第58話 戦え!
二時間後。
武内雄介はパソコンの前に座ったまま、画面に表示された謝辞と製品版の発売予告を眺めていた。
まだ物足りない。
そう思わずにはいられなかった。
無料の体験版にすぎないというのに、何度も物語へ引き込まれるほど完成度が高い。
「発売予定は八月……夏のMで数量限定販売か」
限定販売である理由は、武内にも何となく理解できた。
ゲームの冒頭に表示されたサークルロゴ――TYPE-MOON。
これまで聞いたことのない名前だ。
おそらく、立ち上げたばかりの新興サークルなのだろう。
それなのに、初作品からこれほどの品質を実現している。
「十分にアニメ化できる作品だ。企画として上げられれば……」
東映に所属する人間として、武内雄介はこの作品に秘められた大きな商業的価値を敏感に感じ取っていた。
今のアニメ市場は、依然として低年齢層向けの作品が中心だ。
だからこそ、これほど重厚な世界観と物語性を備えた作品は希少だった。
「とはいえ、俺が企画を出したところで、まともに取り合ってもらえないだろうな」
所詮は実習社員だ。
社内での発言力など、ほとんどない。
本当に企画書を作ったところで、直属の上司の段階で却下される可能性が高かった。
今のアニメ業界では、主要な視聴者はあくまで子供だという認識が、まだ根強く残っている。
やがて画面では、制作スタッフの名前が順番に表示され始めた。
その中に、見覚えのある名前を見つけ、武内雄介は目を見開く。
「……高城留美子?」
一瞬、自分の見間違いかと思った。
島川系列の雑誌で人気作を連載している漫画家。
その高城留美子が、こんな小さなサークルの十八禁同人ゲームで原画を担当しているというのか。
◇
武内雄介が気づいたように、雑誌の付録として配布された『Fate/stay night』体験版の原画を、『月魔女変身』と『カードキャプターさくら』の作者が担当しているという情報は、瞬く間に広がっていった。
ライトノベルの読者層には、かつてのアニメブームの影響を受け、今まさに社会へ出始めた若者が多い。
井上莉奈も、その一人だった。
東京工芸大学芸術学部アニメーション学科に通う彼女にとって、市場研究と作画技術の研鑽は重要な課題だった。
ここ二年ほど魔法少女作品が大きな盛り上がりを見せていることもあり、彼女は『高城留美子』という漫画家に強い関心を抱いていた。
「高城留美子先生が新作を出したらしいよ」
その話を持ち込んできたのは、大学の同級生だった。
聞いた瞬間、井上莉奈はあり得ないと思った。
有名漫画家たちの動向は常に追っている。
高城留美子が新作を発表したという話など、どこにも出ていなかった。
だが、同級生があまりに自信満々に言うものだから、彼女は雑誌の付録ディスクを借りてみることにした。
井上莉奈は、それまでギャルゲームという分野にほとんど関心を持っていなかった。
企業で冷遇された先輩たちが、生活のために成人向けゲームの原画業界へ流れたという噂なら、何度か耳にしたことがある。
だが、自分がそうなるとは少しも思っていなかった。
「下品でありきたりな内容ばかりのゲームに、高城先生が関わるとは思えないんだけど……」
少なくとも彼女の認識では、高城留美子は売れっ子漫画家だ。
わざわざ成人向け同人ゲームの仕事を引き受けなければならないほど、金に困っているとは考えにくい。
しかし実際にプレイを始めると、井上莉奈は瞬く間に物語へ引き込まれていった。
「想像していたものと、全然違う……」
二時間以上遊び続けた頃には、最初に抱いていた先入観は完全に消えていた。
「下品な妄想を並べただけの作品じゃない。正統派の新しい小説みたい。すごく面白い……体験版では世界観を説明して、本格的に物語が始まる直前で終わるのね」
画面に流れるスタッフロールを確認すると、そこには確かに『高城留美子』の名があった。
「また画風を変えたんだ……さすが高城先生。この力強くて輪郭のはっきりした絵柄は、この作品に合わせて意図的に作ったものなのね」
画面には、発売予告が大きく表示されている。
――八月、あなたと出会えることを楽しみにしています。
会場:東京国際展示場
夏のM、三日間すべて頒布予定。
「行こうかな……もしかしたら、制作スタッフの高城留美子先生も会場に来るかもしれないし」
井上莉奈が決意するまでに、それほど時間はかからなかった。
◇
「行く! 初日は数量限定なんだろ? 絶対に早起きして並んでやる!」
薄暗い部屋の中。
髪をぼさぼさに伸ばした青年が、ベッドの上で頭を抱え、干上がった魚のように身をよじっていた。
「それにしても、ふざけるなよ! どうして体験版をあんなところで終わらせるんだ! 性格が悪すぎるだろ!」
鈴木宏樹は、怒りで全身を震わせていた。
「もうすぐマスターになって、あの凛々しい女騎士と出会うところだったんだぞ! そこで終わるなんて、制作スタッフにカミソリでも送りつけたい気分だ!」
彼は筋金入りのオタクだった。
より正確に言えば、親のすねをかじって暮らす無職でもある。
高校を卒業してから一度も定職に就かず、毎日ゲームをして、眠り、食事をするだけ。
政府の給付金と両親からの援助で、どうにか暮らしている。
