第68話 ライセンス契約
「いくらですって?」
「1億円です」
会議室の中で、凌乃は当初、その収入をさほど気に留めていなかった。
だが、提示された金額は想像をはるかに上回っていた。
涼介から事前に話を聞かされていたとはいえ、驚かずにはいられない。
前作のときに提示された金額と比べれば、実に10倍以上だった。
斎藤律はふたりの向かいに座り、その反応を静かに観察していた。
凌乃の反応は予想どおりだ。
だが、涼介の顔には、斎藤が想像していたような驚きも動揺も浮かんでいなかった。
ずいぶん落ち着いているな、この少年は。
島川の権利管理部門も、根拠なくこれほどの金額を提示したわけではない。
業界内でも高い専門性を持つ部署が、何度も協議と審査を重ねた末に算出した金額だ。
高額な一括契約金には、作品に関する権利をすべて取得するという、会社側の強い意思が表れていた。
「この書類に署名していただければ、すぐにアニメ化企画が動き始めます。島川系列の映像制作スタジオが制作を担当し、順調に進めば夏の終わりには放送を開始できる見込みです」
斎藤は会議室へ入る前に用意していた2つの書類のうち、片方を取り出し、ふたりの前へ差し出した。
表紙には、こう記されている。
――著作権譲渡契約書。
涼介は書類を手に取り、ページをめくった。
内容は非常に分かりやすくまとめられている。
買い取りの対象には、アニメ、ゲーム、実写映像への翻案権だけでなく、今後の商品化や関連コンテンツの開発権まで含まれていた。
著作権の譲渡。
簡単に言えば、作品そのものを会社へ売り渡す契約だ。
契約後、原作者に残される収入は漫画単行本の印税のみ。
それ以外の展開には一切関与できず、利益も還元されない。
隣から書類をのぞき込んだ凌乃は、複雑な条項を目にした途端、理解することを諦めた。
だが、これほど高額な買い取り金額なら、どう考えても契約したほうが得なのではないか。
「契約しちゃえば? ゲーム制作のお金も足りないんでしょう?」
現在、ふたりの手元に残っている資金は200万円ほどしかない。
8月初旬に原稿料と印税が振り込まれれば、さらに200万円前後の収入が見込める。
それで、ようやくゲームディスクを2000本製造できる程度だった。
しかも、午後に予定されている掲示板での宣伝交渉に必要な費用は、まだ差し引いていない。
ここで1億円が入れば、資金に関する問題はすべて解決する。
だが涼介は、契約書へひととおり目を通しただけだった。
ペンを手に取ろうともせず、書類を机へ戻し、そのまま斎藤の前へ押し返した。
「申し訳ありません、斎藤さん。今のところ、著作権を譲渡するつもりはありません」
「そうですか」
斎藤は、少なくとも少しは迷うものだと思っていた。
これほどの金額を目の前に積まれれば、斎藤自身であっても即答できる自信はない。
だが涼介は、ほとんど迷う素振りすら見せなかった。
斎藤はもう一方の書類を取り出し、涼介の前へ差し出した。
「こちらはライセンス契約書です。対象となる範囲は先ほどの譲渡契約とほぼ同じですが、契約期間は3年間となります」
斎藤は内容を説明していく。
「アニメ化の許諾料は1話につき15万円。全70話を予定しておりますので、合計で1050万円です。8月末までに一括でお支払いします」
「ゲームや関連商品の展開については、売上高の2%から5%を印税としてお支払いします。比率は市場での実績に応じて調整されます」
「実写映像化については、許諾料および分配金の合計上限が1000万円です」
「海外配信が実現した場合も、契約で定めた比率に従って収益が分配されます」
斎藤の説明を聞きながら、涼介は契約書を丁寧に読み込んだ。
特に問題がないことを確認すると、自分の名前を書き込み、隣の凌乃へ手渡す。
凌乃は隣で、指を折りながら必死に計算していた。
「アニメ化で1000万円くらい。外国でも売れて倍になったとして、グッズを足しても5000万円に届かないんじゃ……」
この男は、いったい何を考えているのだろう。
凌乃には理解できなかった。
だが、この手の話について自分が何も分からないことは自覚している。
余計な口は挟まず、おとなしく契約書へ名前を書いた。
その後、双方は単行本の刊行についても打ち合わせを行った。
「可能な限り、アニメ放送より前に単行本を発売できるよう進めます。初版は5万部を予定しています。印税も併せてお支払いします」
「お手数をおかけします、斎藤編集」
涼介は感謝を込めてうなずいた。
この計算なら、8月末にはまとまった収入が入る。
