第72話 世界はそれでも美しい
夜、高城家。
夕食を終えたあと、凌乃は自室に戻って、再び間桐桜ルートの攻略を始めていた。
一方、涼介は机の前に座り、携帯電話を取り出す。
画面にはメールの作成画面が開かれていた。
宛先――新垣瑠璃。
『凌乃のことで、少し相談したいことがある。12日……時間ある?』
涼介はそこまで打ち込んだ。
12日に瑠璃を別の用事で誘い出せれば、凌乃の悩みも解決できる。
そう考えたのだ。
だが、少し考えてから文章をすべて消した。
あまりにも露骨すぎる。
わざわざ12日を指定すれば、あの少女の頭の良さなら何か勘づくかもしれない。
しかも、こんな書き方をすれば間違いなく事情を聞かれる。
中途半端な説明で誤魔化したら、瑠璃のことだ。何日も気にして眠れなくなる可能性すらある。
「どうしたものかな……」
別の理由を考えていた、そのときだった。
携帯電話が震える。
メールの着信表示。
開いてみると、驚いたことに相手は新垣瑠璃だった。
『お兄様、今お時間ありますか?』
随分とタイミングがいい。
また凌乃の近況でも聞きに来たのだろうか?
自分の番号を手に入れてからというもの、瑠璃は涼介を半ば凌乃専用の監視カメラのように扱っていた。
時折、凌乃に関する質問が次々と飛んでくる。
まあ、美少女とメールをすること自体は嫌ではないのだが。
『どうした?』
短く返信する。
ちょうどいい。
この流れで凌乃の件をどうにかできないか、探ってみよう。
すぐに返信が届いた。
『お兄様は、凌乃と一緒に漫画を作っていますよね? 少し聞きたいんですけど、コスプレってどう思いますか? 自分の作品のキャラクターを誰かが演じてくれたら、嬉しいものなんでしょうか?』
急にどうしたんだ?
涼介は少し疑問に思ったものの、素直に答えた。
『そりゃ嬉しいと思う。作品のキャラクターが、それだけ好きになってもらえたってことだから』
『凌乃もそう思うでしょうか?』
やっぱり三言目には凌乃だ。
涼介は思わず笑ってしまった。
自分の描いたキャラクターが現実に飛び出してきたような格好をしていれば、凌乃なら喜々として一緒に写真を撮りたがるだろう。
何しろ、自作の同人誌まで買ってしまうような人間なのだから。
『たぶんな。キャラクターを悪意を持って茶化すようなものでなければ』
ただ、どうして瑠璃が突然こんなことを聞いてきたのか。
そこは気になった。
『ところで、なんで急にそんなことを?』
涼介はそのまま聞いてみた。
わざわざ自分に相談してきたのだから、隠すようなことでもないだろう。
案の定、少しして返事が届く。
どうやら島川から依頼された宣伝関係の仕事らしい。
おそらくアニメ化に向けた先行プロモーションだろう。
プロのモデルにコスプレをさせること自体は珍しくない。
だが、瑠璃がそういう仕事を受けるというのは少し意外だった。
『今回は特別なんです! 大道寺知世の衣装なら露出も少なくて普通ですし、それに事務所が衣装をそのまま譲ってくれるって言うので』
健気だな。
涼介は思わず感心してしまった。
好きな相手を喜ばせるためなら、苦手な仕事でも引き受けるのか。
たかが衣装1着のために。
『お兄様が、凌乃も喜ぶと思うって言ってくれたので、受けることにします。あとで驚かせたいです』
「……」
涼介は届いたメールを見つめ、少し困った。
これでは邪魔しづらい。
どうやら瑠璃は凌乃と買い物へ行くことをかなり楽しみにしているらしい。
もしかすると、ずっと前から楽しみにしていたのかもしれない。
そこへ、さらにメールが届いた。
『それと、もうひとつお兄様に聞きたいことがあります』
『何?』
『お兄様って小説を書いていますよね? 時雨沢恵一という作家を知りませんか?』
「……」
『『キノの旅』の?』
『はい。この作品、ずっと好きなんです。同じ島川でライトノベルを書いているなら、知り合いだったりしないかなと思って。第5巻がいつ発売されるのかとか、サイン会を開く予定があるのかとか……もし分かれば聞いてもらえませんか?』
「……」
そういえば。
以前、早川留美からサイン会の話を持ちかけられたことがある。
そのときは、涼介自身がはっきり断っていた。
『そこまで気になるのか? 普通に連載は続いてるし、サイン会なんてあってもなくても同じだろ』
『作者がどんな人なのか気になるんです。それに、サイン本なら記念にもなりますし』
◇ ◇ ◇
布団の中。
新垣瑠璃はメールを送信すると、顔を上げて本棚を見つめた。
そこには『キノの旅』の単行本7冊が、一番目立つ場所に並べられている。
彼女は最初の3巻が刊行されたころから読み続けている読者だった。
