第73話 Dream Chaser
翌朝。
高城家の食卓では、兄妹が向かい合って朝食を取っていた。
美恵子がキッチンで食器を片づけている隙を見て、凌乃が身を乗り出す。
「ねえ。昨日、瑠璃に何を言ったの?」
瑠璃から、約束の日を変更したいというメールが届いたらしい。
急にどうしても外せない大事な用事が入ったため、月末に延期してほしいとのことだった。
凌乃は目の前の兄を疑わしそうに見つめる。
昨夜ずっと考えていたものの、どうして突然こんなことになったのか、まるで分からなかった。
「都合がよくなったんだから、いいじゃないか。それと、M展の初日は俺も行けなくなった。別の用事が入ったからな。向こうが忙しそうなら、時間があるときにフェニックス院を手伝ってやってくれ」
「はあ? そんな大事な日に、あんたまでいなくなるの?」
凌乃の顔色が変わった。
涼介がいない状態で、あの女巨人と2人きりで行動するなど、とてもではないが気が休まらない。
「待って。まさか、瑠璃と2人で会うつもりじゃないでしょうね?」
「そういう認識でも間違ってない。とにかく、彼女を12日に別の場所へ連れ出すために、俺もM展には行けなくなった」
涼介はあっさり頷いた。
サイン会を開く以上、作者である自分が会場にいないわけにはいかない。
一方、M展の初日は2000本のディスクを販売するだけだ。
自分が欠けても、出展自体は十分回せるだろう。
「何なのよ、2人して妙に秘密っぽくして……」
凌乃は不満そうに小さく呟いた。
昨夜、瑠璃にも理由を聞いてみたが、珍しく歯切れが悪く、詳しいことは教えてくれなかった。
ただ、M展の初日に参加できるようになったことが嬉しくて、そのときは深く追及しなかっただけだ。
そして涼介も、どう見ても事情を話すつもりはない。
「とにかく、約束の件は解決した。共同制作者なんだから、当日はちゃんと手伝ってくれよ。フェニックス院1人じゃ大変だろうから」
「分かってるわよ。そんなこと、あんたに言われなくてもやるし」
凌乃は腕を組み、ふん、と顎を上げた。
涼介は席を立ち、そのまま自室へ戻ろうとする。
その背中へ、妹の声が飛んできた。
「ちょっと待って……」
金髪の少女は両手を背中に回し、どこか落ち着かない様子で立っていた。
「まだ何かあるのか?」
「別に、大したことじゃないけど……」
凌乃は少し俯き、背中で指を絡ませる。
「今回のこと……ありがと」
何にせよ、この件で長いこと悩んでいたのは事実だ。
涼介がどうやって解決したのかは分からない。
それでも、かなり助かった。
ずっと楽しみにしていたステージを現地で見られなくなれば、間違いなく後悔していただろう。
だからこそ、その一言は心からのものだった。
凌乃の言葉を聞き、涼介は一瞬きょとんとした。
やがて口元が緩む。
「礼を言うなら、せめて土下座して頭くらい下げてもらわないとな」
「え……?」
凌乃は2秒ほど固まった。
「……はあ?」
土下座?
頭を下げる?
頭の中でその意味を反芻する。
……って、何を真面目に考えてるのよ私!
今どき誰がそんな礼の仕方するのよ。
どう考えても、からかわれてるだけじゃない!
