第56話 正式版、ゲット!
涼介は、こんなところで早川静香と顔を合わせるとは思っていなかった。
向こうも涼介に気づいたらしく、知り合いである以上、無視するのも不自然だ。軽く手を振って挨拶を交わした。
まさか、その直後に凌乃から腰をつねられるとは思わなかったが。
腰の肉をつまんで思いきりひねられた経験がある者なら、あれがどれほど痛いか分かるだろう。
「恩を仇で返すにしても、早すぎないか?」
試験会場から出た途端、長いあいだ勉強を見てきた兄へこの仕打ちである。
涼介は凌乃の手を払いのけ、恨めしげに睨み返した。
兄妹の間で火花が散る。
それを見た高城家の両親は顔を見合わせ、思わず笑みをこぼした。
二人にとっては、これも距離が縮まった証拠に見えるらしい。
「涼介と凌乃、本当に仲良くなったわね。まるで本当の兄妹みたい」
美恵子が嬉しそうに言った。
「誰がこいつと本当の兄妹よ。ふん!」
しかし凌乃は大げさなくらい反応し、顔を背けると、勇夫の車へ向かって歩き出した。
高城勇夫は呆れたように首を振り、涼介の肩を軽く叩く。
「涼介、いつも苦労をかけるな」
◇
帰りの車内でも、隣に座っている凌乃はずっと窓の外を眺め、一言も口を利かなかった。
なぜ急に機嫌を損ねたのか、涼介には分からない。
自分は知り合いに挨拶しただけだ。
しかも凌乃も静香とは面識がある。
考えられるとすれば、受験前にパソコンを没収するよう提案したことへの仕返しだろうか。
家に到着すると、凌乃はそのまま自室へ閉じこもった。
涼介も無理に追いかけることはしなかった。
入試は終わったばかりだ。
ここ数日は本当に勉強漬けだったのだから、少しくらい羽を伸ばす時間を与えてもいい。
勇夫に頼み、凌乃のパソコンを部屋へ戻してもらったあと、涼介は適当な理由をつけて外出の準備をした。
「本当はあいつも連れていくつもりだったんだけどな。今はやめておいたほうがよさそうだ」
凌乃の部屋をノックしてみたが、返事はない。
今日は鳳凰院のもとへ行き、完成した正式版を受け取る予定だった。
『まだ安定性のテストは終わっていないけど、ひとまず最後まで遊べる状態にはなったよ』
以前、凌乃から資金を借りた際、正式版は誰よりも先に遊ばせると約束している。
ちょうど入試も終わった。
約束を果たすには、これ以上ないタイミングだった。
◇
(何よ!)
(私が試験会場から出てきたのに、真っ先に見るのは私じゃなくて、あの女のアイドルなんだから!)
高城凌乃は苛立ちながら、両手で抱き枕を何度も揉み潰していた。
「本当に嫌なやつ。帰り道でも、何も話しかけてこなかったし」
自分から周囲を寄せつけない雰囲気を振りまいていたことには、まったく気づいていない。
部屋の外からノックの音が聞こえたときも、凌乃は意地を張って聞こえないふりをした。
だが、本当に音が途絶えると、今度は妙に落ち着かなくなる。
(もう少しノックしてくれたら、うるさいって言いながら開けてあげたのに)
「わざとよ。絶対、私を怒らせようとしてるんだわ」
しばらくすると、階下から涼介の話し声が聞こえてきた。
凌乃は我慢できずに部屋を出る。
足音を立てないよう階段を下り、居間の入り口からそっと中を覗いたところで、美恵子と目が合った。
「凌乃、涼介を探しているの?」
「探してない!」
金髪の少女は慌てて否定した。
「そう? でも、涼介ならもう出かけたわよ。友達に会いに行くって」
美恵子の顔に、どこか意味ありげな笑みが浮かぶ。
ソファに座って新聞を読んでいた勇夫は、訳が分からない様子だった。
娘は涼介を探していないと言ったのに、なぜ妻は涼介の行き先を教えているのか。
だが次の瞬間、凌乃の顔が露骨に不満そうに歪んだ。
「あいつ、また私を置いて勝手に行った!」
◇
Lパソコン専門店で、涼介は鳳凰院と合流した。
今日は以前訪れたときよりも客が多い。
その多くが、発売されたばかりのDVDドライブを目当てに来店しているようだった。
そして店へ入った直後から、涼介は誰かの視線を感じていた。
すぐに発信源を見つける。
燕尾服を身につけた、執事のような中年男性だ。
だがその視線は、涼介の前に立った鳳凰院によって遮られた。
今日の彼女も、相変わらず目を引く美しさだった。