売れ行きも悪くないと聞いている。
にもかかわらず、サイン会が開催されるという話は一度も出てこなかった。
瑠璃には、この作品の中で特に好きな一節がある。
――世界は美しくなんかない。そしてそれ故に、美しい。
「物語に出てくる国は、どこもどこか歪んでいて、極端で、悩みを抱えてる……」
「でも旅をするキノは、それを正しいとか間違ってるとか決めつけない。悲しんで変えようとするわけでもない……」
瑠璃は枕を胸に抱き寄せた。
「私も……同じなのかな」
凌乃への気持ち。
今では、もう目を逸らさずに認めることができる。
自分は高城凌乃が好きだ。
それだけは、間違いなく本物だった。
ただ――。
まだ、一歩踏み出す勇気がない。
「作者さんに直接会えたら、聞いてみたいな……」
「私は、どうしたらいいんでしょうって」
「こんな物語を書けるくらい人生経験が豊富な人なら、私の迷いにも何か答えをくれるかもしれない……」
少し待った。
だが、涼介からなかなか返信が来ない。
「……やっぱり、お願いしすぎたかな」
瑠璃は少し後悔した。
お兄様がその作者本人や担当編集を知っているかどうかも分からない。
もしかすると、自分のためにあちこち連絡して、人に頭を下げることになるかもしれない。
そこまで頼むのは、さすがに図々しい。
もう一度メールを打ち、気にしなくていいと伝えようとした、そのとき。
携帯電話が震えた。
薄暗い部屋の中で、液晶画面が淡い光を放つ。
登録名――お兄様。
『やるよ。今月12日』
「……え?」
◇ ◇ ◇
早川留美は電話を切ったあと、しばらく呆然としていた。
入浴中に携帯電話が鳴った。
妹から、
「『時雨沢恵一』って人から電話だよ」
と聞いた瞬間、慌ててバスタオル1枚を巻いただけの姿で浴室から飛び出したのだ。
それを見た早川静香も、かなり驚いていた。
姉はどれだけ仕事熱心なのだろう。
担当作家から電話が来たというだけで、風呂の途中でも即座に出るのか。
姉が電話口で何度も「はい」「分かりました」と返事をしているのを横目に、静香はそれ以上気に留めなかった。
やがて留美が髪を乾かし終え、再びソファへ腰を下ろしたところで、ようやく興味本位に尋ねる。
「どの作家さん? お姉ちゃんがそこまで大事にしてるなんて」
「こんな遅い時間に電話してくるのはちょっとひどくない? お姉ちゃんの休む時間も考えてほしいんだけど」
静香は少し不満そうに言った。
最近は姉妹そろって疲れている。
夏になってから、どうしても体がだるくなりやすい。
静香自身も、仕事量が明らかに増えていた。
正式デビューしてから地方営業やイベント出演の頻度が一気に増え、人気も急速に伸びている。
事務所ではすでに、彼女たちのためのCD制作まで進められていた。
そのために、有名な作曲家へ高額の制作依頼まで出している。
今では静香自身、
千葉第一高校の学力試験には合格したものの、本当に新学期から通学する時間が取れるのか分からなくなりつつあった。
留美は携帯電話を操作しながら、服部拓也へメールを送りつつ答えた。
「私が最初に担当した作家さんよ」
「ああ、『恩人』の人か。そりゃ大事にするわけだ」
「それで? こんな時間に連絡してくるくらい、何か大事な話だったの?」
以前にも、留美がこれほど誰かを気にかけていたことがある。
わざわざ千葉まで出向き、食事をご馳走したときだ。
「急に……サイン会をやりたくなったらしくて。開催できるかって聞かれたの」
「サイン会って、そんな急に言い出すものなの?」
「しかも日付まで指定されてて。今月12日」
「変すぎるでしょ。お姉ちゃん、まさか引き受けたの?」
静香は思わず突っ込んだ。
だが、姉が真剣な顔で携帯電話を操作しているのを見て、額を押さえる。
まあ、そうなるか。
恩のある作家から頼まれたことを、この姉が断れるはずがない。
ただ、それでは自分で仕事を増やしているようなものだ。
サイン会なんて、少しくらい後にずらしても構わないはずなのに。
留美から聞いた話では、第5巻の連載が完結するのは約1か月後。
普通に考えれば、そのタイミングで開催したほうが宣伝効果も高いはずだ。
「準備する時間はあるわ」
留美は携帯電話を置いた。
服部拓也にも簡単に確認を取り、次の2号の雑誌で事前告知を出すことになった。
電撃文庫側でも同時に宣伝を行う予定だ。
ただし、ひとつだけ不安がある。
「でも……」
留美は少し心配そうに眉を下げた。
「この短い告知期間で、ちゃんと読者が集まってくれるかしら」
「人が少なかったら……作者さんも、さすがに気まずいわよね?」




