第74話 大賞最終選考
8月第2週。
ライトノベル編集部で、早川留美は目が回るような忙しさに追われていた。
担当している作品のうち何作かは単行本化を控え、『キノの旅』のサイン会企画も目前に迫っている。
しかも、よりによって今日は服部拓也にも別件があり、まったく手を借りられなかった。
電撃文庫大賞が最終選考に入ったため、服部は編集長に同行し、審査の場へ出席しているのだ。
「今回の選考委員、高畑小次郎先生と川上野浩平先生までいるらしいですよ。それにアニメ監督の新房守さんまで。もう修羅場ですよね」
「まあ、今回は最終候補のレベルが高いからな。ある程度見る目のある人間を揃えないと、優劣をつけにくいって判断なんじゃないか?」
「確かに。私は中村先生の『妖裔特警』が結構好きです。銀賞くらいなら十分狙えそうじゃないですか?」
「あれは設定がいいよな。ただ、俺は融寺先生の『星際冒険商人』を推すかな」
「そういえば、今回は完全な新人の作品も2本残ってるそうですね。ちょっと意外でした」
「ああ。両方ちゃんと読んだぞ。『魔法士物語』と『Fate/Zero』だろ?」
「どちらもかなり出来がいいですよね。ただ、後者のほうが一段上じゃないですか? どう読んでも新人が書いた文章に見えませんし、下手したら大賞まであると思います」
「俺もそう思う。古代の英雄を召喚して、あらゆる願いを叶える聖杯を奪い合う。視点人物が次々切り替わるのに、主要キャラの個性がほとんど埋もれてないんだよな」
「ゲーム原作らしいですけど、今の市場でそんなタイトル聞いたことないですよね?」
「発行部の人から聞いたけど、少し前に小さな同人サークルが宣伝の相談に来たらしいぞ。それが、この小説の原作ゲームなんだってさ」
「へえ、そんなことがあったんですか。ちょっと気になりますね。機会があったら遊んでみたいな」
早川は自分の仕事に追われながらも、周囲の会話が耳に入るたびに意識を持っていかれた。
今回の大賞候補作品は、一次選考で現場の編集者たちが目を通した段階から、かなり評判がよかった。
早川自身もその選考に参加している。
涼介の作品なら、少なくとも銀賞以上には入る。
そこに疑いはなかった。
それでも、最終審査員の好みに合わなければ、より上の賞を逃す可能性はある。
「うまくいきますように……」
小さく呟き、早川は再び目の前の仕事へ意識を戻した。
◇ ◇ ◇
「いいぞ、いいぞ! 胸が躍るな! ……それで、我らが今いる場所は、この地図のどこだ?」
「球体である大地の、ほぼ反対側になりますね……これで方針も決まりました」
「……方針?」
「まず世界を半周する! 西へ、西へと進み、道中にある国をすべて征服するのだ! そのままマケドニアへ凱旋し、祖国の民に余の復活を祝わせる! ふははは! どうだ、胸が高鳴るではないか!」
「ぶっ……!」
そこまで読んだところで、高畑小次郎は思わず口元を押さえた。
「どうしました、高畑先生?」
隣に座っていた審査員の新房守が、興味深そうに視線を向ける。
ついでに、高畑が読んでいる原稿の表紙も確認した。
――『Fate/Zero』。
意味のよく分からないタイトルだ。
少なくとも、新房には特別惹かれるものはなかった。
彼が今読んでいるのは『星際冒険商人』だ。
「いや、何でもない。あとでこの作品を読めば分かりますよ」
高畑は軽く手を振ると、再び原稿へ視線を落とした。
まずいな。
かなり面白い。
設定の目新しさもさることながら、何より人物造形に相当な力が注がれている。
イスカンダル――アレクサンドロス大王。
とうの昔に歴史の彼方へ消えた人物を、ここまで生き生きと描けるものなのか。
聖杯戦争に召喚されたというのに、考えているのは世界をどう征服するか。
戦争に勝って聖杯を手に入れれば、願いひとつで世界そのものを手に入れることだってできるはずだ。
それなのに。
文章から伝わってくるこの男の性格を考えると、高畑にはどうしても、彼がそんな願い方をするとは思えなかった。
「ずいぶん集中していますね」
新房守は自分が読んでいた原稿を閉じ、隣の高畑をちらりと見た。
完全に作品へ入り込んでいる。
審査員である以上、すべての候補作を客観的に評価する必要がある。
