第63話 クロウ・リードのルナ
夕食を終えた涼介は、凌乃の部屋の前までやって来た。
ノックしようと手を伸ばしかけた、その瞬間。
ガチャッ。
勢いよくドアが開き、中から一本の腕が飛び出してきた。
「うわっ――」
胸ぐらを掴まれ、そのまま部屋の中へ引きずり込まれる。
子牛でも押さえ込めそうな怪力では、とても抵抗などできない。
バタン――。
ドアが閉まる。
気づけば涼介は畳の上へ倒され、その腰の上には金髪の少女が馬乗りになっていた。
顔が触れそうなほど近い。
ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
……もっとも、その表情が「今すぐあんたを始末してやる」とでも言いたげなものだったせいで、甘い雰囲気など欠片もなかったが。
凌乃は人差し指を涼介の肩へ突きつける。
「ねえ、プレイヤーを苦しめるのって、そんなに楽しい?」
「桜にあんなことするなんて最低! 今すぐシナリオを書き直しなさい!」
「それは無理だな」
涼介は抵抗する様子もなく畳に寝転んだまま答える。
まるでこうなることを最初から予想していたような落ち着きぶりだった。
「ゲームはもう完成してるし、修正する必要があるとも思ってない」
「何それ。プレイヤーに嫌がらせしたいだけ?」
凌乃はますます不満そうに眉をひそめた。
「甘い恋愛を楽しみたいなら、FateルートとUBWルートで十分だろ?」
「でも……!」
凌乃には納得できない。
どうして最後の最後で、あんな選択をプレイヤーへ突きつける必要があるのか。
みんなが笑って終われる結末だって、作れたはずなのに。
セイバーも遠坂凛も、それぞれ切なさはあっても、最後には心が温かくなる結末だった。
だからこそ、プレイしていて本当に楽しかった。
それなのに桜ルートだけは、最初から最後まで救いのない不幸と狂気が続く。
しかも決戦では、自分の手で残酷な選択まで迫られる。
「桜を助けるためにセイバーを殺せなんて……そんなの酷すぎるじゃない!」
「英霊は死ぬわけじゃない。英霊の座へ還るだけだ。その設定は知ってるだろ?」
凌乃がなおも反論しようとした、その瞬間。
涼介は彼女が力を緩めた隙を逃さず身体をひねり、一気に押し返した。
「きゃっ!」
凌乃は勢い余って畳を滑り、肘を壁へぶつける。
「このっ! 逃げる気!?」
痛そうに肘をさすりながら睨みつける。
もう一度押さえ込もうと踏み出すが――。
力比べなら、彼女が圧倒的に有利だ。
涼介はさっさと立ち上がり、軽い足取りでパソコンの前へ移動し、そのまま椅子へ腰掛けた。
ちょうど凌乃の突撃も空振りに終わる。
「いい加減にしろ」
涼介は肩をすくめる。
妹と本気で取っ組み合う趣味はない。
何より、本気になれば負ける未来しか見えなかった。
「ふんっ。ほんっと嫌なやつ」
凌乃は腕を組み、不満げに睨み続ける。
「そんなに桜の境遇が嫌なら、このルートを遊ばなければいい。セイバーや凛との幸せな結末だけで終わってもいいんじゃないか?」
「何それ。私を甘く見てる?」
凌乃は胸を張る。
「ゲームは全部のエンディングを見てこそ、本当にクリアしたって言えるんだから」
少しだけ視線を落とし、小さく呟いた。
「それに……私は桜を助けたいの。あんなこと全部知って、それでも見捨てるなんてできない」
そして再び涼介を睨む。
「だから全部、あんたが悪いの。そんなルートを書いた張本人なんだから」
「面白いからだ」
涼介は一切迷わず答えた。
『Fate/stay night』という作品において。
HFルートは、彼にとって絶対に欠かせない物語だった。
聖杯戦争の闇を描き、この作品の核となる設定を明かし。
そして何より――。
主人公・衛宮士郎という人間の魅力を、最も色濃く描いているルートでもある。
「どこが面白いのよ!」
凌乃は呆れたように目を丸くする。
「もしかしてあんた、女の子を苦しめるのが好きな変態だったりする?」
「違う」
涼介は静かに首を振った。
