第60話 ある男の物語をしよう
高城涼介と別れた早川留美は、彼から預かった原稿を抱えて自分の席へ戻った。
「例の天才少年作家には会えたのか?」
服部拓也がコーヒーを一口飲み、椅子ごとわずかにこちらへ向き直る。
「はい。時雨沢先生の作品は、これで正式に完結です」
「そうか。これでお前にも、きちんと完結を迎える担当作品が一つできたわけだ。編集者としては上々の滑り出しだな。これからもしっかりやれ。新しい作家を紹介するときも、今までより話が通りやすくなる」
服部は留美を自分の部下の中でも特に見込みのある人材と考え、この半年間、何かと面倒を見てきた。
仕事を回し、担当作家を紹介したことも一度や二度ではない。
しかし、服部が作家を連れてくれば、必ず留美が担当になれるというわけでもなかった。
新人編集者という肩書は、作家から見ればそのまま『経験不足』を意味する。
とりわけ新人作家は、自分の作品が埋もれてしまうことを恐れ、経験の浅い編集者をなかなか信用しようとしない。
服部が推薦しても、作者本人から断られることはあった。
「いつもありがとうございます、服部さん」
留美は心から頭を下げた。
服部は気にするなというように手を振る。
自分一人では仕事を抱えきれない。
留美を側近として育てるつもりなら、仕事や機会を与えるのは当然だと思っていた。
「それとは別に、また新人から原稿を預かったのか?」
「えっ?」
「何を驚いている。手に別の原稿を持っているだろう」
服部が、留美の抱えている二つの封筒を指さした。
一つには時雨沢恵一の名前。
もう一つには、まったく別の筆名が書かれている。
「虚淵玄……か。貸してみろ。時雨沢の新刊作業で忙しいだろう。この原稿は、先に俺が目を通しておく」
ちょうど今は手が空いている。
新人の原稿なら、服部はかなりの速さで読むことができた。
留美が受け取った以上、少なくとも彼女の一次審査は通っている。
ただし月例賞に出すにせよ、新人賞へ応募するにせよ、正式に提出する前には副編集長である服部の確認が必要だった。
――これも時雨沢先生の新作だと知られたら、きっと叱られるよね……。
同じ作者が筆名を変える。
経験豊富な服部なら、文章の癖から何かに気づくかもしれない。
留美は内心で不安を覚えた。
とはいえ、この審査を避けることはできない。
涼介には秘密にすると約束している以上、今は黙って原稿を差し出すしかなかった。
「お前は仕事に戻れ」
服部は封筒から原稿を取り出した。
留美がまだその場に立っているのを見ると、手を振って自分の仕事へ戻るよう促す。
◇
『Fate/stay night』の試遊版を雑誌の付録として配布する件では、服部が発行部門との橋渡しをしていた。
だが服部自身は、高城涼介のそうした行動をあまり好ましく思っていない。
あまりにも手を広げすぎている。
小説だけでなく、漫画原作にも挑戦し、今度は成人向けゲームまで作り始めた。
服部も、その媒体について多少の知識はあった。
結局のところ、陳腐な小説にゲームという外装を被せ、立ち絵や一枚絵を添えて、性的な場面を売り物にしているだけのもの。
彼の認識では、その程度だった。
ただ、後になって発行部門の同僚から聞いた話では、原作そのものは時雨沢恵一が書いたわけではなく、『奈須きのこ』という作家が担当しているらしい。
涼介はサークルに参加し、運営や制作に関わっているだけだという。
それなら、思春期の少年が興味本位で手を出しただけなのかもしれない。
一度壁にぶつかれば、また小説へ戻ってくるだろう。
そう考えていたからこそ、服部は時雨沢恵一に新作の予定があるかどうか、あえて確認しなかった。
「Mが終わった頃に、また早川を千葉へ行かせるか。一か月以上休めば十分だろう。優秀な作家はそう多くない。他の分野へ流れてしまえば、編集部にとっても損失だからな」
服部は涼介のことを考えるのをやめ、目の前の原稿へ視線を落とした。
最初の文字は、ひどく乱れている。
まるで正体を隠すため、わざと崩して書いたような筆跡だった。
服部は一枚目を捲る。
そこには、こう記されていた。
――八年前。
――ある男の物語をしよう。
――誰よりも理想に満ち、だからこそ、誰よりも絶望した男の物語を。
◇
午前中いっぱい、早川留美は島川ビルの各部署を駆け回っていた。
