第57話 告げる!
「ANIPLEX? 何か特別な意味でもあるのかい?」
「いや、別に」
涼介は首を横に振った。
頭の中に存在する、かつての記憶について、誰かに説明するつもりはない。
ただ、その名には、彼が思い描く未来の方針そのものが込められていた。
鳳凰院沙織は、記憶にある企業名をひととおり思い返してみたが、似たような名称に心当たりはなかった。
それでも、それ以上追及することはなかった。
「それじゃあ、俺はこれで。また連絡する」
涼介は彼女の仕事を邪魔しないよう、そのままLパソコン専門店をあとにした。
◇
「お嬢様。あの少年が、お嬢様のお選びになった方なのですか?」
背後から、執事の岩田が歩み寄ってきた。
鳳凰院沙織は冷ややかな視線を向ける。
「母の従者だったからって、少し口を出しすぎじゃない?」
「いえ。お嬢様を案じることも私の務めです。しかし、あれほど若い相手では、旦那様が決してお認めにならないでしょう」
鳳凰院は眉をひそめた。
相手にするつもりもないらしく、ハイヒールの音を響かせながら踵を返し、エレベーターへ乗り込む。
岩田も慌ててあとを追った。
「しばらくは、あの人のことをお父様に知らせないで」
エレベーターの中でしばらく沈黙していた鳳凰院が、不意に口を開いた。
「隠し通すのは難しいかと。先日、あれほど多くの店員が見ている前で、あのような軽率な真似をなさったのです。旦那様のお耳にも、すでに入っている可能性が高いでしょう」
「ちっ」
鳳凰院沙織は、露骨に不満そうな音を漏らした。
「お嬢様も、そろそろ一度ご実家へ戻られるべきです。遊びもほどほどになさいませ」
「私が遊んでいるように見えるの?」
鳳凰院は隣に立つ岩田を横目で見た。
「違うのですか? 娯楽に没頭し、ご自身で資金まで出して、そのような玩具を作る。ソニーへ技術を提供した件も、短期的には店の売上を大きく伸ばしましたが、長い目で見れば誤った判断です」
岩田は無表情のまま、事実を述べるような口調で言った。
「あなたには、時雨沢の価値が分からないのよ……」
「まだ世間も知らぬ少年が、旦那様の用意された優秀なご令息方よりも価値があると?」
その言葉を聞いた鳳凰院沙織は、突然声を上げて笑った。
「お嬢様。私の発言に、何かおかしな点でもございましたか?」
岩田の顔に、初めて戸惑いが浮かぶ。
鳳凰院は答えなかった。
エレベーターを降りると、そのまま普段使っているパソコンの前へ向かい、椅子に腰掛けて脚を組む。
「おかしくないと思う?」
長身の美女は、薄く笑った。
「あんな連中が、どうして時雨沢と比べられるのよ。親の庇護に頼ることしかできない、ただの寄生虫じゃない」
◇
Lパソコン専門店を出た高城涼介は、そのまま電車に乗って自宅へ戻った。
ゲームの初回版DVDだけでなく、鳳凰院があらかじめ用意していたDVDドライブも持ち帰っている。
「それにしても、このドライブはずいぶん安いな。五千円もしないのか」
部屋へ戻った涼介は、二つを机の上へ並べた。
最新技術を採用しているというDVDドライブは、パラレルATA端子を使い、外付けでパソコン本体へ接続する方式になっている。
今の技術革新の速度を考えれば、この接続方式も数年のうちに新しい規格へ取って代わられるだろう。
ドライブ本体も、涼介の目にはただのプラスチック製品にしか見えなかった。
二つを手に持ち、涼介は再び隣にある妹の部屋をノックした。
今度はすぐに返事があった。
扉が開く。
金髪の少女は裸足で畳の上に立ち、腕を組んでいた。
「あなたね……」
溜め込んでいた不満をぶつけようとした凌乃だったが、涼介が手にした新しいディスクケースに気づいた瞬間、勢いが止まった。
先ほどまでの怒りが、朝日に照らされた雪のように一瞬で消えていく。
「何よ。女巨人のところに行ってたのね」
「ほかに何があるんだ?」
涼介に聞き返され、凌乃は睨みつけた。
まさか、あのアイドルと二人きりで会っていると思っていたなど、口が裂けても言えない。
涼介はわずかに首を傾げた。
「本当はお前も連れていこうと思ってたんだけど、話しかけても返事をする気がなさそうだったからな」
「私が行っても行かなくても、別に変わらないでしょ」
凌乃は待ちきれない様子で、涼介の手からディスクケースを奪い取った。
鳳凰院沙織に会うこと自体には、今でも多少の苦手意識がある。
「ゲームに免じて、今回は許してあげる」
パソコンの前へ座った少女は、振り返ることなく呟いた。
「……?」
(結局、俺は何をして怒らせたんだ?)
