第53話 組み上げ
休憩中、更衣室で仲間たちに自分の考えを伝えた早川静香だったが、部屋を出たあとになって、少しだけ後悔していた。
昔から、正しい忠告ほど耳に痛いと言う。
実の姉に説教されたときでさえ、わずかな反発を覚えることがあるのだ。
ましてや、四人は本当の姉妹ほど親しいわけではない。
知り合って間もない相手に、あんなことを言われれば、嫌われても仕方がないのではないか。
(これで仲間外れにされたりしないよね……?)
静香は不安になり、そっと後ろを振り返った。
三人の仲間たちは、少なくとも表面上は怒っているようには見えない。
それを確認し、静香は胸の内でそっと安堵の息を吐いた。
「休憩は終わりだ。それじゃあ、今から本番を想定したリハーサルを始めるぞ」
伊東慎平が手を叩く。
四人はすぐに気持ちを切り替え、立ち位置についた。
早川静香はレッスン室の鏡越しに、廊下に二つの人影が増えていることへ気づいた。
一人は背が高く、もう一人は小柄だった。
◇
(やっぱり、この子だったんだ)
高城凌乃は、隣に立つ涼介をちらりと見て、思わず唇を尖らせた。
華やかなアイドル衣装に身を包んだ少女たちが、流れ始めた音楽に合わせて踊り出す。
若々しく眩しい雰囲気が、一気にレッスン室を満たした。
凌乃でさえ、思わず目を奪われるほどだった。
(何よ。この人、こんなに女の子に縁があったの?)
なんだか腹が立つ。
凌乃は理由もなく不機嫌になり、涼介の脚を蹴りたくなる衝動をどうにか堪えた。
一方の涼介は、自分がつい先ほど家庭内暴力の危機を回避したことなど知る由もない。
彼は室内にいる伊東慎平へ軽く頭を下げ、挨拶を交わしていた。
鏡越しに、早川静香がこちらを見ている。
涼介は礼儀として、軽く手を振った。
すると、向こうの少女の顔に、ぱっと明るい笑みが咲いた。
◇
リハーサルは長時間に及び、終わったのは午後九時だった。
四人の少女たちは、歯車を外された機械のように、レッスン室の床へ倒れ込んでいる。
涼介は二回ほど通しのリハーサルを見たあと、凌乃を連れて先に帰っていた。
これ以上残っても、邪魔になるだけだと判断したためだ。
二人のメンバーは先に寮へ戻った。
早川静香と朝倉未来にはそれぞれ自宅があるため、二人とは別行動になる。
しばらく休んだあと、静香は更衣室で私服へ着替え、帰る準備を整えた。
ところが、会社を出ようとしたところで、不意に腕を抱き込まれた。
「どうしたの、朝倉さん?」
腕に伝わる柔らかな感触だけで、相手が誰なのか分かった。
この四人の中で、これほど分かりやすい体つきをしているのは彼女だけだ。
「冷たいなあ、静香ちゃん。未来って呼んでくれていいんだよ?」
朝倉未来は、甘えるような可愛らしい笑みを浮かべた。
(まだ名前で呼び合うほど親しくないと思うけど……)
静香は少し困ってしまう。
それに、つい数時間前、更衣室でかなり厳しく叱ったばかりだ。
普通なら、不満を抱いていてもおかしくない。
「……」
「午後のことは気にしないでね。私も先輩に教えられたことを、そのまま信じてただけだから」
「でも今は、静香ちゃんの言ってたことのほうが正しいと思ってるよ」
「そうなんだ。それならよかった」
静香はほっと息を吐いた。
彼女自身も、できることなら仲間たちとは良好な関係を築きたいと思っている。
一緒にデビューする以上、これから長く行動を共にすることになる。
互いにわだかまりを抱えたままでは、活動するたびに息苦しくなってしまう。
「じゃあ、友達になってくれる?」
「一緒に帰ろうよ。静香ちゃんも駅に行くんでしょう?」
「……うん。それなら」
朝倉未来が、ここまで人懐っこい性格だとは思っていなかった。
とはいえ、帰る方向は同じだ。
断る理由もない。
二人は会社を出た。
朝倉未来は、そのあともずっと静香の腕へ抱きついたままだった。
「そういえば、午後のリハーサルが始まったばかりのとき、静香ちゃん、外を見てたよね」
「えっ?」
まさか、あの状況で仲間の様子まで見ていたとは思わなかった。
「あの男の子を見てたんでしょう? そのとき、すごく嬉しそうに笑ってたよ」
「それは……」
静香は、どう答えるべきか迷った。
涼介にリハーサルを見に来てほしいと頼んだのは、自分の個人的な願いだ。
実際に彼が約束どおり来てくれたことは、確かに嬉しかった。
正直なところ、あの瞬間は緊張しすぎて、危うく振り付けを間違えそうになったほどだ。
あとで伊東慎平にも、その点を指摘されている。
「好きな人?」
「ち、違うよ。そういうんじゃなくて……強いて言えば、恩人かな」
「午後に話してた曲も、あの人が書いてくれたの」
早川静香は頬を赤くし、慌てて否定した。
「へえ、そうなんだ」
朝倉未来は楽しそうに笑い、口元を持ち上げる。
「静香ちゃんのために曲を書いてくれたの? すごくロマンチックだね」
「えっ?」
静香は一瞬、動きを止めた。
隣を歩く仲間の顔に、からかうような笑みが浮かんでいることへ気づき、慌てて手を振る。
「違うよ! 未来ちゃんが考えてるような関係じゃないから!」
「ふふっ」
「本当に違うの!」
「分かってるよ。安心して」
「私、朝倉未来は口が堅いから。誰にも言いふらしたりしないよ」