「来るタイミングが悪かったね、時雨沢。今日はずいぶん忙しいんだ」
「すみません。仕事中に邪魔をしてしまって」
涼介は反射的に謝った。
しかし返ってきたのは、鳳凰院の意地悪そうな目だった。
「何を言っているんだい? 私が気にしているのは、余計な人間が多いと利息を取り立てにくいってことだよ」
「……」
(それなら、むしろ今日は最高のタイミングだったな)
以前立て替えてもらった原稿データ化の費用二十万円は、すでに返済している。
だが雑誌社と提携して宣伝用の体験版を配布することになり、今度はCDのプレス費用を彼女に立て替えてもらっていた。
そのおかげで、宣伝用の体験版を早い段階で島川の発行部門へ納品できたのだ。
実際のところ、正式版を完成させてMへ参加するまで、この借金を返せる見通しはない。
すでに初回生産分として二千本を用意することも決めていた。
「これが正式版。内容自体はほとんど完成しているよ。もう少しテストが必要だけど、それが終われば量産に入れる」
鳳凰院 紗織は一枚のディスクを差し出した。
相変わらず何の装飾もない簡素なケースで、表面には油性ペンで印がつけられているだけだった。
「お疲れさまです」
涼介はディスクを受け取り、鞄の中へしまった。
本当なら少し世間話でもするつもりだったが、今日は鳳凰院も忙しそうだ。
「残念だな。せっかく距離を縮める絶好の機会だったのに」
鳳凰院 紗織は片腕で胸を支え、もう一方の指先を頬に添えながら、心底惜しそうな表情を浮かべた。
「……」
あまりにも露骨な誘いだったため、涼介は聞かなかったことにした。
「それでは、今日はこれで失礼します」
「待って」
立ち去ろうとしたところで、鳳凰院に呼び止められた。
「前に話していたよね。Mが終わったら、会社を立ち上げるつもりだって」
涼介は振り返り、不思議そうに彼女を見る。
確かにそんな話はした。
『Fate/stay night』の体験版が完成する前、ゲーム冒頭に表示されるロゴについて鳳凰院から尋ねられ、メールで説明したことがある。
Mで無事に成果を上げられたなら、同人サークルから法人へ移行するつもりだ、と。
「その会社に、私も参加していいかな?」
「えっ? 興味があるんですか?」
涼介は意外そうに目を瞬かせた。
もともと今回の企画が成功した暁には、この優秀なプログラマーを正式に誘うつもりだった。
多少の株式を渡してでも、引き入れる価値はある。
今の時代、技術者は非常に貴重な人材だ。
むしろ涼介は、断られる可能性のほうを心配していた。
一つの企画が成功したとしても、大企業と比べれば将来性も収益も不安定だ。
景気が低迷している今、創業したばかりの会社へ飛び込もうとする者など、相当な勇気の持ち主しかいない。
「もちろん。そうすれば、君と毎日一緒にいられるだろう?」
鳳凰院 紗織の目が、弓なりの月のように細められる。
涼介はまともに受け止めきれず、視線を逸らした。
「そういう冗談はやめてください。参加してくれるなら大歓迎です。ただし最初のうちは、給料を払える余裕がありません。報酬の代わりに、株式の一部を渡す形になると思います」
「社長夫人としての待遇か。承知したよ」
「えっ?」
「給料を受け取らずに株だけ持つなんて、普通は家族くらいのものだろう?」
「あなたって人は……」
三言話せば、そのうち一つは涼介をからかう言葉だ。
もはや対処のしようがない。
困り果てた涼介の反応を見て、鳳凰院は楽しそうに笑った。
「今日はこのくらいで許してあげるよ。TYPE-MOONの商標は、前に頼まれたとおり登録しておいた」
「それで、会社名はもう考えてあるのかい? 候補が決まっているなら、先に押さえておくこともできるよ」
「まあ、一応はあります。でも急ぐ必要はありません」
涼介も会社設立については事前に調べていた。
会社名を先に登録すれば、設立手続きが始まったものとして扱われる。
定められた期間内に資本金を払い込み、必要な手続きを終えなければ、高額な違約金が発生する可能性もある。
「Mが終わってからにしましょう」
「会社名については、特に反対がなければ――」
涼介はわずかに間を置き、その名を口にした。
「ANIPLEX」




