく。
ほとんど全員が、足早に目的地へ向かっていた。
「何ぼさっとしてんだよ! 走らないと、サークル側の在庫が少なかったら、お前の番までに売り切れるぞ!」
なぜmi Markeが『聖戦』と呼ばれるのか。
欲しいサークルの限定作品を手に入れるには、奪い合うような勢いで動かなければならないからだ。
まさしく激しい攻略戦。
会場入口から、数え切れないほどの人々が一斉に駆け出していた。
菊池翔太も無理やり足を動かし、鈴木の背中を追った。
◇ ◇ ◇
高城凌乃は、一足先に入場できる出展者の特権を存分に満喫していた。
欲しいものを好きなだけ買える。
その快感に浸っていたところを、つい先ほど五更真緒にスペースまで連れ戻されたところだった。
「何よ。まだ欲しいものいっぱいあったのに。もうちょっと見たかった」
凌乃は不満そうに口を尖らせる。
「限定物はだいたい回ったでしょ。残りは少しくらい遅くても買えるものばかり。安全のためにも、しばらくここにいたほうがいいわ」
「意味分かんない」
凌乃が理由を問い返そうとした、そのときだった。
ゴゴゴゴ……。
「……ん?」
足元がかすかに揺れている。
「何これ? 地震?」
「知らないの?」
真緒は少し意外そうに凌乃を見て、手首につけた可愛らしいルナの腕時計を指差した。
「もう11時よ」
「だから何? 地震と時間に何の関係があるの?」
「今までmi Markeの午前入場を経験したことないの? しかも今日は初日よ」
「そりゃないけど」
高城凌乃の家は門限に厳しい。
こんな早朝から並ぼうものなら、父親に見つかった時点で外出禁止を食らうに決まっている。
真緒は会場入口のほうへ視線を向けるよう促した。
「何よ、もったいぶって……」
そこまで言ったところで、凌乃の声が止まった。
会場へ飛び込んでくる人影が見えた。
1人。
2人。
10人。
100人。
そこから先は、もう数えられない。
黒い塊のような人波が、まるで突撃でもするかのような勢いで押し寄せてくる。
「11時に一般入場が始まると、堰を切ったみたいに人が流れ込んでくるの。何万人規模の突撃を甘く見ないほうがいいわ」
真緒は口元を上げた。
「衝撃に備えなさい、金髪お子様」
スペースでは、鳳凰院沙織も椅子から立ち上がり、軽く身体をほぐしていた。
「ふふ、始まるわね!」
◇ ◇ ◇
「東! 東!」
菊池翔太の頭の中はほとんど真っ白になっていた。
それでも目的地だけは、はっきり覚えている。
運動不足の身体では、ほんの少し走っただけでも息が上がった。
気づけば鈴木宏樹の姿も見失っている。
人が多すぎて、あっという間に離れ離れになってしまったのだ。
「93……93番、どこだ……?」
YPEMNのスペース番号は事前に確認していた。
だが実際に東ホールへ足を踏み入れると、どちらへ向かえばいいのか分からない。
翔太は茫然と立ち止まった。
人付き合いが苦手な彼にとって、mi Markeへ来るのは今日が初めてだ。
鈴木の案内なしで、この巨大な会場から特定のスペースを探し出すのは簡単ではなかった。
「……待って! あのマーク!」
そのとき。
少し離れた場所に、ひときわ高く掲げられた旗が見えた。
そこには見覚えのあるロゴが描かれている。
見つけた!
胸の奥に火がついたようだった。
肺が壊れそうなほど息を荒らしながら、翔太は全力で駆け出した。
そして、ようやく目的地へたどり着く。
「ちょっと遅れただけなのに……」
菊池翔太は目の前の光景に呆然とした。
すでに長蛇の列ができている。
前に何人いる?