その意味では、ひとつの作品にここまで没入するのは、あまり好ましい状態ではないと新房は考えていた。
自分が今読み終えた『星際冒険商人』も、十分に面白い。
だが、必要ならいつでも作品から意識を切り離せる。
アニメ監督として見るなら、全体的な完成度は高い。
とはいえ、欠点がないわけではなかった。
賞にするなら、ぎりぎり銀賞。
そのくらいだろう。
新房は原稿を脇へ置き、次の候補作へ手を伸ばす。
何冊かの表紙を眺めたあと、選んだのは『Fate/Zero』だった。
表紙はいたって簡素だ。
作品名と作者名だけが印字されている。
「虚淵玄……こっちも妙なペンネームだな」
新房は眉を寄せながらも、そのまま最初のページをめくった。
◇ ◇ ◇
1時間後。
新房守は原稿を閉じ、長く息を吐いた。
「どうです。面白かったでしょう?」
高畑小次郎が、どこか得意げに眉を上げる。
彼はとっくに『Fate/Zero』第1巻を読み終え、今は別の候補作へ移っていた。
「ええ。ただし、とんでもなく性格の悪いところで終わってますね」
新房も認めざるを得なかった。
すでに読んだ他の候補作と比べても、この作品は明確に頭ひとつ抜けている。
物語の導入だけで、これほど多くの登場人物を、無駄を削ぎ落とした文章で描き分けている。
そして最後には、それぞれの思惑が交錯する乱戦の幕開けまで一気に持っていった。
「この作品、たぶん悲劇になりますよ」
新房は少し考えてから言った。
「文章の根っこに、妙に骨身に染みる悪意を感じます」
「そうですか? 私はむしろ、自己救済の話になるんじゃないかと思っていますけどね」
高畑は口元を緩める。
「それとも新房監督が、そういう話がお好きだから、ついそっちへ進んでほしいと思ってしまうんですか?」
「そんなことはありません。私は優れた作品なら、どんな方向性でも公平に評価しますよ」
新房は即座に否定した。
自分が監督した作品で視聴者が泣くのを見るのが好きだ――などという噂が、業界の一部で囁かれている。
まったく根も葉もない話だ。
たまたま自分に回ってきた仕事と、そういう脚本の相性がよかっただけである。
「そうですか」
高畑は楽しそうに笑ったが、それ以上は追及せず、再び原稿へ目を落とした。
新房も次の候補作を手に取る。
ところが。
最初の1ページを読み始めたところで、自然と眉間に皺が寄った。
先ほどまでなら普通に読めたはずの文章が、妙に平板に感じる。
頭の中では、さっき読み終えた物語の続きばかりが気になっていた。
「……ちっ。引きずられたか」
新房は小さく舌打ちした。
◇ ◇ ◇
服部拓也が編集部へ戻ってきたのは、夜の8時を過ぎた頃だった。
オフィスの照明はすでに大半が消えている。
点いているのは、仕事が終わらず残業している数人のデスクライトだけだ。
早川留美も、その1人だった。
「お疲れさまです、服部さん」
戻ってきた姿に気づき、すぐに声をかける。
「まだ残ってたのか。仕事が回ってないなら、明日は俺も手伝う。もう遅いんだから、今日は帰って休め」
服部は手にしていた封筒を自席脇の引き出しへしまい、パソコンの電源を落とした。
どうやら、そのまま帰るつもりらしい。
「……あの、服部さん」
早川は何か言いたげに口を開いた。
服部は編集長に同行して最終選考へ出席していた。
そして今、戻ってきた。
ならば当然、結果も出ているはずだ。
少しだけ先に聞いてもいいだろうか。
「結果が気になるんだろ?」
服部は何でもないことのように言った。
「正式なものは、明日には分かるはずだ」
「そうですか……」
早川はしゅんと肩を落とした。
少し焦りすぎたらしい。
文庫大賞のような文学賞は、審査終了後すぐに現場へ情報が回るとは限らない。
「ただし」
服部が続ける。
「準備だけは前倒ししておけ」
「え?」
「サイン会の仕事はできるだけ早く片づけろ。来週、お前はかなり忙しくなる」
早川の目がぱっと輝いた。
「服部さん! ありがとうございます!」
服部は返事の代わりに軽く手を振り、そのまま編集部を出ていった。
廊下を歩きながら、口元には小さな笑みが浮かんでいる。
「遠回しな言い方も少しは通じるようになったか。早川もようやく成長してきたな」




