第50話 割引
土曜日。
SP社傘下の声優事務所では、同じビル内に設けられた収録スタジオの前に、数十人もの新人声優が列を作っていた。
九条澄香はガラス窓越しに大勢の競争相手を見つめ、緊張した面持ちを浮かべる。
「九条、これで前の借りは返したからね」
「B組には、あんただけしか知らせてない。せっかくの機会を掴めるかどうかは、自分次第よ」
受付の女性がそばへ寄り、小声で告げた。
SP社では、所属声優を明確にランク分けしている。
すでに実績のある声優は別として、新人であっても、まず一度選考を受けなければならない。
今日集まっている者たちは、事務所と短期契約を結んだ新人声優だった。
毎月、最低限の固定報酬が支給される代わりに、事務所から呼び出しがあれば、いつでも仕事へ駆けつける義務がある。
A契約を得られるのは、将来性が認められた者だけだ。
多くはまだ若く、声の幅が広いうえに、声優としての素質にも恵まれている。
一方、その選考から漏れた者の中には、それでも夢を諦めきれず、B契約を結ぶ者もいた。
いわゆるB組である。
九条澄香も、その一人だった。
事務所から仕事を受ける義務はないが、オーディションへ参加することはできる。
ただし、手数料はA契約の新人よりも高い。
一台詞千円の仕事でも、本人の手元に三百円残ればまだいいほうだった。
しかも、事務所はA組の新人へ優先的に仕事を回す。
それもまた、見込みの薄い者を自主的に諦めさせるための仕組みだった。
今日も依頼人が声優を選びに来ているというのに、事務所はB組の人間には一人も知らせていない。
「ありがとう」
「そういう挨拶はいいから。頑張って」
受付の女性は笑いかけ、早く待機列へ入るよう促した。
九条澄香は大きく息を吸い、人の列へ紛れ込んだ。
彼女は今年で二十七歳になる。
卒業後は、ずっと建築関係の仕事に就いていた。
しかしバブル崩壊の影響で職を失い、もともと貯金も多くなかったため、新たな収入源を求めて、さまざまな仕事へ手を出している。
声優を目指したのも、友人から話を聞き、試してみようと思ったのがきっかけだった。
二十七歳ともなれば、声質はすでに固まりつつある。
感情表現も得意とは言えなかった。
個人的に練習は続けているものの、若い新人たちと比べれば、演じられる役柄の幅はどうしても狭くなる。
それが、事務所からB契約しか提示されなかった理由だった。
無職のまま家にいる時間が長くなり、貯金も底をつきかけている。
(これで最後にしよう)
(今回も駄目だったら、もうほかに道はないし……夜の仕事にでも行くしかない)
九条澄香はそう考えながら、収録室の外で静かに順番を待った。
◇
「駄目。全然イメージが違うわ」
高城凌乃は眉を寄せ、また一人の新人を不採用にした。
隣に座る涼介も、ときおりペン先で机を叩きながら、困った顔をしている。
「正直、この事務所の新人は想像していたよりずっと上手い」
「そのせいで、こっちの要求まで妙に高くなってきたな」
「何よ、その言い方」
「声優なんて、最初は適当に決めるつもりだったの?」
凌乃が不満そうな視線を向けた。
「予算が足りなければ、ある程度は妥協するしかないだろ」
涼介は肩をすくめた。
声優には、それほど期待していなかったのだ。
一台詞千円という安さなのだから、多くを求めるほうがおかしい。
台詞に必要な感情さえ表現できれば、十分だと思っていた。
声質まで細かく選ぶつもりはなかったのである。
ところが、実際にオーディションを始めてみると、新人たちの技量は予想より遥かに高かった。
(また借りを作ったな)
どう考えても、早川静香が何かしら便宜を図ってくれたのだろう。
「外には、あと何人いる?」
「五人です」
午前中だけで、すでに四十人以上を審査していた。
その中で、涼介と凌乃の意見が一致したのは三度だけだ。
遠坂凛と間桐桜の声優は、すでに決まっている。
さらに凌乃の強い希望により、イリヤ役も一人選ばれていた。
その新人の声があまりにも役に合っており、ゲームの中で「お兄ちゃん」と呼ばれるのを聞きたいらしい。
(本当に金遣いが荒いな……)
イリヤは三人のヒロインに比べれば台詞数が少ない。
それでも、そんな理由だけで数十万円の追加出費が発生するのだ。
まだ決まっていないのは、メインヒロインであるアルトリアだけだった。
演技そのものが極端に難しい役ではない。
だが、声質にはかなり厳しい条件が求められる。
凌乃だけでなく、涼介自身も、これまで満足できる声には出会えていなかった。
「次の方をお願いします」
涼介がそう告げると、次の候補者が収録室へ入ってきた。
無精髭を生やし、暗い色のスーツを着た中年男性だった。
(待て……男?)
涼介の記憶が正しければ、今日は女性声優だけを希望すると、事前に事務所へ伝えていたはずだ。
「あの……」
「伊東さん、どうしてこちらに?」
オーディションを進行していた担当者が、突然、丁寧に頭を下げた。
その様子を見て、涼介も目の前の男が新人声優ではないと気づく。
(事務所の管理職か?)