親の助けがなければ、いつか部屋の中で餓死していてもおかしくない。
「でも、もう金がないんだよな。カミソリだって買えば高いし……」
「そもそも制作スタッフの住所も分からない。くそっ、製品版まで二か月も待たないといけないのか?」
最近の鈴木宏樹は、退屈を感じていた。
あまりにも多くのギャルゲームを遊びすぎたせいで、似たような作品にはほとんど刺激を感じなくなっている。
冬のMでも、予算不足から買えたのはわずかなゲームと同人誌だけだった。
それでも暇を潰すため、何とか遊び続けていた。
そんな中、今日買ってきた島川Magazineに無料のゲーム体験版が付いていた。
ただで手に入ったものを、試さない理由などない。
軽い気持ちで始めたはずだった。
だが、一度プレイを始めると止められなくなった。
「まだ体験版なんだぞ。物語の本筋にすら入ってないのに……あの白髪のロリ、すごく可愛かったな。攻略対象なのか?」
鈴木宏樹は、まだ描かれていない続きの展開を勝手に想像し始める。
序章に登場した女性キャラクターは、誰もが魅力的だった。
その中でも、攻略したい順番の一番上に置くなら、巨大な影を背負っていた白髪の少女だ。
理由は単純だった。
あの一言。
――お兄ちゃん。
「残酷すぎる……」
鈴木宏樹は全身から力が抜けたように、天井を見つめた。
「続きがやりたい……」
そのまま長い時間ぼんやりしていた。
危うく眠りかけたところで、ある考えが頭に浮かぶ。
彼は勢いよくベッドから起き上がった。
「この苦しみを味わってるのは、俺だけじゃないはずだ。掲示板を見てみるか。同じ作品を遊んだ奴がいるかもしれない」
鈴木宏樹は慣れた手つきでブラウザを起動し、アドレスを直接入力してエンターキーを押した。
この時代のインターネットには、まだ便利な検索エンジンがほとんど存在しない。
サイトのアドレスを知らなければ、目的の場所には辿り着けなかった。
だが、長年家に引きこもり、ネットを使い続けてきた鈴木にとって、その程度は何の障害にもならない。
彼が入ったのは、オタクたちが集まる閉鎖的な掲示板だった。
普段からゲームや成人向け漫画の情報交換が行われている。
利用できるのは文字と、ごく簡単な顔文字くらいだ。
掲示板には大量のスレッドが並んでいた。
鈴木宏樹は端から探していったが、『Fate/stay night』について書かれたものは見つからなかった。
「嘘だろ? こんなに面白い作品なのに、誰も知らないのか?」
信じられないという顔を浮かべながら、少し考える。
やがて傍らに置いていた雑誌へ目を向け、今度は島川の最新号に関するスレッドを探した。
すると、ようやく手掛かりらしき書き込みを見つけた。
島川の最新ライトノベルを評価するスレッド。
その下に、付録ゲームについて触れたコメントがあった。
『今号に付いてきたゲームの体験版、かなりの当たりだった』
『付録? 何のゲームだよ。俺が買ったやつには入ってなかったぞ』
『どうせ馬鹿を騙すための嘘だろ。露骨すぎる詐欺だな』
『えっ、つまり最初から付録なんてなかったってこと?』
『よくあるだろ。適当な噂を流して、個人取引に誘い込む。送られてくるのは、その辺に転がってるようなゴミってやつ』
次々と書き込みが重なっていく。
鈴木宏樹は迷うことなく、そこへ参戦した。
『付録は本当にある! Fate/stay nightっていう十八禁ゲームの体験版だ! 夏のMで製品版が出る! とんでもなく面白いぞ。たとえ家財を売ってでも俺は買う!』
『適当なこと言うな。今日買った最新号には、そんなディスク入ってなかったぞ。詐欺にしても低レベルすぎる』
付録の存在を否定する返信が、あっという間に鈴木の書き込みを押し流していった。
鈴木はすぐに反論せず、疑問を浮かべた。
付録が存在することは間違いない。
何時間も実際に遊んだのだから、そこに疑いようはなかった。
では、なぜ手に入らなかったと言う者がいるのか。
鈴木宏樹は傍らにある雑誌を手に取り、ディスクが貼り付けられていた最終ページを開いた。
その上部に、小さな文字で一文が記されている。
――数量限定。
「宣伝用の体験版まで数量限定なのかよ! 制作サークル、どれだけ金がないんだ?」
入手できなかった読者がいるのも当然だった。
鈴木宏樹は自分の発見を掲示板へ書き込んだ。
すると、同じようにディスクを手に入れた者たちから、すぐに同意する返信が集まり始める。
しかし、相変わらず辛辣な書き込みも混じっていた。
『安物のCDを数量限定って、制作側が貧乏なだけだろ。宣伝費すらケチるような小規模サークルの作品なんて、どうせその程度だ』
その書き込みを見た瞬間、鈴木宏樹は怒りに震えた。
こいつらは、実際に遊んですらいない。
それなのに、勝手な想像だけで作品を貶している。
「何なんだよ、こいつら……何も知らないくせに!」
聖杯戦争を知っているのか。
魔術師が何なのか分かっているのか。
あの女騎士が召喚される瞬間を見たのか。
鈴木は、自分には好きな作品の名誉を守る責任があると、本気で思った。
キーボードを激しく叩き、理由もなく攻撃してくる相手へ次々と言葉を返していく。
「戦え! 俺の愛したもののために!」