少女は胸を張り、自信満々に保証した。
「……」
早川静香は、自分の弱みを一つ握られてしまったような気分になった。
◇
声優の選考が終わってから、涼介はその後の二週間で、さらに二度東京へ足を運んだ。
目的は、音声収録の立ち会いだ。
一方の凌乃は、ひたすら原画を仕上げる作業に集中していた。
二人はそれぞれ自分の役割を進め、時間はあっという間に過ぎていく。
季節は移り変わり、忙しさの中で春が終わった。
気温も少しずつ上がり始めている。
そんな中、秋葉原では新しい『風』が吹き始めていた。
四月に入ってから、国内大手企業のソニーが、『DVDドライブ』と呼ばれる装置の普及を推し進め始めたのだ。
パソコンや多くの映像機器へ外付けできる装置である。
新たな記録媒体は、同じ大きさのディスクへ、これまでよりはるかに多くのデータを保存できた。
映像や音声ファイルはもちろん、従来のCD-ROMよりも読み込み速度が速い。
市場には、DVDを媒体とした映像作品も急速に増え始めていた。
涼介もその変化へ気づき、同時に、これまで見落としていた問題を即座に理解した。
CD-ROMでは、『Fate/stay night』の膨大な容量を収めきれない。
涼介はすぐに鳳凰院紗織へ連絡した。
「時雨沢、私を誰だと思ってるの?」
「そんなこと、とっくに考えてあるわよ」
電話の向こうから、いつもの楽しそうな笑い声が返ってきた。
「安心して。この技術の扱い方なら分かってる」
「ソニーが本格的に普及させてくれるなら、DVDで発売しても、最終的な売上への影響はそれほど大きくないわ」
「店では外付けDVDドライブが売り切れそうなくらいよ。あなたの分も一台取ってあるから」
「妹ちゃんも必要になるでしょう?」
鳳凰院の返答を聞き、涼介は安堵した。
「それなら助かる。ありがとう」
涼介の記憶では、DVDという技術が登場するのは九十年代後半で、本格的に普及したのは二十一世紀に入ってからだった。
数多くの名作ギャルゲームが世に送り出されたのも、その頃である。
これほど重要な問題を見落としていたとは。
もしDVDの普及という好都合な変化が起きなければ、大量のイラストや音声を削らなければ、CD-ROMへ収められなかった可能性が高い。
そうなれば、これまで投じた制作費の大部分が無駄になるところだった。
六月初旬。
涼介は準備していたすべての素材を、鳳凰院紗織へ渡した。
『Fate/stay night』を構成する、すべての要素が揃った。
いよいよ、最後の組み上げに入る。
あとは完成を待つだけだ。
「半月くらいあれば、プログラムは一通り完成すると思う」
「そのあとテストを済ませれば、大量にディスクを焼けるようになるわ」
「何本作るつもり?」
「前にも話したけど、ゲームの容量が大きいから、媒体はDVDにする」
「新しい技術だから、以前のCDよりコストがかなり高いのよ」
ディスクの製造費については、涼介も二か月ほど前から計算していた。
最新規格の空のDVDは、一枚あたりおよそ千三百円。
Lパソコン店でも専門に扱っており、鳳凰院から聞いた話では、千枚以上注文すれば端数は切ってもらえる。
さらに、書き込み作業にも費用がかかる。
時間と設備費を考えれば、涼介が自分で専用の書き込み装置を購入するわけにはいかない。
鳳凰院に業者を探してもらい、書き込みを依頼するしかなかった。
費用は一枚あたり五百円。
「パッケージ代まで含めれば、一枚あたり二千円近くかかるのか」
鳳凰院から届いたメッセージを見ながら、涼介はしばらく考えたあと、返信を入力した。
「まずは千本ほど作ろう」
「それだけ? 自分の作品に自信がないの?」
鳳凰院紗織は、かなり意外そうだった。
このゲームの完成度は、メインプログラマーを務める彼女が一番よく分かっている。
間違いなく、最高水準の作品だ。
質の高いイラストに、主要人物をほぼ網羅した音声。
制作費だけを考えても、千本しか販売しないのでは、到底元は取れない。
「今、手元に残っている予算が二百万円しかないんだ」
涼介が示した金額は、すべての未払い分を差し引いたうえで、実際に動かせる全財産だった。
『キノの旅』第三巻が正式に出版され、一度目の印税精算が終わって、ようやくこの金額である。
コミックマーケットは八月末に開催される。
それまでに、さらに二百万円近く貯められるはずだった。
順調に進んだとしても、初回に用意できるのは二千本ほどだろう。
ないものは、どうしようもない。
結局のところ、問題はただ一つ。
金が足りなかった。
「空のDVDを千枚用意して、パッケージまで完成させるのに、どのくらい時間がかかる?」
涼介は続けてメッセージを送った。
「どうして急にそんなことを聞くの?」
「一枚を書き込むのに、だいたい二十分くらい」
「私が見つけた業者なら、千枚でも五時間ほどで終わると思う。機材の台数は十分にあるから」
「徹夜で書き込みを続けてもらう場合、追加料金はいくらくらいになる?」
鳳凰院紗織は、そのメッセージを見た瞬間、涼介の考えを察した。
「コミケは三日間ある」
「最初の分が売り切れたら、すぐに次の分を追加で焼くつもりなの?」




