第64話 桜の夢
「この名前……もしかして、私のファン?」
高城凌乃の顔に、隠しきれない誇らしさが浮かんだ。
クロウ・リードは『カードキャプターさくら』に登場する人物。
そしてルナは、『月魔女変身』に登場する守護獣の名前だ。
そのハンドルネームだけで、涼介にもある程度の予想はついた。
凌乃の言う通り、管理人は両作品のファンである可能性が高い。
「朗報だな。これなら、話を聞いてもらえるかもしれない」
涼介は相手に挨拶のメッセージを送った。
だが、10分以上待っても返信はない。
「ログアウト中か?」
涼介が時計を見上げると、すでに午後9時を回っていた。
いつ現れるかも分からない相手を、このまま待ち続けても仕方がない。
「用が済んだなら早くどいて。攻略の続きがしたいんだけど」
ベッドに寝転がった凌乃が、退屈そうに両足を揺らしている。
「まあ、すぐには返事が来なさそうだな。俺は部屋に戻る。向こうからメッセージが来たら、代わりに話を伝えておいてくれ」
「はいはい、分かったから早くどいて」
凌乃は待ちきれない様子で涼介を椅子から追い払い、『Fate/stay night』のアイコンをクリックした。
再びディスクドライブが回転を始める。
「夜更かしするなよ」
「うるさいなあ。ちゃんと時間になったら寝るってば」
◇
涼介を追い出した凌乃は、さっそく攻略を再開した。
やがて、先ほどと同じ選択肢へ辿り着く。
今度はわずかに迷っただけで、セイバーを殺す選択肢を選んだ。
抵抗はなかった。
画面には、騎士王と出会ってからの思い出が次々と映し出されていく。
すでにFateルートをクリアしている凌乃には、その一つひとつが胸を抉る刃のように感じられた。
「こんなの……」
凌乃の顔が苦しげに歪み、呼吸もわずかに乱れる。
【この道を選んだ以上――たった一人の愛する者のために、大切なものを捨て続けなければならない】
画面に表示された衛宮士郎の独白に、凌乃は深く感情移入していた。
投影した宝石剣をセイバーの胸へ突き刺した瞬間、士郎は彼女だけでなく、これまで抱き続けてきた理想さえも捨てたのだ。
「正義の味方なら、絶対にこんなことはできない」
「この一撃は、ずっと自分を守ってくれたセイバーを裏切るだけじゃない。今まで信じてきたものまで捨てるってことなんだ……」
「ゲームが発売されたら、あの男、本当に刃物を送りつけられるんじゃない?」
だが、認めたくはなくても、これが正しい選択だった。
セイバーの身体が崩れ、黒い泥の中へ沈んでいく。
直後、物語の展開は先ほどとはまったく異なる方向へ進み始めた。
再び視点が切り替わり、遠坂凛と間桐桜の姉妹が対峙する場面が映し出される。
宝石剣を手にした赤い服の少女は、圧倒的な力で桜を追い詰めていた。
「勝てそう。セイバーを倒したから、呼び出される心配もない。これで最強のサーヴァントは消えたんだし」
ところが凌乃の予想に反し、遠坂凛は最後の瞬間、桜を殺すことができなかった。
そのため、桜は一時的に正気を取り戻す。
「次は私の出番ね。今度こそトゥルーエンドで間違いないでしょ?」
凌乃は小さく呟いた。
画面の中で、衛宮士郎が【破戒すべき全ての符】を投影し、間桐桜の胸へ突き刺す。
「なるほど。この宝具は、こう使うためにあったんだ」
「これならハッピーエンドに辿り着けるよね?」
「凛も桜も死んでない。あとは目の前の大空洞を破壊するだけ……」
「待って――」
画面に次々と文字が流れていく。
物語は、またしても不穏な方向へ進み始めていた。
【投影、開始――】
【肉体はすでに死んでいる。だが今、魂だけは残っている】
肉体はすでに死んでいる。
どういう意味?
