第5話 悔し涙
島川映画、漫画編集部の会議室。
高城凌乃は、焦った様子で会議用テーブルの片隅に座っていた。
その向かいには、眼鏡をかけた年上の女性が腰を下ろしている。
凌乃の担当編集者、伊織刹那だ。
持ち込みから契約、アニメ化まで、全部彼女が仕切ってきた。
「凌乃。どこでそんな話を聞いたのかは知らないけれど、私が周囲の反対を押し切って、あなたの持ち込んだ作品を採用したことは覚えているでしょう?」
伊織は諭すような口調で続ける。
「しかも、新人としては最高額の原稿料を提示した。
それはあなたも認めるわよね?」
「でも……伊織さん。
友達から、アニメ化されるような作品なら、作者にも著作権料が入るはずだって聞いたんです」
凌乃は迷いながら言葉を紡いだ。
「それに、新宿のデパートで『月の魔女』のぬいぐるみも見かけました……」
これまでずっと自分を指導してくれた編集者を、本当に疑ってもいいのか。
凌乃の心には、まだためらいがあった。
何より、彼女がそれなりの金額を稼げるようになったのは、伊織のおかげでもある。
これまでに得た報酬は、警察署の刑事として働く父・高城勇夫の年収すら上回っていた。
「そのお友達は、出版業界の人なの?」
伊織は凌乃の肩に手を回し、優しく語りかける。
「きっと業界のことを何も知らないのよ。
あなたは新人なんだから、これだけの待遇を受けられただけでも、十分に恵まれているの」
「同級生です。モデルのアルバイトをしていて、今日も一緒に来てくれました」
(なんだ、ただの部外者か)
伊織は内心で胸をなで下ろした。
(まったく……漫画ももうすぐ連載が終わるというのに、今さら文句を言いに来るなんて。
契約した以上、黙って最後まで描けばいいのよ。
やっぱり子供は面倒ね)
契約書には、はっきりと条件が記されている。
大人なら、もう決まったことだと諦めて描き続けるものだ。
「その子、あなたに嫉妬しているんじゃない?」
伊織は柔らかな笑みを浮かべたまま言った。
「だから意地の悪いことを言って、私たちの関係を壊そうとしているのよ」
「瑠璃はそんな子じゃありません!」
凌乃は突然声を張り上げ、不機嫌そうに伊織を睨んだ。
(やばい、地雷を踏んだか)
伊織の笑みが一瞬だけ固まる。
友達を悪く言っただけで、ここまで強く反発されるとは思っていなかった。
「瑠璃が私に嘘をつくはずない!」
凌乃は勢いのまま言い切った。
「契約を結び直してください、伊織さん。
今までの分はもういいです。
でも、これからは私にも本来受け取るべき著作権料を払ってください!」
精いっぱい強気な態度を取り、伊織を真正面から睨みつける。
「子供はこれだから嫌なのよ。
幼稚で、本当に面倒」
伊織刹那は鼻梁にかけていた眼鏡を外し、無造作にテーブルの上へ放った。
「誰が子供ですか!
私はもう高校生です!」
見下すような口調に、凌乃はますます腹を立てた。
(何よ。
もうすぐ高校生になるし、自分の力でこんなにお金も稼いだのに。それなのに、幼稚だなんて……!)
「うるさい!黙りなさい!」
伊織は会議用テーブルを強く叩いた。
大きな音が室内に響き渡り、さらに言い返そうとしていた凌乃の身体がびくりと震える。
「契約書に署名したのはあなたでしょう!
今さら簡単に変更できるわけがないじゃない!」
伊織の声は厳しく、その口元には薄い嘲笑さえ浮かんでいた。
「痛い目を見たなら、黙って受け入れなさい。
ここで騒いだところで、あなたのためにはならないわよ」
ここは日本だ。
業界に入り、自分の意思で契約を結んだ以上、その内容には法的な効力がある。
『月魔女変身』の権利は、すでに作者の手を離れていた。
未成年でも、訴えたところで結果は同じだ。
「あなた……!」
凌乃は悔しそうに歯を食いしばった。
肩にかかった金色の髪先が、怒りに合わせて小刻みに揺れる。
「やっぱり瑠璃の言ったとおりだった。
最初から私に買い取り契約を結ばせるつもりだったんですね」
「それがどうしたの?」
伊織は疲れたように息を吐いた。
「右も左も分からない新人が、あんな契約を結んでもらえただけでも感謝するべきでしょう。
少なくとも、この一年半、島川から十分な報酬を受け取ったじゃない」
もう子供のままごとに付き合うのも面倒だった。
「『月魔女変身』の残りをきちんと描き上げなさい。
そうすれば、編集部に掛け合って原稿料を少し上乗せしてあげるわ」
伊織は冷たく言い放つ。
「でも、契約の変更だけは諦めなさい。絶対に認めないわ」
「最低……!」
凌乃は、目の前の女性がこれまで見せてきた、頼れる姉のような姿を信じていた。
まさか、その正体がこんな人間だったとは思わなかった。
けれど、凌乃には何もできない。
瑠璃からは、相手が契約の変更に応じなかった場合、できるだけ自分の苦しい立場を訴え、同情を引いて、少しでも条件を良くしてもらうべきだと言われていた。
