第52話 見せないための対策
声優事務所の中では、多くの人々が慌ただしく行き交っていた。
九条澄香が帰ったあとも、待機している人数は減るどころか、むしろ増えている。
涼介はまさか、事務所側が特例として、声優の起用料を全体で二割引きにしてくれるとは思っていなかった。
これによって、制作費をかなり節約できる。
浮いた百万円以上の資金へ少し追加すれば、台詞の少ない重要な脇役にも、それぞれ合った声優を起用できそうだった。
この待遇を聞いた瞬間、涼介は、先ほど話しかけてきたマネージャーが裏で動いたのだと気づいていた。
向こうから差し出された好意を、わざわざ断る理由はない。
涼介と凌乃は、その後もかなりの時間をかけて声優を選び続けた。
昼食も収録室の中で済ませ、すべての配役が決まったのは午後二時になってからだった。
「何よ、この事務所、なかなか見る目があるじゃない」
「もしかして、私たちのゲームが売れるって見抜いてるのかしら?」
凌乃は今回の待遇に、かなり満足していた。
音声が充実すればするほど、完成版を遊ぶときの体験もよくなる。
(そんなわけないだろ)
涼介は苦笑した。
優れたゲームと声優の演技が互いを引き立てるのは、確かにそのとおりだ。
作品が発売されれば、主要人物を演じた何人かの声優が注目を集める可能性も高い。
だが現時点では、彼女たちにとって、少し条件のいい仕事を一つ得ただけにすぎない。
『Fate/stay night』のシナリオを読んだことがあるのは、鳳凰院紗織だけだ。
凌乃でさえ、物語の全体像までは知らない。
声優を依頼しただけの事務所が、ゲームの完成度まで知っているはずがなかった。
涼介は、伊東慎平から向けられた善意を感じ取っていた。
「また借りができたな」
もっとも、あまり深刻には考えていない。
相手には明確な狙いがある。
そういう人間へ借りた恩なら、返すことも難しくはなかった。
事務所との契約を済ませ、前金を支払ったあと、涼介は携帯電話を取り出した。
早川静香からは、すでにメッセージが届いている。
社内リハーサルを見に来ないか、という誘いだった。
「こっちの用事は終わったけど、お前は先に帰るか?」
「それとも、俺と一緒に友達へ会いに行く?」
涼介が妹へ尋ねた。
「友達? 誰よ」
「まさか、またあの女巨人に会いに行くんじゃないでしょうね?」
凌乃は表情を変え、反射的に一歩後ろへ下がった。
鳳凰院紗織は、今でも少し苦手な相手だった。
「別の友達だ。アイドルをしている」
「アイドル?」
凌乃の脳裏に、すぐ一人の少女が浮かんだ。
以前、涼介を尾行したとき、映像店の入ったビルの前で見かけた少女だ。
金髪の少女は無意識に眉を寄せ、警戒するような表情を浮かべた。
◇
SP社、研究生用レッスン室。
四人の少女が身体に密着する練習着を身につけ、ダンスと立ち位置の確認をしていた。
早川静香もその中にいる。
彼女は隊列の中心に立ち、明らかに重要な位置を任されていた。
少し離れた休憩用の椅子には、伊東慎平が座っている。
彼は表情を変えず、四人の動きを細かく見守っていた。
やがて音楽が止まり、激しく身体を動かしていた少女たちも足を止める。
全員の胸が、呼吸に合わせて上下していた。
ぱちぱちぱち。
マネージャーが拍手を送る。
「本番でも、今の状態を維持しろ」
「初舞台は、お前たちにとってかなり重要だ」
「客の反応がよければ、俺も会社へ追加の予算や仕事を要求しやすくなる」
「ありがとうございます、伊東さん」
少女たちは揃って頭を下げた。
「今から十分休憩。そのあとは本番を想定したリハーサルだ」
「衣装に着替えてこい」
休めると聞き、少女たちは揃って安堵の息を吐いた。
そのまま隣の更衣室へ移動する。
◇
「これ、かなりきつくない?」
「こんな衣装で大きく動いたら、見えちゃいそうなんだけど」
そう口にしたのは、四人の中でもっとも目立つ体つきの少女だった。
身体の線は豊かで、年齢からは想像できないほど胸も大きい。
幼さの残る顔との落差が、ひどく目を引いた。
早川静香は彼女へ目を向ける。
(朝倉未来、だったよね)
活動を休んでいる間に、事務所にはまた何人か若い新人が増えていた。
今回組むことになった三人は、全員が静香より年下だ。
そう考えると、自分は彼女たちの先輩ということになる。
「心配なら、見せパンを履いたほうがいいよ」
静香はそう忠告した。
四人の衣装は、暗い赤色をした吊りスカートだった。
裾は膝よりも上にある。
激しく踊れば、舞台の下から見上げた客には、中がはっきり見えてしまうだろう。
静香は以前にもステージへ立った経験がある。
そのため準備はしており、衣装を着る前に、きちんと見せないための対策を済ませていた。
「でも、それじゃ駄目じゃない?」