『キノの旅』第四巻の単行本化に必要な手続きを進め、書類を提出していく。
昼休みになってようやく時間ができ、サンドイッチを数口で食べ終えたあと、コーヒーを一杯淹れて席へ戻った。
そこで、留美は意外な光景を目にした。
隣の席にいる服部拓也が、まるで朝から一度も動いていないかのように背筋を伸ばし、ゆっくりと原稿を捲っていたのだ。
「服部先輩?」
留美が恐る恐る声をかける。
何かのスイッチを押されたように、服部は一瞬だけ呆けた表情を浮かべ、それからようやく顔を上げた。
「戻ったのか」
「はい。もう昼休みですよ。まさか、まだ昼食を取っていないんですか?」
机の上には、すっかり冷めたコーヒーが残っている。
しかも、まだ飲み切っていない。
普段なら昼食を終えたあと、服部の机には新しく淹れた熱いコーヒーが置かれているはずだった。
「読み入っていた。すまない。ここまで作品に引き込まれたのは、久しぶりだ。何度も読み返していた」
「先輩が言っているのは……?」
留美の視線が、服部の手元にある原稿へ向かう。
自分が渡した『Fate/Zero』だった。
午前中ずっと読んでいたのだろうか。
分量は一巻分しかない。
服部の読む速度なら、これほど時間がかかるはずはなかった。
服部は原稿を持ち上げ、感嘆を隠さず口にした。
「掘り出し物を見つけたな、早川。この作品は、どう考えても新人が書いたものではない。名のある作家が、別名義で書いた可能性が高い」
「それほどですか?」
「ああ。時雨沢を例に出すなら、作品の方向性は違うが、文章の練度だけでいえば『キノの旅』より上だ」
「題材も新鮮だ。人物の心理描写も細かく、深い。若い作者に書ける文章じゃない」
服部は少し身を乗り出した。
「作者の連絡先は残っているか? あるいは、どんな人物だったか説明できるか? 編集部内で確認すれば、誰が書いた作品なのか見当をつけられるかもしれない」
「……」
そんな質問をされるとは思っていなかった。
留美は返答に詰まった。
服部が作品を高く評価することは予想していたが、ここまで絶賛するとは思わなかったのだ。
「あの……」
この半年で、編集者としてはかなり成長した。
それでも、自分を何度も助けてくれた服部を相手に、表情一つ変えず嘘をつくことなどできない。
留美は困ったように眉を下げた。
涼介とは秘密にすると約束している。
ここで真実を話すわけにはいかなかった。
秘密というものは、一人に話してしまえば、もうその先を制御できない。
服部は留美の表情を見て、事情を察した。
「……作者から口止めされているのか?」
「はい。今はまだ、お話しできません」
「まあ、たまにいるからな。実力を証明するため、わざわざ新人のふりをして作品を出したがる変わった作家が」
「……」
服部が勝手に納得してくれたことで、留美は胸の内で大きく息を吐いた。
これ以上追及されたら、圧力に耐えられず話してしまったかもしれない。
「作者から、何か条件は出ているか? これほどの作品を月例賞へ回したり、年末まで待って新人賞へ応募させたりするのは、さすがにもったいない」
「作者は、電撃文庫大賞への応募を希望しています……」
服部の顔に、やはりそうかという表情が浮かんだ。
「分かった。できるだけ早く手配する」
「あの……」
あまりにも即決だったため、留美は控えめに尋ねた。
「先輩は、この原稿を読んで、どこかで見たような文章だと思いませんでしたか?」
「多少はな。だが文章の雰囲気が似た作家はいくらでもいる。それだけでは断定できない。それに、この作者は……」
服部は原稿を開き、乱雑な筆跡を留美に見せた。
「意図的に正体を隠そうとしているらしい。この字はさすがに無茶が過ぎる。パソコンで印刷してくれたほうがよほど読みやすかった。内容が面白くなければ、途中で読むのをやめていたかもしれん」
服部の愚痴を聞き、留美は曖昧に笑うしかなかった。
服部は昼食を取るため、休憩スペースへ向かった。
一人になった留美は席へ腰を下ろし、目の前にその原稿を置く。
「本当にすごいですね、時雨沢先生……。服部先輩でも、同じ作者だと気づかなかったんですから」
少し前に会ったとき、涼介は次の作品について、今まで以上のものを持ってくると約束していた。
どうやら、その言葉に偽りはなかったらしい。
今回の作品は、本当に『キノの旅』を上回るほどの完成度を持っていた。




