第67話 契約金
「そうですか。これで信じてもらえましたか?」
「…………」
「ネタバレになったのは仕方ありません。ほかに身元を証明する方法がなかったんですから」
「では、木曜日の午後3時。島川ビルの隣にある喫茶店でお会いしましょう」
涼介は待ち合わせの日時と場所を掲示板の管理人へ送り、相手から了承の返事を受け取った。
予想どおり、最新号に掲載された漫画を読んだことで、涼介が関係者であると証明できたらしい。
『クロウ・リードのルナ』は、涼介の誘いを受け入れた。
「私も行く!」
隣にいた凌乃が腕を組み、見るからに浮き立った表情で言った。
一昨日の言い争いでは、凌乃は管理権限を持つ相手に一方的に叩きのめされている。
自分の正体を知ったとき、あの相手がどんな顔をしたのか。
それを想像するだけで、胸がすく思いだった。
「まさか私だけ置いていくつもりじゃないでしょうね」
凌乃は、今回の面会をずいぶん楽しみにしているらしい。
「もちろん連れていくよ。ほかにも用事があるからね」
「ほかの用事? ゲームのことは全部あんたが担当してるんでしょう? 私が出る必要なんてないんじゃない?」
涼介が平日を待ち合わせ日に選んだのは、掲示板の管理人と会うためだけではない。
昼間、斎藤律から電話が入っていた。
単行本化とアニメ化について話し合いたいため、作者本人に島川まで来てほしいという連絡だった。
そう。
『カードキャプターさくら』は、斎藤の働きかけによって、クロウカード編のクライマックスで高まった人気を追い風に、アニメ化企画を通すことに成功したのだ。
かつて斎藤が約束したとおりだった。
「アニメ化? そんなの編集が勝手に決めればいいんじゃないの?」
涼介から話を聞いても、凌乃はそれほど驚かなかった。
以前、『月の魔女変身』がアニメ化されたときも、凌乃は決定事項を知らされただけで、わざわざ会社へ呼ばれて話し合うことはなかった。
「まあ、いいから一緒に来れば分かるよ」
涼介は詳しく説明しなかった。
前作は権利をすべて失っていたのだから、作者と相談する必要などなかった。
だが、『カードキャプターさくら』は違う。
アニメ化を進める以上、原作者であるふたりにも、当然その利益を受け取る権利がある。
その取り分がどれほどになるかは、これからの交渉次第だった。
「別に何でもいいけど、午後の約束に遅れないでよ!」
凌乃は指を鳴らし、今から意気込んでいた。
アニメ化の話など、彼女にとっては二の次らしい。
とにかく早く、あの『黒猫』と顔を合わせたい。
そして、一昨日自分にしたことを心から反省させたいのだ。
偽物呼ばわりしたうえ、数十個ものアカウントを次々と凍結した。
この借りだけは、何としても返さなければ気が済まない。
◇ ◇ ◇
島川ビル、漫画編集部。
フロアでは大勢の社員が慌ただしく行き交っていた。
出版社にとって、夏休みは一年の中でも特に忙しい時期だ。
有力作品の企画の多くが、この時期に集中して動き始める。
隣で目が回るほど忙しそうに動き回っている同僚に比べ、野村秀夫は比較的余裕があった
「お前、いくら何でも飯くらいちゃんと食えよ」
昼休みを終えて席へ戻った野村は、隣の斎藤律へ声をかけた。
斎藤は相変わらずパソコンの前に座り、企画書をひたすら打ち込んでいる。
机の上には、袋を開けたばかりのあんパンが置かれていたが、一口かじられただけだった。
「そんなもの、適当に腹へ入れれば十分だ」
斎藤は画面から目を離すことなく、ぞんざいに答えた。
「できるだけ早く進めれば、夏休みが終わる前の放送に、ぎりぎり間に合う」
斎藤が口にしている作品が、長らく大切に育ててきた『カードキャプターさくら』であることを、野村は知っていた。
この作品は連載開始と同時に、停滞していた市場へ爆弾を投げ込んだような反響を呼んだ。
『月の魔女変身』の完結によって落ち着きかけていた魔法少女ブームを、再び大きく燃え上がらせたのだ。
作品そのものの完成度も高く、数ある連載の中から瞬く間に頭角を現し、今では雑誌を代表する人気作となっている。
その影響で似たような企画も大量に持ち込まれ、野村は最近、魔法少女ものの原稿を見るだけで胸焼けしそうになっていた。