「先輩が、少しくらい見えたほうが人気も出るって言ってたよ」
「えっ、本当に?」
「それはさすがに大胆すぎない?」
(先輩って、まさか……)
以前、「アイドルなんて、見られてなんぼ」と言っていた人物だろうか。
早川静香は、かつてスカートの中を盗撮されたときのことを思い出した。
あの騒動のあと、すでにデビューしていた先輩の一人から、似たようなことを言われている。
当時の静香は、自分が事務所へ迷惑をかけたという負い目もあり、相手の言葉が正しいのかもしれないと、一時は考えてしまった。
だが、少し前に涼介から曲をもらって以来、彼女は自分が間違っていなかったと確信している。
盗撮されることなど、やはり我慢できるはずがない。
ましてや、自分から見せようとするなど論外だ。
今の静香にとって、それは完全な邪道だった。
芸能人が自分自身を大切にせず、そんな方法で注目を集めたところで、集まったファンも彼女たちを大切には扱わないだろう。
「私たちは歌でデビューするの」
「そんなことをする必要はないよ」
朝倉未来が本当に何の対策もせず衣装を着ようとし、ほかの二人まで誘い始めたため、静香の口調は少し強くなった。
冗談ではない。
今日は涼介がリハーサルを見に来る約束になっている。
もし仲間の誰かが舞台上で下着を見せてしまえば――
(私まで、同じような人間だと思われるかもしれない)
「そんな考えなら、大人になったら最初からそういう仕事を選べばいいでしょう」
「どうしてアイドルになろうとしてるの?」
四人で組むことになっていなければ、静香もここまで口を出すつもりはなかった。
人にはそれぞれの考え方があり、どんな道を選ぶかも本人の自由だ。
しかし今の彼女たちは、一つのグループだった。
思っていた以上に厳しい言い方をされ、朝倉未来は肩をすくめ、その場で動けなくなった。
残る二人も気まずそうな顔をしており、どちらへ味方すればいいのか分からない様子だった。
「私はただ……もっと有名になりたいだけで……」
朝倉未来は小さく呟いた。
どこか傷ついたような表情をしている。
「だったら、練習して」
「誰よりも必死に練習して、舞台で一番いい自分を見せればいい」
「そんなやり方に頼るんじゃなくて」
早川静香の言葉に、更衣室にいた三人は息を潜めた。
しばらくの間、室内には呼吸の音だけが残る。
(言いすぎたかな……)
その様子を見た静香も、自分の口調が少し偉そうだったと気づいた。
以前の先輩と同じように、自分の価値観を後輩へ押しつけようとしているだけなのかもしれない。
だが、力で押さえつけるだけでは意味がない。
「みんな、あの曲はもう歌えるよね?」
早川静香は沈黙を破り、別の角度から話を続けた。
「静香ちゃんが言ってるのって、『No, Thank You!』のこと?」
「一か月も前から、もうかなり歌い込んでるよ」
隣にいた二人のうち、一人が答えた。
「だったら、歌詞に込められているものを、もう一度ちゃんと考えてみて」
「自分が何のためにアイドルになろうとしたのか、忘れないで」
「夢があったからじゃないの?」
「私はいつか、変な店で、みんなの裸みたいな姿が印刷されたビデオを見ることになんてなりたくない」
この時代、アイドルとして成功することは簡単ではない。
大きな投資が必要なのに、報われる可能性はひどく低い。
SP社だけでも、毎年百人を超える研究生が脱落していた。
彼女たちの多くは、夢を追うために勉強を諦めている。
歌とダンス以外に、生活のための技術を持っていない者も少なくない。
中には名声を求めるあまり、多額の借金を背負い、最後には望まない道へ転落する者もいた。
「……」
早川静香の言葉を聞き、朝倉未来を含む三人は、考え込むような表情を浮かべた。
やがて全員が素直に、見せないための対策を済ませていく。
「休憩が終わったなら、リハーサルへ戻ろう」
「伊東さんを待たせたら悪いから」
少し休んだあと、早川静香は立ち上がり、真っ先に更衣室を出ていった。
残された三人は顔を見合わせる。
「本当にリーダーらしいね、静香ちゃん」
「うん。怒られたのに、私たちのために言ってくれたって分かる」
「年上だからってだけで、伊東さんがリーダーにしたわけじゃないんだね」
「ちゃんと、みんなを引っ張ろうとしてる」
朝倉未来は、静香の背中を見つめていた。
その目からは、先ほどまでの不満が消えている。
代わりに浮かんでいたのは、憧れだった。
先ほどの言葉は、不思議なくらい格好よく感じられた。
早川静香は、自分が何を望んでいるのかを、はっきりと理解している。
正面から夢を追いかけ、決して揺らがない意志を持っていた。
朝倉未来は立ち上がる。
そして、口の中でそっと歌詞を口ずさんだ。