涼介は尋ねなかった。
聞いたところで、今の妹の性格なら素直に答えるはずがない。
女というものは、往々にして本心と口にする言葉が一致しない。
そして、口にした内容が真実とも限らないのだ。
凌乃がディスクを取り出し、そのままCD-ROMドライブへ入れようとするのを見て、涼介は慌てて止めた。
「待て。先に外付けドライブを接続する」
「え?」
「ゲームの容量が大きすぎて、CDには収まらないんだ。とにかく、こっちを使えば問題ない」
涼介が外付けDVDドライブを接続し、凌乃は改めてディスクを中へ入れた。
すぐにゲームのデータが読み込まれる。
金髪の少女は期待に目を輝かせながら、『Fate/stay night』のアイコンをクリックした。
◇
部屋の中に、古びた時計の針が時を刻むような音が響く。
【私よ。分かっているでしょうけど、明日が期限よ、凛】
――ピッ、ピッ、と。
【急がないと、マスターになる資格を失うわ】
「マスター、か。聞き慣れない言葉だな」
「古代の英雄を召喚して、現代で戦わせるのか。ずいぶん面白い設定だ」
部屋の中に、小さな呟きが落ちる。
声の主は、武内雄介。
東京最大級のアニメ制作会社、東映で働く実習社員だった。
この不景気の中、成長を続ける大企業に入れたことは、同世代から見れば羨ましいことなのだろう。
だが、その仕事がどれほど大きな重圧を伴うものなのかは、本人にしか分からない。
職場の上下関係は厳格だ。
実習社員である武内は、幸運にも優しい上司に恵まれる――などということもなかった。
大学を卒業し、胸いっぱいの情熱を抱えて業界へ飛び込んだものの、最初に与えられたのは、こまごまとした雑用ばかりだった。
そんな毎日の中で、仕事の重圧を忘れさせてくれる数少ない趣味が、読書だった。
今日も武内は、いつものようにコンビニで島川の定期刊行誌を購入した。
六百円なら、彼の給料でも無理なく支払える。
目当ては、新人作家・時雨沢恵一が手がける『キノの旅』の最新話だった。
既刊三巻はすべて読破している。
単行本も一揃い購入し、自宅の本棚に並べていた。
今号の連載を読み終えたあと、武内は雑誌の最後に付属している一枚のディスクへ気づいた。
最初は特に興味を持たなかった。
だが、ケースの下部に小さく印刷された一文が目に入る。
――時雨沢恵一、渾身の推薦。
好きな作家が薦める作品ならば。
そんな好奇心から、武内雄介はディスクをパソコンのドライブへ入れた。
気づけば、三十分以上が経過していた。
「十八禁ゲームというより、上質なライトノベルだな」
武内雄介は感嘆の息を漏らした。
好きな作家が推薦するだけあって、やはり自分の好みに合っている。
彼はさらにマウスをクリックし、画面に表示される文章を読み進めていった。
【……父さんがセイバーに縁のあるものを残してくれていればよかったんだけど】
ヘッドホンから聞こえてきた遠坂凛の声に、武内は思わず感心する。
「ずいぶん丁寧に作られている。声優まで起用しているのか」
会社では雑用ばかりを任されているとはいえ、東映に身を置いている。
声優に関する話も、先輩たちから多少は聞いたことがあった。
どんな企画でも、音声収録に必要な費用は決して小さくない。
「設定では、セイバーが最強の英霊なのか。それなら冒頭に出てきたあの場面は、主人公に召喚される場面ということか?」
武内は、自分なりに先の展開を予想した。
そのまま物語を進めていく。
画面が暗転し、舞台は薄暗い地下室へと移った。
遠坂凛が英霊を召喚する直前の場面だ。
【――閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ】
【繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する】
【素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。祖には我が大師シュバインオーグ】
【降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ】
「来るのか……?」
ヘッドホンから流れる神秘的な音楽に引き込まれ、武内雄介は無意識のうちに画面へ身を乗り出した。
画面の中で、遠坂凛は両目を閉じている。
何かに煽られるように、二つに結ばれた髪が宙へ舞い上がり、右手は固く握りしめられていた。
【――告げる!】
【汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に】
【聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うならば応えよ】
【誓いをここに】
【我は常世すべての善と成る者】
【我は常世すべての悪を敷く者】
【汝、三大の言霊を纏う七天】
【抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――!】
パソコンの画面を、目も眩むほどの白い閃光が埋め尽くした。
武内雄介の期待は、一気に最高潮へと引き上げられていた。