「客に挨拶をしに来ただけだ」
伊東慎平は周囲へ軽く答えると、収録室の中へ入り、高城兄妹の隣へ腰を下ろした。
「初めまして、高城さん」
「星見静香のマネージャーを務めている、伊東慎平です」
「えっ? どうも、高城涼介です」
涼介は少し意外に思った。
アイドルのマネージャーが、自分へわざわざ会いに来る理由などあるのだろうか。
「驚きましたよ。高城さんが、これほど若いとは思いませんでした」
「もっとも、『No, Thank You!』のような曲を書く人なら、そこまで年を取っていないのも納得ですが」
「買いかぶりすぎです」
「あの曲は、星見さんが自由に自分の名前で発表して構わないと伝えています」
「著作権についてご心配なのでしたら、伊東さんがわざわざ足を運ぶ必要はありませんよ」
相手が曲の話題を出したことで、涼介は事情を察した。
権利関係に不安があり、直接確認しに来たのだろう。
「いえ、誤解です。ただ、念のため確認したかっただけですよ」
伊東慎平は笑った。
(やはり、この少年が書いた曲だったか)
そうそう偶然が重なるはずはない。
社会人として経験を積んだ伊東にとって、早川静香が口を閉ざしていても、少し探りを入れれば確かめられることだった。
目の前の少年も、曲を書いた事実を知られること自体は、それほど嫌がっていないらしい。
「事務所の者から聞きましたが、高城さんが声優を探しているのは、新作のギャルゲームへ音声をつけるためだとか」
「うちの看板声優を起用することは考えていませんか?」
アニメやゲーム分野を中心に事業を展開するSP社にとって、こうしたゲームは決して敬遠すべき仕事ではない。
近年は市場も成長しており、新規顧客の多くがその方面から生まれていた。
「予算が限られていますから」
「次の作品では、実績のある声優を使えるようになりたいですね」
「そうですか」
「金があれば、全編フルボイスにもしたかったんですが」
「それは残念ですね」
伊東慎平も、惜しそうな表情を浮かべた。
「ところで、高城さん」
「そこまで資金に困っているなら、楽曲提供の仕事を受ける気はありませんか?」
「楽曲提供ですか?」
「ええ。うちの会社では、継続して組める作曲家が不足しています」
「『No, Thank You!』と同程度の曲を提供していただけるなら、高額で買い取る用意があります」
(目的は、それだったのか)
さすがの涼介も、そこで気づいた。
「今のところ、そのつもりはありません。申し訳ありません」
涼介は迷うことなく断った。
一曲が評価されたからといって、ほかの曲まで同じように受け入れられるとは限らない。
涼介は日本の芸能界にも詳しくなかった。
記憶しており、口ずさめる曲も限られている。
その大半は、アニメやゲームに関係する楽曲だった。
今取り組んでいる小説や漫画、ゲーム制作とは違い、音楽が市場でどう評価されるか、涼介にはまったく予測できない。
わざわざ未知の分野へ時間を割く必要はなかった。
「そうですか。こちらこそ、突然失礼しました」
意外なことに、伊東慎平の顔には落胆の色がなかった。
「それでは、私はこれで」
それ以上粘ることもなく、涼介へ一言挨拶し、収録室から出ていった。
「何なの、あの人」
「わざわざ来て、あれこれ質問して、私たちの時間を無駄にしただけじゃない」
高城凌乃が小声で不満を漏らした。
「まあ、今回のオーディションでは向こうにも世話になってるからな」
「挨拶に来るくらいは普通だろ」
涼介は笑った。
今日の選考がここまで順調なのは、おそらく伊東慎平が話を通してくれたからだ。
大手と違い、小規模な芸能事務所では、マネージャーが比較的大きな権限を持っている。
伊東は、早川静香から涼介の存在を聞いていたのだろう。
「そういえば、あんたって曲も書けるの?」
高城凌乃が疑わしそうな目を向けた。
「普段、適当に口ずさんでいた曲を、友達が気に入ったから譲っただけだ」
「まさか、ここまで評価されるとは思わなかった」
「こうしてみると、俺には音楽の才能まであるのかもしれないな」
「何、その自信満々な言い方」
「たまたま上手くいっただけでしょう。感じ悪い」
高城凌乃はそれ以上追及せず、次の候補者を呼ぶよう担当者へ告げた。
涼介は内心で安堵する。
(危なかった)
妹が隣にいることを、すっかり忘れていた。
音楽の才能など、毎日一緒に暮らしてきた凌乃に知られれば、説明するのが難しい。
涼介は、家族の前で作曲の才能を見せたことなど一度もなかった。
ゲームのBGMについても、友人に協力してもらっていると説明している。
◇
伊東慎平は、わずかな未練を残しながら収録室を離れた。
「やっぱり、そう簡単にはいかないか」
すでに会社と契約している作曲家でさえ、扱いにくい者は多い。
ましてや、事務所に所属していない在野の作曲家なら、なおさらだった。
その場で少し考えたあと、伊東は受付へ向かった。
「伊東さん」
受付の女性がすぐに立ち上がる。
「あとで客へ、声優の料金を二割引きにすると伝えてくれ」
「値引き分は、事務所の取り分から差し引けばいい」
「それでも追加で探したいと言うなら、B組にも連絡を回せ。男女は問わない」
「えっ? でも、そういうことは事務所から正式に通知しないと……」
「問題ない。事務所には俺から話す」
「単価を少し下げるよう、交渉しておくよ」
「分かりました」
受付の女性が小走りで収録室へ向かう。
伊東慎平は、その後ろ姿を見送りながら顎を撫でた。
この程度の裁量なら、彼にもある。
新人声優の仕事を二割引きにするくらい、伊東が一言口を利けば済む話だ。
結局のところ、実行するかどうかは、彼がその気になるかどうかだけだった。
「俺の勘が外れていなければいいが」
「あの少年が持っている曲は、一曲だけじゃないはずだ」




