第54話 付録
「そうするしかないだろう? Mの運営は予約販売を認めていないんだから」
Mの本質は、同人誌即売会だ。
販売形式は厳格に定められており、商品と代金の受け渡しは、会場で直接行わなければならない。
そうでなければ、涼介も真っ先に予約を受け付け、代金を集めてから生産する方法を考えていただろう。
未来では、クラウドファンディングによって開発資金を集める方法さえ存在する。
しかし今の時代は、まだそこまで商業の仕組みが発達していなかった。
鳳凰院から返信が届く。
『その方法なら、最終日までに五千本くらいは追加で用意できると思う』
「最初に用意する分と合わせれば、それで十分だ」
涼介も、最初から一度に大成功を収めようとは考えていない。
『販売価格は?』
「一本八千円」
『高いわね。売れ残る心配はないの? それとも、宣伝に使える予算を別に用意してあるのかしら』
鳳凰院の指摘は、問題の核心を突いていた。
自分たちがゲームの出来を理解しているからといって、客も同じとは限らない。
Mには数え切れないほどのサークルが出展する。
その中から、どうやって自分たちの作品を見つけてもらうのか。
毎回長蛇の列ができるブースは、すでに名の知られた大手サークルか、過去に優れた作品を出した実績のあるところばかりだ。
無名の小規模サークルが、偶然来場者に発掘されたとしても、その頃には最終日を迎えている可能性がある。
追加生産を前提とするなら、最低でも初日の在庫を売り切らなければならない。
「その点は心配しなくていい。出展スペースについては、もう正式な返事が届いているんだろう?」
『ええ。東展示棟の九十三番。見事なくらい端っこよ』
小規模サークルの扱いなど、そんなものだ。
どれほど作品が優れていても、配置は基本的に抽選で決まる。
運が悪ければ、会場の隅で人が来るのを待つしかない。
例外となるのは、すでに長く活動している有名サークルくらいだ。
運営側も、そうした出展者には目立つ場所を用意する。
『それで、どうするつもり?』
鳳凰院に問われるまでもなく、涼介は宣伝方法について考えていた。
ゲームの売上において、事前の宣伝が与える影響は大きい。
しかし、この時代にそれを実現するのは簡単ではなかった。
後世であれば、体験版をインターネット上に公開するだけで済む。
だが現在の通信技術では、仮に配信できたとしても、サーバーに求められる負荷と費用があまりにも大きい。
今の涼介に、それを賄う余裕はなかった。
「雑誌社との提携を考えている。順調に進んだら、そのときはまた力を貸してほしい」
メッセージを送信したあと、涼介は早川留美へ電話をかけた。
◇
涼介の記憶にある古い雑誌の中には、付録としてディスクが同梱されているものがあった。
音楽CDの場合もあれば、ゲームの体験版が収録されていることもある。
紙媒体が今よりも大きな影響力を持っていた時代には、珍しくない宣伝方法だった。
もちろん、付録そのものを読者へ無料で配布するからといって、雑誌社側の掲載費用まで無料になるわけではない。
宣伝媒体を提供する雑誌社には、相応の費用を支払う必要がある。
島川ビルの会議室。
早川留美は、淹れたばかりのコーヒーを涼介の前へ置いた。
「時雨沢先生、もう少しだけお待ちください。服部さんが、今ちょうど販売部門へ連絡してくれていますから」
「お手数をおかけします。ありがとうございます」
涼介は軽く頭を下げた。
実際、感謝するだけの価値はあった。
自分の担当編集は、驚くほど行動が早い。
電話で相談してから、それほど時間が経たないうちに返事を用意してくれた。
雑誌へ付録を同梱するかどうかは、編集者が決められることではない。
販売部門が担当する業務だ。
早川留美は服部拓也へ仲介を頼み、無事に担当者との面談を取りつけてくれた。
早川は、涼介の隣の席へ腰を下ろした。
「時雨沢先生の体力を、まだ甘く見ていました」
「小説と漫画を連載しながら、別のものまで作っていたなんて」
涼介は少し気まずくなった。
漫画とは違い、このゲームは島川と関係のない企画だ。
そのため、担当編集である早川には事前に伝えていなかった。
「『キノの旅』の執筆には影響させません。第五巻の完結編も、もうすぐ書き上がります」
「先生を急かしているわけではありませんよ。ただ、純粋にすごいと思っただけです」
早川留美は慌てて手を振った。
『カードキャプターさくら』の一件を経験した今、彼女に涼介を責めるつもりはない。
ただ素直に感心していただけだった。
「そうでしたか。すみません、考えすぎました」
涼介は安堵する。
「ただ、予定どおりなら、『キノの旅』が完結したあと、今年の後半に新作を発表するつもりです」
「そのときは、また早川さんにお願いすることになります」
「えっ、本当ですか?」
