第61話 すべてはロリのために
帰りの電車へ向かう途中も、涼介の頭には『Fate/Zero』のことが残っていた。
この作品は本来、原作ゲームが大ヒットしてから数年後に発表されたものだ。
虚淵玄は『Phantom』や『沙耶の唄』などによって、独特で残酷な作風を確立したものの、その後は長い低迷期に入っている。
そんな彼が奈須きのこから誘いを受け、執筆したのがこの前日譚だった。
記憶にある本来の時系列どおりに発表するのであれば、成功はほぼ約束されている。
大ヒットIPとなった『Fate』の人気を、そのまま追い風として利用できるからだ。
しかし、まだ原作ゲームすら正式発売されていない現時点で、この作品を世に出すことは一種の賭けでもあった。
今はまだインターネットが十分に普及していない。
Mが終われば、ゲームの売上はそのまま停滞する可能性が高い。少なくとも、口コミが爆発的に広がるまでには時間がかかるだろう。
だが『Fate/Zero』が電撃文庫大賞で結果を残し、出版まで辿り着ければ、ゲームにとって最高の宣伝になる。
逆に、ゲームのファンが前日譚に興味を持ち、書店で小説を手に取る可能性も高い。
互いが互いを宣伝する。
理想的な相乗効果が生まれるはずだった。
もっとも、そのためには大前提として、文庫大賞で結果を出さなければならない。
虚淵玄の文体そのものは、涼介にとってそれほど再現が難しいものではなかった。
過去の作品はほとんど読破している。
後にシリーズ構成を担当する『魔法少女まどか☆マギカ』も3回は見返していた。
虚淵玄という作家は、自分の生み出した登場人物を、一人ずつ取り返しのつかない悲劇へ突き落としていく傾向がある。
涼介も、そうした物語は嫌いではない。
完成した原稿は原作と大きな差がなく、それでいて読者が入りやすいよう、導入の難度だけは少し下げてある。
「そういえば、これを凌乃が読んだら、本気で決闘を申し込まれるかもしれないな」
ここ数日、まともに口を利いてくれない妹を思い出し、涼介はわずかに頭を抱えた。
◇
帰りの電車に乗る前、涼介は駅周辺のコンビニを回っていた。
目当ては、付録付きの島川『Magazine』だ。
自分たちが作った試遊版が付属している号を、記念として一冊手元に残しておきたかった。
ところが、何軒回っても付録付きのものは見つからない。
店員にも尋ねてみたが、ディスクが付いたものはすべて売れてしまったらしい。
「まあ、同じ値段なら、普通は付録が付いているほうを選ぶよな」
もともとの数が少ない。
毎週わずか500部を東京都内全域へ振り分けているのだから、島川の流通網を考えれば、一店舗に一冊入荷しているだけでも運がいいほうだ。
「次で最後にするか。なければ諦めよう」
涼介は仕方なく首を振り、駅から最も近い最後のコンビニへ入った。
そして幸運なことに、雑誌棚には付録付きの号が一冊だけ残っていた。
「まだ売れていなかったのか」
涼介は棚から雑誌を取り、ついでに飲み物を一本手にしてレジへ向かった。
会計のため財布を出した、そのときだった。
コンビニの自動ドアが開き、息を切らした青年が駆け込んでくる。
◇
菊池翔太はサンダル履きで、薄い白のTシャツを一枚着ているだけだった。
髪は寝癖で鳥の巣のように乱れている。
「鈴木の奴、ディスクを持ってるくせに、絶対に貸さないとか言いやがって……本当に性格悪いよな」
ぶつぶつと独り言を言いながら店内へ入る。
中に別の客がいることに気づき、その相手から視線を向けられると、翔太は反射的に俯いた。
そうしていれば、少しだけ安心できた。
普段ほとんど外出しない翔太にとって、見知らぬ人間の視線は、それだけで恐怖を感じるものだった。
「早く見つけて、さっさと帰ろう」
翔太はほとんど立ち止まることなく、漫画や雑誌が並ぶ棚へ向かった。
目をせわしなく動かしながら、目的のものを探す。
雑誌を手に取り、急いで最後のページを確認しては元の場所へ戻す。
それを何度か繰り返したあと、翔太の顔に落胆が浮かんだ。
「ここにもないのかよ。いくらなんでも数が少なすぎるだろ……」
自宅から半径3キロほどの範囲を回り、すでに十数軒のコンビニを探している。
それなのに、一冊たりとも残っていなかった。
「いくら『お兄ちゃん』の一言が聞きたいからって、ここまでするのはさすがにおかしいよな……」
翔太と幼馴染は、同じ引きこもり同士だった。
共通の話題に困ることはなく、暇なときにはよく電話で話している。
ところが数日前、通話の向こうから女の声が聞こえた。
