第51話 採用
「次の方、どうぞ」
呼び出しを受け、九条澄香は不安を抱えたまま収録室へ足を踏み入れた。
手には、あらかじめ渡されていた台本を持っている。
収録室の内部は大きなガラスで仕切られており、その向こうに審査を担当する者たちの姿が見えた。
ただし、彼らが小声で交わす会話までは聞こえない。
審査中の話し声が、声優の演技へ影響を与えないようにするためだ。
九条澄香にとって、それ自体は珍しいことではなかった。
それよりも、気になることがある。
(今回の審査員、ずいぶん若いのね)
ガラスの向こうに座っているのは、少年と少女だった。
「九条澄香と申します。よろしくお願いいたします」
慣例どおり、深く頭を下げる。
顔を上げると、向こうにいる二人が突然、顔を寄せ合って何かを話し始めた。
特に少年のほうは、急に眉をひそめている。
(私の声が気に入らなかったのかしら)
九条澄香には、挨拶をしただけで落とされた経験がある。
そのときの理由は、声が冷たすぎて役に合わないというものだった。
(まさか、今回も……)
不安が膨らんだが、しばらくすると、ガラスの向こうから返答があった。
「緊張しなくて大丈夫です」
「台本にあるアルトリアの台詞を、何行か読んでみてください」
収録室のスピーカーから、少年の声が流れる。
口調は穏やかで、苛立っている様子もなかった。
その声を聞き、九条澄香の身体から少し力が抜けた。
「分かりました。それでは、始めます」
視線を台本へ落とす。
アルトリアという女性の台詞は、そこには二つしか記されていなかった。
前のページにある遠坂や間桐という姓の少女たちに比べれば、明らかに少ない。
(それほど重要な役ではないのかもしれない)
九条澄香は深く息を吸い、台詞を口にした。
「問おう。あなたが私のマスターか」
◇
「くっ……!」
高城凌乃は手にしていた台本で顔を覆い、興奮したように足を震わせた。
「これよ! まさにこの感じ!」
涼介も驚いた目を向けている。
(似ている)
その声質は、記憶にある川澄綾子の声に驚くほど近かった。
最初の挨拶を聞いた時点で、わずかにそう感じていた。
だが、実際に台詞を口にした瞬間、涼介の意識は月明かりに照らされたあの土蔵へ一気に引き戻された。
もちろん、まだ未熟な部分はある。
声がかすかに震えているのは、おそらく緊張のせいだろう。
それでも、全体として見れば十分すぎるほどだった。
◇
「召喚に応じ、参上した」
「これより我が剣はあなたと共にあり、あなたの運命は私と共にある」
「――ここに契約は完了した」
九条澄香がすべての台詞を読み終える。
すると、ガラスの向こうにいた金髪の少女が、突然こちらを食い入るように見つめてきた。
今にも飛びかかってきそうな勢いだ。
少女は涼介の前にあったマイクを奪い取ると、身を乗り出した。
「もう一度読んで」
「えっ?」
九条澄香は戸惑ったが、言われたとおり、もう一度同じ台詞を読んだ。
「最高! この人で決まりよ!」
凌乃は思わず涼介の腕を掴んだ。
「もうほかの人を聴く必要なんてないわ。この人にヒロインを演じてもらいましょう!」
「俺も異論はないけど、先に腕を離してくれないか?」
涼介は痛みに顔をしかめながら、妹の手を引き剥がした。
掴まれていた場所を揉む。
見なくても、きっと跡が残っているだろう。
先ほどは、凌乃の爪が皮膚へ食い込んだようにさえ感じた。
「何よ。全然力なんて入れてないわよ」
「そうか。じゃあ本気で握られたら、俺はそのまま死ぬかもしれないな」
「それ、私を馬鹿にしてるの?」
「本当に力を入れて試してみましょうか?」
「遠慮しておく」
涼介はそれ以上相手にしなかった。
ここで張り合っても、自分が痛い目を見るだけだ。
マイクを取り戻し、通話ボタンを押す。
ガラスの向こうにいる九条澄香へ、笑顔を向けた。
「おめでとうございます」
「ええと……九条さん。オーディションは合格です」
◇
収録室を出た九条澄香は、全身から力が抜けるような安堵を覚えた。
(本当に受かった……)
これで、声優として仕事を一つ得たことになる。
わざわざオーディションをして選ぶほどの役なら、台詞が少なくても百行ほどはあるだろう。
