第59話 新作
インターネットの片隅で起きていた小さな騒動を、涼介は知る由もなかった。
学期末の学力テストを終え、季節は七月へ入った。
涼介は長い夏休みを迎えたものの、相変わらず家に籠もりきりで、遊びに出かける余裕などほとんどない。
『キノの旅』はいよいよ終盤に差しかかり、第五巻の原稿も仕上げの段階に入っていた。
予定どおりなら、月初には編集部へ提出できる。
つまりそれは――時雨沢恵一という筆名が、役目を終える日も近いということだった。
次の作品で、この名前を使うつもりはない。
一方、凌乃の高校入試も、すでに結果が届いていた。
当然のように千葉第一高校へ合格し、九月から正式に通うことが決まっている。
知らせを受けた日、高城勇夫は珍しく泥酔した。
深夜になって同僚に家まで送り届けられ、意識が朦朧とする中でも、
「涼介がいてくれて、本当によかった……」
「これで凌乃の勉強も、もう心配いらないな……」
などと、何度も繰り返していた。
涼介と美恵子は、二人がかりでどうにか勇夫を寝室まで運んだ。
長年刑事として働くうちに、すっかり酒を控えるようになっていたというのに、娘の合格がよほど嬉しかったらしい。
その日を境に、涼介と凌乃の小遣いは倍になった。
勇夫いわく、二人への褒美らしい。
当の凌乃は、決まった時間に仕事場へ原稿を描きに行く以外、ほとんど自室に籠もり、『Fate/stay night』の攻略に熱中していた。
そして最近は、涼介に対して明らかに機嫌を損ねている。
FateルートとUBWルートを終え、現在はHeaven's Feel――間桐桜のルートを進めているからだ。
他の二つのルートとは異なり、この物語では聖杯戦争の裏側に隠されていた闇が、本格的に暴かれていく。
間桐桜がどれほど過酷な境遇に追い詰められてきたのかを知った凌乃は、完全に情緒を乱されていた。
そんな脚本を書いた涼介に、優しく接する気など起きるはずもない。
「やっぱりあんたって、本当に性格が悪いわよね」
凌乃は、文字だけで間桐桜を徹底的に追い詰めた兄を、今にも絞め殺しそうな目で睨んでいた。
涼介は怒るどころか、むしろ楽しそうにその反応を眺めている。
彼の記憶では、当時のプレイヤーの中には、このルートまで辿り着かなかった者も少なくなかった。
軽く遊んだだけで満足し、後に前日譚である『Fate/Zero』がアニメ化されてから、改めて注目するようになった層も多い。
もっとも、それぞれの専用ルートでは、基本的にヒロインたちにも救いが用意されている。
凌乃が最後まで遊び終えれば、今の怒りも多少は収まるだろう。
それまでは、涼介も静かに旧作を完結させ、新作の準備に集中できる。
◇
七月下旬。
涼介は早川留美と会い、『キノの旅』最終巻の原稿を手渡した。
「今の掲載ペースなら、九月号で完結ですね。その後はこれまでどおり、単行本として刊行される予定です」
原稿にひととおり目を通した留美が、涼介へ笑顔を向ける。
気づけば、この少し天然な編集者と組んでから、もう半年ほどが経っていた。
入社したばかりで何をするにも慌ただしかった彼女も、今ではかなり仕事に慣れ、一人前の編集者らしくなっている。
「そういえば、時雨沢先生はサイン会に抵抗がありますか? 編集部には読者の方からのお便りもかなり届いていますし、開催すれば良い反響が得られると思うんです」
「サイン会ですか……」
涼介は少し考えたあと、断ることにした。
顔を出すのは避けたい。
これから世に出そうとしている作品のことを考えれば、後になって正体を突き止められ、刃物でも送りつけられたらたまらない。
「残念です。時雨沢先生は見た目も整っていますし、表に出れば女性ファンがかなり増えると思うんですけど」
留美が口元を隠して笑う。
涼介は少し引きつった表情を浮かべた。
そんな売り方をする気はない。
「それと、早川さん。新作も持ってきました。時間のあるときに読んでみてください」
涼介は鞄から、あらかじめ用意していた原稿を取り出し、留美の前へ差し出した。
「えっ、もうですか?」
留美は目を丸くした。
涼介は今、いくつもの仕事を同時に抱えている。
新作を始めるにしても、少なくとも二か月ほど間を空けると思っていた。