しかし、凌乃にはどうしてもできなかった。
偽善の仮面を脱ぎ捨て、牙を剥き出しにした女編集者へ頭を下げるなど、彼女のプライドが許さなかった。
会議室には、重苦しい沈黙が流れた。
怒りに震える凌乃とは対照的に、伊織刹那は余裕に満ちていた。
完全に自分の勝ちだと思っている。
(たまたま運よく、あれだけの作品を描けただけの小娘が、私に向かって偉そうに怒鳴るなんて。
今日はしっかり教育して、年上に対する態度というものを教えてあげないとね)
素直に頭を下げて謝罪するなら、慈悲を見せて原稿料を多少増やしてやってもいい。
何しろ、凌乃が何も分からず契約書へ署名してくれたおかげで、伊織は編集長から注目されるようになった。
映画部門の上層部にまで、その名前を覚えてもらえたのだ。
このまま漫画が無事に完結すれば、現在のアニメ人気から考えて、作品は長い間売れ続けるだろう。
その功績があれば、副編集長の座も確実なものになる。
膠着状態のまま、五分が過ぎた。
伊織は、凌乃の表情が興奮から怒りへ、怒りから悔しさへと変わっていくのを眺めていた。
やがて、その瞳に透明な涙が浮かび始める。
伊織はかわいそうだとは思わなかった。
むしろ、ひどく愉快だった。
(やっぱり私にかかれば、こんなものね。
子供の心なんて、簡単に折れるんだから)
相手が子供で助かったとも思っていた。
もし後先を考えない大人の新人作家なら、この場で突然連載を放り出す可能性もある。
そうなれば、伊織の立場が危うくなるところだった。
短い沈黙の末、凌乃はとうとう胸の奥にたまった悔しさを抑えきれなくなった。
大粒の涙が頬を伝う。
凌乃は何も言わずに立ち上がると、会議室の出口へ向かった。
「よく考えておきなさい、お嬢ちゃん」
背後から伊織の声が飛んでくる。
「次に会うときは、『月魔女変身』の残りの原稿を持ってきてくれることを期待しているわ」
立ち去る間際に聞こえた伊織刹那の笑い声は、鋭い刃物のように凌乃の胸をえぐった。
凌乃は逃げるように会議室を飛び出した。
◇
会議室の扉を勢いよく開けた凌乃は、うつむいたまま走り出した。
しかし、扉の前に誰かが立っているとは思っておらず、その胸へ思い切り頭をぶつけてしまう。
「痛っ……!」
相手が小さく苦痛の声を漏らした。
「ご、ごめんなさい」
凌乃は反射的に謝った。
頬には、まだ涙の跡が残っている。
顔を上げると、見覚えのある視線とぶつかった。
「よう。奇遇だな」
扉の前で待っていたのは、高城涼介と早川留美だった。
二人はしばらく前から、会議室の中のやり取りを聞いていた。
涼介はぶつけられた胸元をさすりながら、義理の妹の頭は鉄でできているのではないかと思った。
「なんで、あんたがここにいるのよ!」
凌乃は慌てて涙を拭い、涼介を憎々しげに睨みつけた。
涼介が答えるより先に、彼女は足早にエレベーターホールへ向かう。
金色の髪先が涼介の横をなびき、ほのかな香りを残した。
(最悪……よりによって、一番見られたくないやつに見られるなんて)
考えれば考えるほど悔しくなり、凌乃の目から再び涙があふれてくる。
エレベーターの扉が閉まるまで、涼介はその泣き顔を黙って見つめていた。
「ひどすぎます……あんなふうに、女の子を追い詰めるなんて」
早川留美は複雑な表情を浮かべていた。
同じ会社の人間として、恥ずかしさすら感じているようだった。
「そうですね」
涼介は静かに答えた。
「少し、腹が立ちました」
その淡々とした声に、留美は興味を引かれたように顔を向ける。
「時雨沢先生のお知り合いなんですか?」
先ほどの凌乃の反応を見る限り、二人が知り合いであることは間違いない。
(同級生かしら?)
留美がそう考えていると、涼介が口を開いた。
「僕とあの子は、どちらも『高城』という名字です」
「えっ?」
留美が意味を理解するより早く、涼介は会議室の扉を押し開けた。
ちょうど、中では伊織刹那が書類をまとめ、外へ出ようとしていたところだった。
「あなたたち、誰?」
伊織は不機嫌そうに眉をひそめた。
「誰の許可を得て、勝手に会議室へ入ってきたの?
新人なら、少しは社内の礼儀を覚えなさい」
鋭い言葉が容赦なく飛んでくる。
早川留美は気まずそうな顔をした。
反射的に頭を下げて謝りそうになる。
相手は漫画編集部の担当編集者であり、近いうちに副編集長へ昇進することが、ほぼ確実視されている人物だ。
留美のような新人なら、たとえ部署が違っても、顔を合わせれば自分から挨拶しなければならない立場だった。
しかし、先ほど会議室から聞こえてきたやり取りを思い返すと、どうしても素直に頭を下げる気にはなれない。
留美は迷ったまま、挨拶を口にできずにいた。
一方、高城涼介は薄く笑うと、伊織の前まで歩み寄り、右手を差し出した。
「初めまして」
涼介は穏やかな口調で名乗る。
「高城涼介と申します。高城凌乃の兄です」