事務所の取り分と税金を差し引けば、手元に残るのは三万円前後。
「これなら、ひとまず急場はしのげそう」
九条澄香が暮らしているのは練馬区だった。
都内でも比較的生活費を抑えやすい地域である。
節約すれば、三万円でも一か月分の生活費の足しにはなる。
少なくとも、すぐに飢えることはない。
業界で活躍している先輩たちも、最初は皆、新人だった。
一度でも仕事を経験すれば実績になる。
次に採用される可能性も高くなるだろう。
(いい始まりになったかもしれない)
九条澄香は、受付の女性へ一言礼を言うつもりだった。
今回の機会を得られたのは、彼女が連絡をくれたおかげだからだ。
ところが、受付の女性は何か急ぎの用事があるらしく、こちらへ軽く手を振っただけで、そのまますれ違うように収録室へ入っていった。
(少し待っていよう)
(きちんとお礼を言わないと)
今の九条澄香にとって、仕事を紹介してもらったことは、命を救われたにも等しかった。
収録室の前で十分ほど待つ。
やがて、受付の女性が中から出てきた。
九条澄香が慌てて手を振ると、相手も笑顔で近づいてくる。
「おめでとう、九条。採用されたわね」
「あなたが電話をくれたおかげよ。そうでなければ、参加する機会すらなかったもの」
「口だけのお礼じゃ駄目だからね。今度、食事を奢ってもらうわよ」
「食事?」
九条澄香は固まった。
報酬は全体でも三万円ほどだと思っていた。
そこから食事をご馳走すれば、一度で半分近くなくなるかもしれない。
(どうして、そんな無茶なことを……)
目の前の女性は、それほど現金な性格ではなかったはずだ。
「あの……」
断りたいが、どう言えばいいのか分からない。
九条澄香が言葉に詰まっていると、受付の女性は呆れたように笑った。
「何、その顔。まさか惜しいとか思ってる?」
「あなたが受かったのは、ヒロイン役よ」
「台詞は少なく見積もっても千五百行以上あるんだから」
「えっ?」
「どうして何も分かってない顔をしてるのよ」
受付の女性は九条澄香の手を引き、受付カウンターへ戻った。
書類を何枚かめくったあと、一枚の用紙を取り出し、机の上へ置く。
そこには、依頼された役ごとのおおよその台詞数が記載されていた。
涼介が自ら記入したものだ。
その一番上に書かれていた名前が、アルトリアだった。
さらに、その下には明確に記されている。
台詞数――千八百三十五行。
「千八百……」
九条澄香は、頭の中で報酬を計算し始めた。
「計算しなくていいわよ」
「事務所の取り分を引いても、全部収録すれば、あなたの収入はだいたい五十五万円になるから」
「かなりいいスタートよ」
「B契約の新人が、最初の仕事でこれほど大きな案件を取るなんて、私も見たことがないもの」
九条澄香は呆然とした。
五十五万円。
以前勤めていた頃の、二か月分近い給料に相当する。
(本当に……?)
自分は、てっきり端役に選ばれただけだと思っていた。
「私が、ヒロイン役なの?」
「そうみたい」
「ほかの主人公や脇役は、最初の三十人くらいまでに、ほとんど決まったらしいわ」
「そのあとは、ずっとこのヒロイン役を探していたんだって」
「審査していた二人、かなり厳しかったみたいね。あれだけの人数を見ても納得しなかったんだから」
「でも、それだけ九条が優秀だったってことじゃない?」
受付の女性に褒められ、九条澄香の表情が少し和らいだ。
(優秀、か)
自分の実力は、自分が一番よく理解している。
技術だけで比べれば、A組の新人たちには及ばない。
それなら、依頼人が自分を選んだ理由は、声質しか考えられなかった。
かつては声質を理由に落とされた。
それが今度は、同じ声質を理由に採用された。
(本当に、不思議なものね)
この状況を表す言葉は、幸運以外に見つからなかった。
「事務所からは、報酬の一部が前払いされるはずよ」
「そのときは、食事を奢るのを忘れないでね」
受付の女性は九条澄香へウインクすると、すぐに電話を取り、別の仕事へ戻っていった。
九条澄香は最後にもう一度、収録室のほうを振り返った。
それから会社をあとにする。
あとは、事務所から収録日程の連絡が来るのを待つだけだった。