凌乃は奥歯を強く噛み締めた。
まさか。
嫌だ。
【弓を引く構えを取る。負荷は肉体から魂へと伝わり、その意味はさらに深く――】
【衛宮士郎という人間の死を示す】
「ふざけないでよ!」
その瞬間、涼介が口にした言葉が、凌乃の頭の中に蘇った。
――愛とは、その人のためにすべてを捨てる覚悟のことだ。自分の命さえ例外じゃない。
――先に言っておく。HFルートに、全員が幸せになる結末なんて存在しない。
「そういうこと……? あの言葉は、こういう意味だったの!?」
凌乃は今にもキーボードを叩き壊しそうなほど腹を立てていた。
桜は救えた。
けれど自分は死んでしまう。
結局、幸せな未来には辿り着けないというのか。
【約束した】
【冬が終わり、春が来たら――】
悔しい。
あまりにも悔しかった。
けれど、その怒り以上に強く込み上げてきたのは、どうしようもない悲しみだった。
正気を取り戻した桜が、世界中を探し回り、衛宮士郎が存在していた痕跡を求め続ける姿を目にした瞬間。
凌乃はもう耐えられなかった。
目の奥に溜まっていた涙が、堰を切ったように溢れ出す。
「何なのよ……」
金髪の少女は、次々と頬を伝う涙を何度も拭った。
「あの男、どうして最後まで心を落ち着かせてくれないのよ……」
FateルートやUBWルートの結末でも、感動を抑えることはできなかった。
だが、今のような純粋な悲しみと喪失感を味わったのは初めてだった。
しばらく時間をかけて、凌乃はようやく胸の奥に渦巻く感情を落ち着かせた。
いつの間にかエンドロールも終わり、画面にはただ【END】の文字だけが残されている。
彼女は再びクリックし、タイトル画面へ戻った。
これまでのルートと同様、エンディングを迎えるたびにタイトル画面の背景も変化する。
涼介が仕込んだ演出の一つだった。
背景には、満開の桜が広がっていた。
それを見た瞬間、まるで胸を撃ち抜かれたように、どうにか抑え込んだ悲しみが再び込み上げてくる。
「性格悪すぎるでしょ、あいつ!」
凌乃は慌ててCGギャラリーを開き、その画面から逃げる。
何度か深呼吸を繰り返し、ようやく悲しみから抜け出した。
画面には、今回彼女が辿り着いたエンディングが記録されている。
――【桜の夢】。
そして、その下に並ぶエンディング一覧の中には、まだ解放されていない枠が一つだけ残されていた。
「え?」
凌乃は目を見開く。
HFルートの結末は、これほど残酷なものしかないと思っていた。
だが、どうやら今回のエンディングはトゥルーエンドではないらしい。
「トゥルーエンドじゃない……? 何か条件を満たしてなかったの?」
「ってことは、もしかしたら、ちゃんとみんなが幸せになれる結末もある?」
わずかに希望が戻ってきたものの、まだ不安は消えない。
「念のため、あの男に聞いてみようかな」
凌乃は立ち上がり、隣の部屋へ乗り込んでシナリオ担当を問い詰めようとした。
だが、ドアの近くにある姿見に、泣き腫らした自分の目が映っていることに気づく。
この顔を見られるのは恥ずかしい。
結局、直接聞くのではなく、メッセージを送ることにした。
すぐに涼介から返信が届く。
涼介:『もっといい結末はある。士郎と桜が幸せに暮らせるエンディングだ』
嘘ではない。
HFルートには、確かにトゥルーエンドが存在する。
ただし、衛宮士郎の代わりに、もう一人の白髪の少女が命を落とすことになるのだが。
「何だ。少しは良心が残ってるじゃない」
それならいい。
そのくらいでなければ公平ではない。
涼介:『というか、隣の部屋にいるのに、どうしてメッセージなんだ?』
凌乃:『うるさい!』
泣き腫らした目を見られたくなかったから、などと口が裂けても言えるはずがない。
涼介:『そういえば、掲示板の管理人から返信は来たか?』
「……」
画面に表示されたメッセージを見て、凌乃はようやく思い出した。
時計を見ると、すでに午後10時50分を回っている。
ゲームに夢中になりすぎて、完全に忘れていた。
凌乃はパソコンの前へ戻り、ゲームを終了して掲示板を開く。
メッセージ欄には、未読を示す赤いマークが灯っていた。
クロウ・リードのルナ:『ご用件は何でしょうか?』
返信時刻は、ほんの5分前。
「こんな時間に返事するなんて、管理人も夜型なのかな?」
凌乃は少し考えたあと、涼介から頼まれていた宣伝協力の話を伝えた。
しばらく待つことになると思っていたが、予想に反して返信はすぐに届いた。
クロウ・リードのルナ:『なるほど。現在、掲示板で話題になっているゲームは、あなた方が制作した作品なのですね』
クロウ・リードのルナ:『宣伝への協力は可能です。ただし、まずは制作スタッフの一覧を提示していただけますか?』
「あなた方……?」
普通、こんな呼び方をするだろうか。
少し変わった人なのかもしれない。
だが、要求自体は妥当なものだ。
凌乃は素早くキーボードを叩いた。
シナリオ:奈須きのこ
原画:高城留美子
プログラム:鳳凰院十一郎
いずれもゲームのエンディングで表示される情報であり、秘密ではない。
体験版を最後まで遊んだプレイヤーなら、誰でも確認できる内容だった。
数分後、管理人から返信が届く。
クロウ・リードのルナ:『シナリオとプログラムの担当者は、どちらも聞いたことのない名前ですね』
クロウ・リードのルナ:『ですが、原画担当は……高城留美子?』
「そうよ。そうよ。本人です」
高城凌乃は自分の正体を隠そうともせず、あっさり認めた。
その顔には、わずかな期待が浮かんでいる。
自分の作品を好きだという読者と、直接会話するのは初めてだった。
「宣伝を手伝ってくれるなら、あとでサインをあげてもいいわよ」
「私の作品、かなり好きなんでしょ?」