問い詰めてみたところ、まだ市販されていないギャルゲーの試遊版を遊んでいるらしい。
しかも、かなり面白いという。
『信じろよ、翔太。このゲームは絶対にお前も好きになる。Mで正式発売されるから、そのときは一緒に並ぼうぜ』
『それまでは、試遊版を遊べない苦しみに耐えてろよ。羨ましいだろ? このゲームの女の子、俺のことをお兄ちゃんって呼ぶんだぜ。白い髪のロリだ。まあ、お前には見られないけどな』
あの腹立たしい嘲笑が、今も翔太の脳内で何度も繰り返されている。
本当に性格の悪い友人だった。
最初から何も言われなければ、ここまで興味を持つこともなかったはずだ。
だが、あれだけ見せつけるように自慢されてしまえば、気にならないわけがない。
『試遊版のディスクは、島川のライトノベル誌『Magazine』に付いてたんだ。毎週数量限定らしい。俺は本当に運がよかったよ。適当に買っただけで手に入ったんだからな』
『ネットには、この作品を認めようとしない奴もいる。一度も遊んだことがないくせに、吠えてるだけの哀れな連中だよ』
電話を切ったあと、翔太は友人が話していた掲示板のスレッドを見つけた。
書き込みは山のように積み重なり、最後まで読むだけでも相当な時間が必要なほど伸びている。
一体どんなゲームなら、あの友人が何日も知らない相手とインターネット上で戦い続けるほど夢中になるのか。
翔太の好奇心は、完全に刺激されていた。
「もう少し探してみるか。ここまで時間を使ったんだし、見つけたら8月まで外に出なくて済む。今日だけで十分すぎるほど日光も浴びたしな」
翔太は小声で呟きながら、なるべく他人の視線を避け、次の店へ向かおうとした。
「それでは、こちらでお会計いたします」
「はい。ほかにはありません」
「付録付き島川『Magazine』一冊とカルピス一本で、合計1050円になります」
レジの音が鳴った瞬間、菊池翔太の足が止まった。
まるで時間を止められたかのように、その場で固まる。
盗み見るように視線をレジへ向けると、少年が手にしている雑誌が見えた。
雑誌の裏表紙が、ちょうど翔太のいる方向を向いている。
最後のページには、丸いディスクの輪郭がはっきりと浮かんでいた。
「すみません。少し通してもらえますか?」
菊池翔太が通路の真ん中に立ち塞がっていたため、少年は困ったような表情を浮かべていた。
声をかけるのか?
怖い。
だが、ここで何も言わず、また探し回ったところで、次が見つかる保証はない。
ほんの少し到着が遅れただけで、ここまで来て諦めるなど、あまりにも惜しかった。
一瞬のうちに、翔太の頭には数え切れないほどの考えが浮かぶ。
しかし、すべてが一つの結論へ行き着いていた。
目の前の少年に、この付録付き雑誌を持っていかせてはいけない。
どうすればいい?
どうすれば、あの雑誌を譲ってもらえる?
考えろ、翔太。
「はあ……」
目の前の少年がため息を吐き、翔太を避けて店の外へ出ようとした。
その瞬間、翔太は焦りに負け、思わず少年の腕を掴んでしまった。
「何か用ですか? いきなり他人の体に触るのは、失礼だと思いますけど」
少年の声には警戒が滲んでいた。
突き刺すような視線を受け、翔太はすぐに手を離す。
足から力が抜け、軽い目眩まで覚えた。
菊池翔太は他人と関わることが怖かった。
だからこそ引きこもりとなり、社会の役に立てる人間にもなれなかった。
「その……譲って……」
口を開こうとしても、言葉は途切れ途切れにしか出てこない。
店内の騒ぎに気づいた店員が眉をひそめ、レジの奥から出てきた。
「お客様、ほかのお客様のご迷惑になる行為はお控えください」
口調こそ丁寧だったが、足取りは速い。
店員の中で、翔太はすでに危険人物として認識されていた。
もし少年が怪我でもすれば、大問題になる。
店員は翔太の腕を掴み、少年には早く店を出るよう視線で促した。
駄目だ。
行かないでくれ。
翔太は激しく焦ったが、焦れば焦るほど、言葉が出なくなる。
少年が立ち去ろうと身体の向きを変えた、そのとき。
背後から物音が響いたため、思わず振り返った。
どさり――。
菊池翔太は、その場に両膝をついていた。
さらに深く頭を下げ、両手を床へ揃えて差し出す。
突然の土下座に、少年だけでなく店員まで目を見開いた。
「申し訳ありません! 突然こんなお願いをして恐縮ですが、その付録付きの雑誌を、どうか僕に譲ってください! お願いします!」
菊池翔太は、生まれてから一度も出したことがないほど大きな声で叫んだ。