まさか今日、いきなり新しい原稿を持ってくるとは思わなかったのだ。
「今度発売するゲームと関連した作品です。うまくいけば、お互いの売上を押し上げられるかもしれないと思いまして」
涼介が肩をすくめる。
留美はファイルから原稿を取り出した。
表紙には、英字で作品名が記されている。
――『Fate/Zero』。
涼介が現在制作しているゲームについて、留美はそれほど詳しく知らなかった。
興味がないわけではない。
単純に仕事が忙しく、調べる余裕がなかったのだ。
ただし、ゲームのタイトルくらいは知っている。
同じく『Fate』という言葉から始まる作品だ。
「家に帰ってから、ゆっくり読ませていただきます。時雨沢先生の実力なら、連載企画も問題なく通ると思います」
留美は数ページだけ捲り、内容を軽く確認した。
今回の作品は『キノの旅』とは違い、一話完結型の寓話ではない。
一つの大きな物語を描く長編作品らしい。
ここで読み始めれば、打ち合わせの時間を必要以上に取ってしまう。
「今回は初稿を多めに用意しました。一巻分くらいはあると思います。それと、別の筆名で出したいのですが、可能ですか?」
「どうして筆名を変えるんですか?」
留美は、涼介の要望を理解できなかった。
時雨沢恵一という名前は、すでに作家として一定の評価を得ている。
普通なら、現在の実績を持つ作家が簡単に筆名を変えることはない。
それまで築いた読者層を、自分から捨てるのと同じだからだ。
営業部門からも、知名度がないことを理由に企画を拒否されるかもしれない。
筆名を捨てれば、実績上は新人へ逆戻りする。
どう考えても、利点より不利な点のほうが多い。
「個人的なこだわりです」
涼介は、最初から時雨沢恵一という筆名を使い続けるつもりはなかった。
記憶の中にある作品を再現しただけで、自分が一から生み出したものではない。
ならばせめて、本来の作者の名だけでも、この世界に残したい。
「この作品については、時雨沢恵一という名前を使わないでください。それから、この件は他の方には伏せておいてもらえますか?」
「これまでの実績を使わず、最初から勝負することになっても構わないんですか?」
今の留美には、担当編集として企画を推薦する権限がある。
編集会議に持ち込み、最初から書籍化を目指すことも不可能ではない。
ただしその場合でも、既存の人気作家による新作と比べれば、宣伝面で大きな差がつく。
留美は涼介の作品を信じていたからこそ、安全策を提案せず、真正面から尋ねた。
「構いません」
「確実性を求めるなら、新人賞に応募したほうがいいと思います。ただ、次回は年末ですね」
涼介は首を横に振った。
「電撃文庫の本大賞が、年の半ばに開催されると聞きました。そちらへ応募します」
「えっ?」
すでに固定ファンを持つ、実績ある作家たちと正面から競うつもりなのか。
留美は一瞬呆気に取られたが、すぐに表情を緩めた。
「時雨沢先生は、相変わらず自信がありますね」
電撃文庫大賞は新人賞とは異なり、プロ・アマを問わず作品を募る、ライトノベル業界でも最高峰に近い賞の一つだ。
富士見書房など、競合他社が開催するファンタジア大賞と同じく、あらゆる作者が作品を投稿し、その中から最も優れた作品を選ぶ。
過去の受賞作は大々的に宣伝され、書店でも目立つ場所に並べられてきた。
映像化まで進んだ作品も少なくない。
「他に、これほど早く世に出す方法はありませんから」
もっと堅実な方法があるなら、涼介もそちらを選んでいただろう。
しかし現状では、文庫大賞への応募が最も合理的だった。
そして何より、彼は今回持ち込んだ作品に絶対的な自信を持っている。
「分かりました。それでは、この作品で使用する筆名を教えてください。新しい名義で応募手続きを進めます」
留美は、それ以上説得することを諦めた。
半年間一緒に仕事をしてきた彼女は、高城涼介が根拠もなく大言壮語する人間ではないと知っている。
服部拓也であれば、担当作家がこれまで築いてきた実績を自ら捨てるような選択を、簡単には認めなかったかもしれない。
留美は涼介へペンを差し出した。
涼介はそれを受け取り、ファイルの表紙に新しい名前を書き込む。
――虚淵玄。