「HFルートの本質は――選択だ」
「選択?」
「桜を救いたいんだろ?」
「……うん」
「だったら、何も失わずに救えると思ってるのか?」
静かな問いかけ。
それだけで凌乃は思わず言葉を詰まらせた。
「怒ったり、シナリオのせいだって責めたりするのは、何かを捨てる覚悟ができてないからだ」
涼介は穏やかな口調のまま続ける。
「先に言っておく。HFルートに『全員が幸せになるエンディング』なんて存在しない」
「愛っていうのは、大切な誰かのために、すべてを捨てる覚悟のことだ」
「命だって例外じゃない」
「セイバーを斬れなかったってことは――」
涼介は凌乃を真っ直ぐ見つめた。
「まだ、お前は桜を救う覚悟ができてなかった。それだけだ」
凌乃はしばらく黙り込んだ。
言いたいことは理解できる。
結局、自分はセイバーを失うことが怖かった。
Fateルートを最後まで見届けたからこそ、騎士王という存在が大好きになってしまっていた。
だから無意識に、彼女だけは傷つけたくないと思ってしまった。
でも、ここはHFルート。
ヒロインは桜だ。
彼女を救いたいなら――。
兄の言う通り、その覚悟が必要なのかもしれない。
「……ふん」
凌乃はわざとらしく鼻を鳴らした。
だが長い付き合いの涼介には分かる。
これは反発ではなく、納得したときの照れ隠しだ。
「まあ、全部が全部、救いのない話ってわけでもない。あとは自分で確かめてみろ」
「言われなくても、絶対トゥルーエンドまで辿り着いてみせるんだから!」
◇
「そうだ。ちょっとパソコン借りるぞ」
妹をなだめ終えた涼介は、ブラウザを立ち上げる。
昼間、菊池翔太から教えてもらったURLを入力し、Enterキーを押した。
しばらく読み込みが続き、画面が表示される。
サイト左上にはタイトルがあった。
――L land/Hゲーム交流掲示板。
ページ中央には巨大な18禁マーク。
あちこちに低解像度のえっちなイラストが貼られている。
背後から凌乃が興味津々で覗き込んできた。
「何これ?」
「ギャルゲー好きが集まる掲示板らしい」
涼介は昼間の出来事を簡単に説明する。
「へぇ、こんなサイトあるんだ。全然知らなかった」
凌乃は素直に感心した。
彼女のパソコンもインターネットには繋がっている。
だがニュースにも社会情勢にも興味がなく、ブラウザを使う機会自体ほとんどなかった。
オタクではあるものの、ネットコミュニティとは縁のないタイプだったのである。
涼介は菊池翔太から聞いていたスレッドを見つけ、クリックした。
マウスホイールを回しながら一気に読み進める。
そこには、まさに戦場と呼ぶべき光景が広がっていた。
『Fate/stay night』は本当に存在するのか。
その一点を巡り、大勢のユーザーが言い争っている。
「何これ……悪口ばっかりじゃない」
凌乃が眉をひそめる。
画面には、
『存在しないゲームを宣伝している』
『新手の詐欺だ』
『釣りだろ』
そんな書き込みが延々と続いていた。
中には試遊版ディスクを個人売買しようとして、管理人にアカウントを停止された利用者までいる。
正式版を最後まで遊び尽くした凌乃は、『Fate/stay night』がどれほど完成度の高い作品かを誰よりも知っている。
だからこそ、根拠もなく否定されるのが腹立たしかった。
「試遊版の配布数が少なすぎるんだ。掲示板全体から見れば、実際に遊べた人はほんの一握りだからな」
涼介は冷静に分析する。
「しかもこの掲示板は画像のアップロード機能がない。証拠を見せられない以上、疑われても仕方ない」
「個人売買を禁止するのも、運営としては当然だろう」
少し考えたあと、涼介は頷いた。
「管理人に連絡してみるか」
「管理人?」
「協力して宣伝してもらえれば、一番早く誤解を解ける」
涼介はスレッドの中で、一人だけ冷静に状況を整理し続けているユーザーへ視線を止めた。
黒猫のアイコン。
ハンドルネームは――
『クロウ・リードのルナ』。