本来なら、これほどの作品はとっくに単行本化されていてもおかしくない。
アニメ放送開始に合わせて単行本の売上を大きく伸ばすには、事前に刊行しておくのが定石だ。
しかも作者は、すでにかなり先の話数まで原稿を完成させている。
夏休みの終わりに間に合うかどうかという段階まで、企画が遅れる理由など本来はなかった。
「編集長がお前を昇進させる気がないのは、誰の目にも明らかだよ」
野村はため息をついた。
ほかの編集者なら、ここまで長く企画を止められることはない。
とっくに承認されていたはずだ。
こんな扱いを受けるのは、主編集長へ正面から反発し続けている斎藤くらいのものだった。
「承認が遅れれば遅れるほど、テレビ局に残っている放送枠も減っていく。深夜や早朝みたいな時間帯になれば、数字に与える影響も大きいぞ」
数字は、そのまま利益につながる。
同時に、担当編集者の能力と実績を測る材料でもあった。
「…………」
斎藤は返事をしなかった。
ここしばらくの仕打ちで、彼もさすがに気持ちが冷めかけている。
新たな人気漫画を育て上げたにもかかわらず、年末の昇格候補にすら名前が挙がらなかった。
漫画編集部は、いつから山崎主編集長ひとりの私物になったのか。
担当している人気作品がまだいくつも連載中でなければ、作者に対する責任感など捨てて、とっくにこの大手出版社を辞めていただろう。
幸い、ほかの部署まで漫画編集部と同じというわけではない。
斎藤の企画に対し、必要以上の妨害を加える部署は少なく、そちらの手続きは比較的順調に進んでいた。
「これが最後だと思って、もう一度だけやってみるさ」
斎藤は手を止めないまま言った。
「この作品をきちんとアニメ化まで持っていって、それでも権限を濫用して俺の昇進を阻むなら、そのときは本気で辞めることを考える」
隠すつもりもなく言い切った斎藤に、隣の野村は眉をひそめた。
「おいおい、そんなことを軽々しく口にするなよ。会社と競業避止契約を結んでるのを忘れたのか? 島川を辞めたところで、簡単に移れる会社なんてないぞ」
「ここで諦めたら、それこそ主編集長の思うつぼじゃないか」
「だから何だ。いつまでも、あの爺さんの顔色をうかがって働けっていうのか?」
斎藤は気にした様子もなく言い返した。
彼は東京工芸大学の芸術学部で、アニメーション演出を学んでいた。
編集者になったのは、いくつかの偶然が重なった結果にすぎない。
いざとなれば、別の業界で新人からやり直せばいい。
この場所で歯を食いしばりながら、いつまでも冷遇され続けるよりはましだった。
少しくらい頭を下げれば済む話なのに。
野村は苦笑したが、その言葉を口にはしなかった。
斎藤という男をよく知っている。
誰よりも誇りが高く、他人へ頭を下げることを何より嫌う。
口にしたところで、聞くはずがない。
「そろそろ時間だな」
斎藤は突然作業を止め、廊下に掛けられた時計へ目を向けた。
針は午後12時30分を指している。
「作者と会うのか?」
「ああ。アニメ化に際して、どんな契約を結ぶか話し合わないといけない」
斎藤は席を立ちながら答えた。
「会社が提示している一括契約金はかなり高い。だが、俺の見立てでは、作者側は権利を残す道を選ぶかもしれない」
その言葉に、野村は興味を示した。
いわゆる一括契約金とは、著作権や関連権利をまとめて買い取るために、会社が作者へ支払う金額のことだ。
作者がその条件を受け入れれば、以降のアニメ化や実写化、関連商品の開発によってどれほど利益が生まれても、基本的に作者には還元されない。
金額に明確な基準はない。
作品の人気と交渉内容によって決まる。
編集者は会社と作者をつなぐ立場にあるため、正式な提示前であっても、少なくともおおよその金額帯は把握していた。
「権利部門が出してる条件って、いくらなんだ?」
最近の『カードキャプターさくら』の勢いを考えれば、作者にとって十分魅力的な金額が用意されているはずだ。
少なく見積もっても、1000万円は下らないだろう。
だが、斎藤の口から提示額を聞いた瞬間、野村は耳を疑った。
「いくらだって?」
思わず聞き返す。
「1億円……?」