早川留美の顔に喜色が浮かんだ。
今の彼女は、少しずつ新しい作家を発掘し始めている。
担当作品も、すでに『キノの旅』だけではない。
それでも、優れた作品が一本増えることを嫌がる編集者などいない。
すでに実績を残している涼介の新作なら、少なくとも凡作ではないだろう。
「はい」
涼介は頷いた。
「そのときは、またお願いします。次の作品は、『キノの旅』よりもずっと良い成績を出せると思っています」
「それだけの自信があります」
「任せてください! 私も全力で売り出します!」
早川留美は胸の前で両手を握り締め、真剣な表情で宣言した。
◇
ライトノベル編集部を出た頃には、午後二時を回っていた。
服部拓也の仲介と、早川留美の後押しもあり、販売部門の担当者は涼介の提案を受け入れてくれた。
付録一枚につき、作業費として百円を支払う。
また、雑誌の発売日に間に合わせるため、最低でも二週間前までに付録を島川の販売部門へ納品しなければならない。
編集部とのつながりがなければ、販売部門の担当者と面会することさえ難しかっただろう。
「Mの開催は八月。今から始めれば、二か月ほど雑誌で宣伝できるか」
週刊誌であれば、最大で十回ほど体験版を付けられる。
「ただ、島川MAGAZINEの発行部数すべてに付けるのは無理だ」
「一号につき五百枚の限定付録にして、話題を途切れさせないのが一番いい」
何より、涼介には全冊へ付録を用意できるほどの宣伝費がなかった。
手元に残っているのは二百万円だけだ。
CD-ROMはDVDよりはるかに安く、おそらく一枚あたり十分の一程度で済む。
それでも、数千枚単位になれば無視できない出費となる。
「まずは鳳凰院に知らせよう。体験版をもう少し調整してもらって、できるだけ早くCDへ焼いて宣伝を始める」
◇
「遅い!」
宣伝の手配を終えて帰宅した涼介は、玄関で短パン姿の凌乃に待ち構えられていた。
少女は両手を腰に当て、通路の真ん中に仁王立ちしている。
「持って帰ってきた?」
「何を?」
「とぼけないでよ。あの女巨人のところへ行ってたんでしょう?」
「完成版はできたの?」
高城凌乃は居間で新聞を読んでいる父親をちらりと確認し、涼介へ近づいて声を潜めた。
「素材を渡したら、その場で完成させられると思っていたのか?」
「いくらなんでも、常識がなさすぎるだろう」
涼介は呆れたように彼女を見る。
半年以上同じ家で暮らし、兄妹の関係が完全に良好になったとは言い難い。
それでも、互いに軽口を叩き合うことは、すでに日常の一部になっていた。
「何よ。ずっと家で楽しみに待ってたのに」
「そういうことなら、もっと早く言いなさいよ」
凌乃は腕を組み、不満そうに鼻を鳴らした。
「悪かった。お前に常識がないことを、あらかじめ考慮しておくべきだった」
「私を馬鹿にしてる?」
凌乃の目つきが危険なものへ変わる。
「それより、お前が今考えるべきなのは、ゲームのことじゃないだろう」
「もう六月だ。そろそろ別のことに集中したほうがいいんじゃないか?」
涼介はすぐに話題を変えた。
この妹は、口で言い負かされると本当に手が出る可能性がある。
腕力では、涼介に勝ち目がない。
「何よ。受験のことを言ってるの?」
凌乃は勢いを失い、急に気まずそうな顔になった。
この半年で、彼女の成績は驚くほど伸びている。
しかし、以前涼介の前で宣言したことだけは、いまだに実現できていなかった。
これまでの最高点は九十八点。
そのせいで、試験の話になると涼介に対して強く出られない。
(あんなこと、言わなきゃよかった)
次は絶対に満点を取る。
まるでギャルゲームのフラグのようだ。
口にした瞬間、敗北する未来が確定してしまったように思える。
「今日から補習の内容を一段階上げる。受験対策を始めるから、勉強時間は二倍だ」
「えっ?」
「千葉第一高校の学力試験が、簡単に通ると思っているのか?」
「何よ。今の私は、もうクラスでも上位なんだけど」
「つべこべ言うな。油断して落ちても、俺は責任を取らないからな」
「やればいいんでしょう!」
「補習が終わったら、パソコンは禁止だ。十分な睡眠時間も確保する」
「ちょっと! 私の趣味まで奪うつもり!?」
涼介は、自分が口で言うだけでは効果が薄いことを理解していた。
凌乃は補習時間が延びること自体は受け入れるだろう。
しかし夜中になれば、こっそり起きてパソコンで遊ぶに決まっている。
「ふっ」
高城涼介は凌乃の横を通り過ぎ、居間へ顔を出した。
「父さん。できれば、凌乃のパソコンを一週間ほど預かってもらえませんか?」
「受験勉強に影響が出るかもしれません」
「そうなのか? 分かった。夕食の前に、部屋から運び出しておこう」
高城勇夫は、ほとんど考えることなく了承した。
「うぅっ!」
父親の決定を前に、凌乃は悲鳴を上げることしかできなかった。