20人。
50人。
100人……。
もう数えられない。
「これ……1000人くらいいるんじゃ……?」
◇ ◇ ◇
「ありがとうございます! 8000円になります!」
鳳凰院沙織は驚異的な速度で会計と商品受け渡しをこなしていた。
だが高城凌乃から見れば、それでも列が伸びる速度には到底追いついていない。
人の列が、目に見えて長くなっていく。
100メートル以上は続いている。
その先となると、凌乃の位置からではもうよく見えなかった。
「……売れすぎじゃない?」
想像以上だった。
正式版を先に遊んだ数少ないプレイヤーの1人として、『Fate/stay night』の完成度が高いことはよく分かっている。
それでも、目の前の光景は信じがたいものだった。
五更真緒も同じように驚いている。
「私のサイトの宣伝って、そんなに効果あったの? 最近は関連スレッドがすごい勢いで伸びてたけど……それにしても異常でしょ」
「2人とも、ぼーっとしてないで梱包手伝って!」
沙織1人ではもう処理しきれなくなっていた。
列は想定以上の勢いで伸び続けている。
このままでは通路を塞ぎ、周囲のスペースにまで迷惑をかけかねない。
凌乃と真緒は顔を見合わせると、すぐに商品の梱包を手伝い始めた。
◇ ◇ ◇
「高城留美子先生が原画やってるゲームなら、シナリオがどれだけ酷くても1回は買うだろ! 『月魔女変身』みたいな絵なら、それだけで元取れるって!」
「えっ? 高城留美子って、あの人? 本当なの? 全然宣伝見てないんだけど。このYPEMNってサークル、今回が初参加じゃない?」
「らしいよ。俺も小さい掲示板で見ただけ。まさか18禁ゲームの原画やるとは思わなかったけど、これは保存用にも欲しい。ストーリーなんてどうでもいい、俺はエロCGが見たい!」
列のあちこちから、そんな会話が聞こえてくる。
興味を引かれた通行人が話を聞きつけ、新たに列へ加わることも少なくなかった。
「まあ、それはそうなんだけどさ。このサークル、前に体験版も出してたらしいぞ。俺は手に入らなかったけど、かなり評判いいって」
「え? 体験版あったの?」
「ああ。島川のライトノベル誌に限定で付いてたやつ。俺も何軒も店回ったけど買えなかった。当時はデマかと思ったよ」
「原作って誰? 奈須きのこ? 全然聞いたことない名前だな」
菊池翔太は列の中で、緊張したように指を握りしめていた。
周囲の会話を聞けば分かる。
この人たちは、誰も体験版を遊んでいない。
教えたい。
すごく勧めたい。
だが口を開こうとしても、どうしても声が出なかった。
「まあ何でもいいって。クソゲーでもシナリオ飛ばせばいいし、高城留美子の絵が見られるなら十分だろ」
翔太の前に並んでいた男が笑いながら言った。
最初からまともにプレイするつもりすらないらしい。
「同人誌を買う感覚でもいいけど、8000円は結構高いよな。ちょっと強気すぎない?」
「だよな。別に絶対欲しいってほどでもないかも」
翔太は俯いた。
心臓が激しく鳴っている。
「……違う」
「ん?」
「絶対……買ったほうがいい……!」
「は? 誰?」
前にいた男が振り返った。
顔つきだけを見ると、翔太にはかなり怖そうに見えた。
「俺……体験版、やったから……」
「ちゃんと遊ばないと……絶対、後悔する……」
菊池翔太は必死に言葉を絞り出した。
どうしても何か伝えなければならないと思った。
「へえ?」
「さすがに大げさじゃない? 無名サークルだろ?」
周囲からもいくつもの視線が集まる。
翔太は大きく息を吸い、前にいる男とおそるおそる目を合わせた。
「何だよ、黙ってないで言ってみろよ。そんなに面白いのか? ほんと暗いやつだな」
列の中に、小さなざわめきが生まれた。
その騒ぎに気づいた鈴木宏樹が、人混みの向こうに友人の姿を見つけた。
少しだけ迷ったあと、鈴木は自分の列を離れ、翔太の前方へ歩いていく。
「すみません、場所代わってもらえます? 俺、前から1人分下がるんで。こいつ友達なんです」
簡単に事情を説明し、無事に翔太のそばへ入り込んだ。
「悪い。こいつ、人と話すの苦手なんだ」
鈴木は相手と言い争うことはしなかった。
いつもの経験上、そんなことをすれば、翔太が余計に苦しくなると分かっている。
「何だよ。びくびくして黙り込んでさ。変なやつ」
前の男は小さくぼやき、それ以上は翔太を気にしなかった。
だが次の瞬間。
耳元近くで、ほとんど鼓膜を震わせるほどの叫び声が響いた。
「クソゲーなんかじゃない!」
声の主は、菊池翔太だった。
「この作品……遊ばなかったら、絶対に後悔するから!」




