第70話 口喧嘩
「――っ!?」
「ちょっと、あんた! なんでこんな人前でハンドルネーム叫んでるのよ!」
高城凌乃は、店内にいるほとんどの客の視線がこちらへ向いたのを感じ、思わず顔を引きつらせた。
自分が直接呼ばれたわけではない。
それでも、同じ席にいるというだけで猛烈に恥ずかしい。
「まあ、この前そういう約束をしたからな。ハンドルネームを合言葉にしようって」
涼介は肩をすくめ、平然と笑った。
「合言葉って、普通はもっとこっそりやるものでしょ!? こんな大声で呼ばれたら、絶対怒るわよ!」
もし自分が同じことをされたら、その場から全力で逃げ出していたかもしれない。
ところが凌乃の予想に反し、店内へ入ってきた少女は、周囲を見回していた顔をすぐにこちらへ向けた。
……何よ。
全然気にしてないじゃない。
少女の表情には、恥ずかしがる様子など微塵もない。
周囲の知らない人間から向けられる視線など、最初から存在していないかのようだった。
五更真緒は足早にボックス席までやってくると、涼介と凌乃を交互に見た。
――若い。
真緒は少し驚いていた。
高城凌乃の年齢についてではない。
意外だったのは涼介のほうだ。
『高城留美子』が若い少女漫画家であることは、すでに漫画ファンの間ではよく知られている。
島川自身が『天才少女漫画家』という肩書きを売り文句として積極的に宣伝していたからだ。
だが、『カードキャプターさくら』のもうひとりの作者であるLAMPまで、自分と大して年の変わらない少年だとは思っていなかった。
「どうぞ、座ってください」
涼介が手を差し出し、凌乃の隣を示した。
「彼女とはあまり気が合いそうにないので……そっちに座ってもいいですか?」
「ん?」
涼介が返事をするより先に、真緒はためらいなく彼の隣へ腰を下ろした。
ネット越しとはいえ、昨晩あれだけ罵り合った相手の隣に座るのは、どうにも気まずかった。
「だったら私がそっちに移るわよ。ひとりでこっち座れば?」
凌乃が眉をひそめた。
何よ。
初対面の男の隣に、そんな自然に座る?
「いえ、このままで大丈夫です」
真緒としては、むしろこちらのほうが居心地がよかった。
喫茶店のボックス席はそれほど広くない。
隣同士になれば、ふたりの距離は拳ひとつ分ほどしか空かない。
それでも真緒が座ろうとした瞬間、涼介はすぐに奥側へ身体を寄せ、余計な接触が起きないよう距離を取ってくれた。
妙に馴れ馴れしく触れてこない。
その対応には好感が持てた。
「……ちっ」
何よ。
なんでか知らないけど、妙に腹が立つ。
凌乃の感情は表情にそのまま出ており、真緒にも丸分かりだった。
「では改めて。『L land/H gameの集い』の管理人、『クロウ・リードのルナ』本人です。初めまして、よろしくお願いします」
真緒は堂々と名乗った。
しかも声が大きい。
近くの席にいた客たちが再びこちらを振り返った。
「ちょ、ちょっと! 声小さくしなさいよ!」
凌乃は頭を抱えそうになった。
「ネットの知り合いとリアルで会ったなら、普通は本名を名乗るでしょ!? なんでハンドルネームのままなのよ! しかもフォーラムの名前まで堂々と出して……恥ずかしくないの?」
「別に。日本の法律では、18禁系の掲示板を運営してはいけないなんて明確に禁止されてないし。知られたところで困らないけど」
「誰が法律の話してるのよ! オタクだって思われるでしょ!」
「ん? あなたは違うの? 18禁ゲームの原画まで描いてるのに」
「なっ……!」
真緒はそこで涼介へ視線を向けた。
「この人、いつもこんな感じなんですか? 私が想像していた高城留美子と全然違います。かなり子供っぽいというか」
「誰が子供っぽいって?」
涼介が答えるより早く、凌乃が食いついた。
「私の頭にも届かないチビのくせに。見た目だけなら、あんたのほうが小学生みたいじゃない!」
「……」
真緒の表情が一瞬固まった。
身長に関しては、反論できない。
彼女はかなり小柄だった。
以前アルバイトを探していたときにも、そのせいで年齢を疑われ、何度か断られたことすらある。
「なるほど。口喧嘩を売ってるってことでいいのね?」
わずか数分。
それだけで、真緒の中にあった『高城留美子』への憧れは粉々に砕け散った。
「だったら私も遠慮しないから」
◇ ◇ ◇
あまりにも突然だったため、涼介には止める暇すらなかった。
