第77話 大事なのは目立つこと!
8月12日、金曜日。
まだ夏休みの真っ最中だというのに、高城凌乃は珍しく早起きしていた。
太陽が昇ったばかりの朝6時。
すでに家を出ている。
今日はmi Marke初日。
出展者の1人である以上、できるだけ早く東京国際展示場へ向かわなければならない。
少なくとも自分が会場を回る前に、鳳凰院と一緒にスペースの設営を済ませておく。
それは前々から涼介と約束していたことだった。
もっと早い時間に電車が動いていたなら、あと2時間は早く家を出ていたくらいだ。
「まあ、あいつがうまく誤魔化してくれるだろうし、お父さんにも何も言われないよね?」
こんな早朝に家を出るのは初めてだった。
いつもの『身バレ防止』用の変装を済ませ、サングラスとマスクまで装着。
父親に見つからないよう、こっそり家を抜け出したときは、妙なスリルさえ感じた。
「こんな大事な日なのに、あいつはまだ寝てるんだから。まあ、今回は助けてもらったし、許してあげるけど」
考えてみれば、涼介が何とかしてくれなければ、今日は初日のステージを諦めるしかなかった。
「それにしても……今日は瑠璃と何するんだろ。まさか、本当に瑠璃のこと狙ってたりしないよね?」
電車に揺られながら、凌乃はぼんやりそんなことを考えていた。
早起きしたせいで、まだ頭が完全には目覚めていない。
「しかも、瑠璃にgalgameを勧めるとか言ってたし……それで本当に成功したら、私よりあいつのほうが瑠璃と仲いいってことにならない? 私にだってできないのに」
そう考えた途端、なぜか胸の奥がもやもやした。
いつの間にか、あの兄は自分の親友と、2人きりで会えるくらいの関係になっている。
「なんかあいつ、妙に女の子に縁があるよね。……ムカつく」
凌乃は不満そうに唇を尖らせた。
◇ ◇ ◇
電車が駅へ到着すると、大勢の乗客が一斉にホームへ吐き出された。
凌乃も足を速め、人の流れに乗って東京国際展示場へ向かう。
携帯を取り出して時間を確認した。
まだ7時を少し回ったばかり。
それなのに会場前には、すでに長蛇の列ができていた。
適当に先を見渡しただけでは、最後尾すら見えない。
もっとも、凌乃にとっては見慣れた光景だった。
日本最大級の同人誌即売会なのだ。
これくらいの熱気があって当然だろう。
この3日間は、全国のオタクにとって年に2度しかない『聖戦』なのだから。
早くから並んでおかなければ、人気の高い作品などあっという間に完売してしまう。
いつもなら凌乃も、あと2時間ほどすれば、あの延々と続く列のどこかに並んでいたはずだ。
だが今回は違う。
自分には特権がある!
「おーい、そこの黒猫! こっち!」
待ち合わせ場所で見覚えのある姿を見つけ、凌乃は大きく手を振った。
声に反応してこちらへ歩いてきたのは、小学生の制服にも見える衣装を着た、小柄な少女だった。
「勝手に人へあだ名をつけるなんて、ずいぶん失礼ね。お子様」
五更真緒は耳元の黒髪をかき上げながら、すぐさま言い返した。
「そっちが先でしょ! 金髪チビとか勝手に呼び始めたくせに」
そこまで言った凌乃だったが、真緒の格好を改めて眺めた途端、目を輝かせた。
「……っていうか、その服すごく似合ってるじゃん。さすが小学生体型っていうか」
よく見れば、『カードキャプターさくら』でさくらが着ている制服ではないか。
自分が漫画の中で描いた衣装が、現実に飛び出してきた。
なんとも不思議な感覚だった。
「また私の地雷を踏んだわね。まあいいわ。今のは褒め言葉として受け取ってあげる」
真緒は特に怒らなかった。
以前オフラインで会って以来、2人は喧嘩をきっかけに妙な交流が続いている。
ネットのチャットルームで話してみれば、趣味もかなり近かった。
その中で真緒も、高城凌乃という少女の性格を少しずつ理解し始めていた。
こういう言い方をするのも、別に悪意があるわけではない。
単純に、素直な言葉で表現するのが苦手なだけなのだ。
「それ、どこで買ったの? もうこんなコスプレ衣装が売ってるわけ?」
凌乃は少しだけ、自分も着てみたいと思った。
「ふふ。お願いするなら、あなたの分も作ってあげてもいいけど?」
「は?」
「私のお母さん、縫製会社で働いてるの。頼んで作ってもらったのよ」
「ふん」
凌乃は顔を背けた。
この黒猫に頭を下げてお願いするなど、絶対にありえない。
「別に頼まないし。このくらいの服、大したことないでしょ」
「そう? なら、その欲しくてたまらないって顔をやめたら? よだれが出そうよ」
真緒は容赦なく、凌乃の強がりを見抜いた。
向こうが棘のある言い方をするのなら、こちらも遠慮する理由はない。
「何よ、ほんっと嫌なやつ」
「お互い様でしょ」
「出展スタッフ扱いで先に入れてあげるんだから、少しくらい感謝したら?」
「その代わりにタダ働きするんだけど?」
初日を鳳凰院沙織1人だけで切り盛りするのは大変だろうと涼介が考え、真緒にも手伝いを頼んでいた。
凌乃と合わせて2人。
交代でスペースを手伝えば、沙織の負担もかなり減るはずだ。
入場料もかからず、長時間並ぶ必要もない。
その条件もあって、真緒はかなりあっさりと引き受けていた。
「そういえば、涼介は今日は来ないの?」
「別の用事があるって。来るとしても、終了間際じゃない?」
「そう。ちょっと残念ね」
真緒は淡々と言った。
凌乃はスペースを探しながら何気なく答えていたが、数歩進んだところで違和感に気づいた。
「……待って」
「何?」
「今、あいつのこと何て呼んだ?」
「涼介だけど。名前、間違ってないわよね?」
「そんなこと分かってる! なんで名前で呼び捨てにしてるのって聞いてるの!」
凌乃は眉を寄せた。
胸の奥に、また妙な不快感が湧き上がる。
何なの?