凌乃は勢いよく顔を上げ、涼介を睨みつけた。
「あんた、調子に乗るのもいい加減にしなさいよ!」
「はは」
涼介は軽く笑い、背中越しに手を振って階段を上がっていった。
半年前に妹の秘密を知ってから、涼介なりに凌乃のことは随分と気にかけてきた。
だが、真正面からこうして礼を言われたのは初めてだ。
唐突すぎて、こちらのほうが落ち着かないくらいだった。
「少しは成長したな。ちゃんと礼が言えるようになった」
◇ ◇ ◇
今年の8月は、とりわけ暑かった。
夜の9時が近いというのに、肌にはまとわりつくような湿気が残っている。
千葉マリンスタジアム。
会場全体が音楽に包まれ、華やかな衣装に身を包んだ4人の少女が、ステージ上で踊っていた。
激しいドラムの音が観客を煽り、巨大な人波がひとつのうねりとなって揺れる。
1曲を歌い終えると、会場から盛大な拍手が巻き起こった。
4人が舞台袖へ下がったあとも、早川静香の心臓は激しく鳴り続けている。
こんなに大きなステージに立つのは初めてだった。
無事に最後までやり切れた。
それだけで、今は胸がいっぱいだった。
「静香って、本当に歌が安定してるよね……はぁ……。あんなに激しく踊ってるのに、全然息が乱れないし」
朝倉未来が肩で息をしながら言った。
「しかも全然緊張してるように見えなかった。今日、お客さん多すぎるよ。私、出た瞬間に足が震えそうだったもん」
「分かる……。私も怖くて、途中で振りを間違えかけた。あとで伊東さんに怒られそう」
4人は顔を見合わせ、そろって苦笑した。
3日前。
「Dream Chaser」と名付けられた彼女たちのグループは、マネージャーの伊東慎平から突然連絡を受けた。
大きなステージへ出演できる枠を取れたという。
有名ロックミュージシャンのMixが主催する夏の音楽フェス。
本来出演予定だった事務所所属のゲストが、ダンス練習中の怪我で出演できなくなり、その代役として急遽彼女たちに出番が回ってきたのだ。
「若いっていいわねえ。曲もグループ名も、すごく合ってる。いい歌じゃない」
4人が休んでいると、いつの間にか1人の女性が傍らに立っていた。
鏡片を大量にあしらった、眩しいほど派手なドレス。
ピンク色の髪を後ろでまとめ、背中には奇抜な形のギターを背負っている。
「え?」
真っ先に反応したのは静香だった。
「ありがとうございます、先輩」
「夢を追う、か。昔の自分を見てるみたいで、ちょっと感動するわ」
女性は楽しそうに笑う。
「頑張ってね。私は好きよ、あなたたち。機会があったら、この曲を書いた人とも会ってみたいわ。案外、話が合いそう」
そう言い残し、女性は足早にその場を離れていった。
そのまま通路を抜け、ステージへ向かう。
「うそ……今のMixさんだよね?」
「私たち、Mixさんの直前に歌ってたの?」
4人が驚いている間にも、舞台の向こうから地鳴りのような歓声が響いた。
エレキギターが鳴り響いた瞬間、巨大な会場全体に火がついたかのように沸騰する。
「す、すご……!」
朝倉未来は思わず口元を押さえた。
「さすが大先輩……人気が桁違いだね」
そんな会話をしているところへ、伊東慎平が舞台裏へ入ってきた。
パンパン、と手を叩く。
「お前たちの出番は終わりだ。今日はよくやった」
メンバーたちは少し身構えた。
ステージ上で細かなミスもあった。
当然、何か言われると思っていたのだ。
だが、伊東から出てきたのは叱責ではなく、労いの言葉だった。
「初めての大舞台で、最後まで崩れずにやり切った。それだけで十分、期待以上だ」
伊東は4人を順に見渡す。
「特に静香。今日はかなり良かった」
「ありがとうございます」
「今日の経験は忘れるな。お前たちにとって、かなり大きな財産になる」
そこで伊東は話を切った。
「よし。荷物をまとめろ。東京へ戻るぞ」
「はい!」
マネージャーの指示を受け、3人はすぐに私物をまとめ始めた。
ただ、静香だけは少し迷っていた。
その様子に気づいた朝倉未来が近づいてくる。
「もしかして、会いに行こうとしてる?」
「せっかく千葉まで来たし……少しくらい挨拶してもいいかなって」
グループ結成後、静香と未来はかなり親しくなっていた。
今ではほとんど親友に近い。
涼介のことも、ある程度は話している。
静香は彼と長いこと会っていなかった。
当初は、新学期になれば学校で自然に会えると思っていた。
だが、仕事は日に日に忙しくなっている。
このままでは、そもそも入学後にまともに登校できるかさえ怪しい。
「今日はやめときなよ。明日も練習あるでしょ? また会えるって」
未来は静香の肩を軽く叩いた。
「今ここで言い出したら、伊東さんに怒られるかもしれないし」
「……そうだね」
静香は少し残念そうに笑い、諦めることにした。
やがて全員が送迎車へ乗り込み、エンジンがかかる。
車が夜の道路を走り出したところで、伊東慎平の携帯電話が鳴った。
短いやり取りを終え、伊東は後部座席の4人を振り返る。
「今日の出来は悪くなかった。次の仕事も決まったぞ」
少女たちが一斉に顔を上げる。
「今月半ば、M展の3日目にステージ出演だ。『月魔女変身』のアニメ主題歌を歌ってもらう。事務所側ですでに楽曲の使用許可は取ってある」
「明日から振付師も入る。しっかり仕上げろよ」
「はい!」
「え?」
静香だけが小さく声を漏らした。
M展。
記憶が間違っていなければ、高城涼介が以前、自分に音楽制作を依頼したあのゲームも、そのイベントで発売されるはずだった。
「ふふ……」
静香の口元が、自然と緩む。
「思ってたより早く会えそう」
さっきまで少し沈んでいた気持ちが、一気に明るくなる。
彼女の中で、M展の日がほんの少しだけ特別なものになった。