ふたりは互いに一歩も譲らず、五分近く口論を続けた。
途中から店内の客たちも、こっそり見るどころではない。
完全に観戦モードになっていた。
美少女ふたりが本気で言い争う光景など、そうそう見られるものではない。
最終的には店員がやってきて、
「恐れ入りますが、もう少しお声を落としていただけますでしょうか」
と注意され、ようやく一時休戦となった。
涼介は眉間を揉みながら、大きく息を吐いた。
ようやく静かになった。
口喧嘩の実力に関して言えば、どうやらふたりは完全に同格らしい。
どちらも引かず、どちらも負けない。
涼介は間に座っているのに、口を挟む隙すらなかった。
「……落ち着いたか?」
ふたりを交互に見る。
凌乃は鼻を鳴らしただけで返事をしなかった。
一方の真緒は、何事もなかったかのように穏やかに頷く。
「彼女と張り合った私が大人気なかったです。本題に入りましょう、LAMP先生」
「何よ、その急にいい子ぶった態度」
「……」
また始まりそうだ。
涼介はすぐに口を挟んだ。
「リアルで会ってるんだから、ペンネームで呼ぶのはやめよう。距離を感じるしな。俺は高城涼介。凌乃は妹だ」
「分かりました、高城先生」
真緒も一応、その理由には納得したらしい。
続けて自分の本名を名乗った。
「五更真緒です」
簡単な自己紹介を終えると、涼介は鞄から持参した体験版のディスクを取り出し、真緒の前へ差し出した。
「今回こうして会ってもらったのは、『L land/H gameの集い』でこのゲームを宣伝してもらえないか相談したかったからだ」
「正式版はもう完成してる。M展で販売予定だ」
「できれば、フォーラムのトップページで目立つ位置に載せてほしい」
真緒はディスクを手に取った。
表面には油性ペンで簡単な記号が書かれているだけ。
パッケージらしい装飾は何もない。
「それなら問題ありません。ただ、宣伝用の素材は必要です。デジタル化されたイラストとかですね」
作業自体は難しくない。
サイトのコードを少し調整すればいいだけだ。
画像広告を数点載せる程度なら、サーバーへの負担も大したことはない。
「素材はできるだけ早くメールで送る」
涼介は頭の中で作業量を計算した。
宣伝用なら数枚で十分だ。
凌乃に描いてもらい、それをデジタル化するところまで含めても、1日か2日あれば用意できるだろう。
「それで、料金は?」
その質問に、真緒は少しだけ間を置いた。
広告案件を受けるのは、今回が初めてだ。
他ジャンルのフォーラムを参考にすれば、1か月の掲載料はおよそ30万円から150万円ほど。
だが、自分のサイトはそこまで大きくない。
試しに、控えめな金額を提示してみることにした。
「1か月10万円でどうでしょう?」
かなり安くしたつもりだった。
それでも、涼介に高いと思われないか少し不安になる。
管理人である真緒は、自分のサイトの規模を誰より理解している。
登録者数は4000人にも届かず、その中にはほとんどログインしない休眠ユーザーも相当数いた。
「いいよ。かなり安いくらいだ」
涼介があっさり了承すると、真緒は密かに胸を撫で下ろした。
同時に、少し嬉しくなる。
10万円は、今の彼女にとって決して小さな金額ではない。
アルバイトなら、半月近く働いてようやく稼げる額だ。
涼介はその場で鞄から現金を取り出し、彼女へ渡した。
全額前払いだった。
真緒はすぐに受け取って財布へしまう。
「では、素材が完成したら早めに送ってください。掲載開始日から1か月間、トップページに出します」
そう言って、真緒は席を立った。
焼肉店のアルバイトが始まるまでは、まだ1時間ほどある。
だが、これ以上ここに長居するつもりはなかった。
ちらりと凌乃を見る。
向こうもほぼ同じタイミングでこちらを見ており、ふたりは同時に顔を逸らした。
この金髪女とは、本当に話が合わない。
下手に何か言えば、また口喧嘩になる。
オタク趣味を持っているくせに、それを恥じて隠そうとする態度も、真緒にはあまり理解できなかった。
その点、兄のほうはずっと話が通じる。
真緒が別れの挨拶をしようとしたところで、涼介が手を上げて制した。
「少し待ってくれ、五更さん」
「まだ何か?」
「もうひとつ聞きたいことがある」
涼介は彼女を見上げた。
「もし、ウェブサイトをひとつ制作して、その後の運営まで任せるとしたら――どれくらい費用がかかる?」