おそらく総額は、1500万円前後になるだろう。
「それでは、私はこれで失礼します。おふたりはごゆっくりどうぞ」
斎藤が会議室を去ったあと、凌乃も涼介とともに島川ビルを後にした。
◇ ◇ ◇
自分の席へ戻った斎藤は、すぐに仕事を再開した。
その姿を見て、野村秀夫が意外そうに視線を向ける。
「もう終わったのか?」
「ああ」
作者との話し合いは、野村が考えていたよりはるかに早く終わった。
かかった時間は、わずか1時間ほどだ。
もし自分の担当作家だったなら、契約内容について次々と質問を受け、半日は拘束されていたかもしれない。
「それで、どうだった? やっぱり会社の提示した一括契約金を受け入れたんだろう? 作品の客層を考えれば、あれ以上の金額はまず出ないだろうしな」
野村は当然のように予想した。
「少女漫画だからな。『ドラゴンボール』や『幽☆遊☆白書』みたいな長期連載の少年漫画と比べれば、どうしても市場は狭い」
斎藤が答えるより先に、野村は涼介たちが権利管理部門の提示を受け入れたものと決めつけていた。
「1億円なんて十分すぎる金額だ。ライセンス方式を選んだところで、契約期間が終わる頃には権利の価値が落ちている可能性だってある」
斎藤はキーボードを打つ指を止めた。
「外れだ、野村」
「え?」
野村は一瞬固まり、奇妙な顔をした。
「作者が断ったのか?」
「言っただろう。権利を手元に残すかもしれないと」
「1億円だぞ? 俺たちが10年働いたって、そこまで稼げるか分からない額じゃないか。普通の作家なら一生提示されないような条件だ。もう少し説得してやるべきだったんじゃないか?」
斎藤は首を横に振った。
「あの少年は、俺が何を言っても判断を変えるような相手じゃない。それに、自分の作品へそれだけ自信を持っているということでもある」
「いくら何でも自信過剰じゃないか?」
野村には理解できなかった。
少女漫画がアニメ化されれば、一定の商業的価値が生まれるのは間違いない。
だが、今回提示された買い取り金額と同等の利益を、分配金だけで得るには何年かかるのか。
「まあ、本人なりの考えがあるんだろう。こういうことは、作者の意思を尊重するしかない」
斎藤はむしろ、涼介が自分なりの判断基準を持っていることを好ましく感じていた。
それを聞いた野村は首を振り、それ以上はこの話題を続けなかった。
「作者から許諾を取れたなら、テレビ局との放送枠の調整も始められるんだろう? 今から選べる枠は少ないぞ。最も相性のいいフジテレビなんて、もう埋まっているはずだ」
「企画の承認がもう少し早ければ、午後9時から10時の枠を狙えたかもしれないのにな。あの時間帯なら悪くなかった」
現在、フジテレビは女性視聴者の割合が最も高い放送局だった。
業界内でよく知られた例として、東映の『ちびまる子ちゃん』は日曜午後6時の枠で放送され、大きな成功を収めている。
「それで、どこを選ぶつもりなんだ? TBSかテレビ朝日か? この2局も余裕があるわけじゃないが、フジよりはまだ枠を取りやすいだろう」
「前に話していなかったか?」
斎藤は眉間を揉んだ。
「今回のアニメ化では、会社は新しい製作委員会方式を採用する。テレビ局も出資者のひとつとして参加するから、放送局は企画段階ですでに決まっている」
「映画制作で使われている、あの方式か?」
野村も、その仕組みについては聞いたことがあった。
出版社、アニメ制作会社、広告会社、テレビ局、商品化を担う企業などが共同で出資し、利益を分配する。
ひとつの企業がすべての費用を負担するより、事業上の危険を大きく抑えられる仕組みだ。
「ああ。業界内にもすでに成功例がある。去年、テレビ東京で放送された作品も大きな成果を上げただろう」
「『新世紀エヴァンゲリオン』のことか? 俺も見ていたよ」
「そうだ。会社としては、著作権を完全に買い取れたなら、全額出資で制作することも考えていた。だが作者が譲渡を拒んだ以上、今回はこの新しい方式を試すことになった」
野村は、斎藤が作成した報告書を保存し、そのままメールで送信する様子を眺めていた。
「それで、結局どこの局なんだ?」
「NHKだ。衛星第2テレビで放送される予定になっている」
「子供向けのチャンネルで、しかも有料放送か……ずいぶん悪い手札を引かされたな、斎藤」
斎藤は小さく息を吐いた。
最良の選択でないことは、彼にも分かっている。
だが、放送局や時間帯の決定にまで、一介の担当編集者が口を挟むことはできなかった。
「それでも、本当に優れた作品なら、いずれ必ず評価される。そうだろう?」