まだ1回しか会ってないくせに。
名前を呼び捨てにするなんて、ある程度親しい間柄ですることだ。
まして、女の子が男の子をそう呼ぶならなおさらだった。
「高城先生とか高城君だと、よそよそしいでしょ。それ以外の理由をどうしても聞きたいなら……」
真緒は片眉を上げ、意味ありげに笑った。
「私がそう呼びたいから」
何よ、その理由。
凌乃は真緒を思いきり睨みつけると、髪を翻して足早に歩き出した。
「ふん! 節操なし!」
真緒は少し意外そうに、その背中を眺めた。
どうやら本気で機嫌を損ねたらしい。
「自分がかなり独占欲強いって、全然気づいてないみたいね。……まあ、そのほうが面白いけど」
小柄な少女はぽつりと呟き、軽い足取りで後を追った。
◇ ◇ ◇
2時間後。
「はぁ……疲れた……」
高城凌乃は段ボール箱の上へ腰を下ろし、息を整えていた。
スペースの設営は、ほぼ終わっている。
とにかく目立つようにしたいと考えた鳳凰院沙織は、凌乃の身長を軽く超えるほど大きなロールアップバナーを2本も用意していた。
それをスペースの左右へ設置し、宣伝用のイラストを大きく見せている。
さらにテーブルの後ろには、3メートル近い高さの巨大な旗まで立てていた。
そこには『Fate/stay night』のロゴが大きく印刷されている。
旗そのものは発泡素材で作られているため、風がなくても垂れ下がって見えなくなる心配はなかった。
「ちょっと、これいくらなんでも大げさすぎない? 準備するとき、設営する側のこと何も考えなかったでしょ?」
特にあの旗はかなり重かった。
3人がかりで専用の固定器具を使い、ようやくテーブル脇へしっかり固定できたほどだ。
凌乃は周囲のスペースを見渡す。
ここまで派手に飾り立てているところは、他に1つも見当たらない。
「まあまあ、いいじゃない。効果は抜群でしょ? これまで何度も出展で失敗してきた経験を活かした結果なんだから!」
沙織は口元を上げ、鼻梁にかかった分厚い眼鏡を押し上げた。
確かに見渡してみれば、この一帯のどこにいても、少し近づくだけであの目立つ旗が視界へ入る。
「大事なのは、とにかく目立つこと!」
沙織は自信満々に言い切った。
「そうすれば、事前の宣伝を見て気になってた人たちも、すぐにここを見つけられるでしょ?」
「それに、1度列ができれば、それを見て気になった人まで並び始めるものよ」
「そうかなぁ……」
凌乃は疑わしそうに沙織を見る。
「もちろん。この方法、あなたのお兄さんからもアドバイスされたのよ。よく考えたら確かに理にかなってるわ。こんな端っこのスペースでも、この旗があれば見つけてもらえるでしょ?」
「それなら、上に『高城留美子』って大きく印刷すれば、もっと効果がありそうね」
真緒が横からさらりと口を挟んだ。
「余計なこと言わないで!」
凌乃はぎょっとした。
本当にそんなことをされたら、自分が18禁ゲームの制作に参加したという話が、さらに早く広まってしまう。
「そろそろ一般入場が始まるわね」
沙織は小さな椅子を取り出し、そこへ腰を下ろした。
「ここは私1人で大丈夫。2人とも会場を回りたいなら、いつ抜けてもいいわよ」
そう言ってから、何かを思い出したように立ち上がる。
バッグの中から取り出したのは、3枚の白いTシャツだった。
「スタッフ用に3枚、特注しておいたの。1人1枚ね。時雨沢が来ないなら、あいつの分は五更にあげる」
沙織は2人へTシャツを放った。
それぞれ衛宮士郎とイリヤのイラストがプリントされている。
兄妹でお揃い……?
凌乃は手にしたイリヤのTシャツを眺めたあと、沙織が着ようとしている1枚へ視線を移した。
「……ちっ」
思わず舌打ちが漏れる。
沙織のTシャツにだけ、アルトリアが描かれていた。
メインヒロイン。
……偶然?
凌乃の脳裏に、この『女巨人』と初めて会ったときの光景が蘇った。
――あなたと結婚できるなら……。
次の瞬間。
凌乃は自分のTシャツを、真緒が持っていたものと素早く交換した。
「そっち、あんたには大きすぎるでしょ。私のほうがサイズ合いそうだから、仕方なく交換してあげる。感謝しなくていいから」
「……」
五更真緒は、無言で凌乃を見つめた。




