第48話 貧乏人
「予算が足りないんだから仕方ないだろ。それに、ただの体験版だ。ああいうところで終わるのは普通じゃないか?」
涼介は小さく笑った。
「あんた、絶対にわざとでしょう?」
高城凌乃はまったく信じていなかった。
もう少し前で区切ることもできたはずなのに、物語がまさに盛り上がろうとした瞬間に終わらせている。
明らかに意図的な引きだった。
悔しいが、完全に続きが気になってしまっている。
これまで数え切れないほどギャルゲームを遊んできたが、ここまで物語と設定が作り込まれた作品は初めてだった。
これから完成まで、どうやって待てばいいというのか。
これほどの作品を体験したあとで、出来の悪いゲームへ戻ったところで、もう物語に入り込めないかもしれない。
「完成まで、あとどれくらいかかるの?」
「そうだな。四、五か月くらいか」
「夏のM展で販売するつもりだ」
「そんなにかかるの!?」
高城凌乃は不満そうに声を上げた。
「それでも十分に早いほうだ」
「ところで、この作品に何か足りないと思った部分はあるか?」
涼介は、凌乃がパソコンからディスクを取り出し、傷つけないよう慎重にケースへ戻すのを見ながら尋ねた。
「無理に挙げるなら、ヒロインに声がないことね」
高城凌乃は質の高いギャルゲームも数多く遊んでいる。
現在、一流と呼ばれる作品の多くは音声を採用していた。
特に恋愛シミュレーション系では、ヒロインの甘い声や吐息が作品の魅力を大きく引き上げる。
あの『尾○行』ですら、音声には力を入れていたほどだ。
「だったら、出資するか?」
「えっ?」
「俺には、そこまで回せる予算がない」
「お前が金を貸してくれるなら、ヒロインの声優を選ぶとき、お前の意見も参考にしてやる」
涼介の言葉は、悪魔の囁きのように少女の耳へ入り込んだ。
高城凌乃は、思わず心を動かされる。
セイバーが登場した瞬間を思い返した。
あの威風堂々とした台詞に声までつけば、全身が震えるほど興奮するに違いない。
「いくら……借りたいの?」
少女は迷いながら尋ねた。
「お前、いくら持ってるんだ?」
「たぶん、六百万から七百万円くらい」
予想していたよりも多い。
涼介は少し驚いた。
十四歳の中学生が、手元に六、七百万円もの大金を持っているのだ。
だが、よく考えれば不思議なことではない。
もし『月魔女変身』の権利を奪われていなければ、今頃は口座の残高が五千万円近くになっていたかもしれない。
しかも、収入はその後も増え続ける。
何もしなくても、高校を卒業する頃には一億円ほどの貯金があってもおかしくなかった。
「必要なら、全部使ってもいいわよ」
「今は、お金を使うようなこともないし」
高城凌乃は金銭にあまり執着していなかった。
最近はずっと原稿に追われており、買い物へ出かけることもほとんどない。
インターネット通販が普及していない時代では、外出しなければ金を使う機会も少なかった。
「そうか。それなら、ありがたく借りる」
これでかなり助かる。
涼介は説得に時間がかかると考えていたが、まさか妹のほうからあっさり貸すと言ってくれるとは思わなかった。
「何よ。ただ貸すだけだからね」
「返さなくていいなんて、一言も言ってないんだから」
高城凌乃は照れ隠しのように鼻を鳴らした。
そのまま作業机へ向かい、椅子に座っていた涼介を追い払う。
「あんたはソファでシナリオを書けばいいでしょう」
「机は私が使うから。早くキャラクター設定を完成させて」
「このゲーム、少しでも早く完成させたいの!」
「資金が用意できれば、制作速度も上がる。安心しろ」
涼介はそう約束した。
「完成版を最初に遊ぶのは私だからね!」
「もちろんだ」
◇
凌乃から資金提供を受けたことで、涼介の手元には一気に余裕が生まれた。
大まかに見積もれば、使える資金は六百七十万円ほどになる。
これほど潤沢な予算で制作に臨むのは初めてだった。
もっとも、きちんと計算して使わなければ、この程度の金額など瞬く間になくなってしまう。
『Fate/stay night』で必要となる原画は、立ち絵を除いて合計五百枚前後。
すでに完成している分を差し引いても、まだ四百枚以上が残っている。
デジタル化費用として、少なくとも二百五十万円は確保しておかなければならない。
さらにBGM制作へ三百万円を回せば、自由に使える金は百二十万円ほどしか残らない。
ただし、今後も収入は入ってくる。
「『キノの旅』の次の原稿料と印税、それに『カードキャプターさくら』の収入が入れば、三人のヒロインに声をつけられるかもしれないな」
涼介の見立てでは、『キノの旅』第三巻の雑誌連載がすべて終了すれば、単行本化も時間の問題だ。
そのときには、さらに印税収入が入る。
「声優の選考は、その頃に考えればいいか」
考えを整理すると、今もっとも優先すべきことはシナリオの完成だった。
声優の収録も、原画の制作も、すべてはテキストが完成していなければ始められない。
◇
体験版が完成してから、瞬く間に二か月が過ぎた。
涼介は学校へ通う以外、ほとんど外へ出ず、昼夜を問わず部屋へ籠もっていた。
最初に優先したのは、キャラクター設定資料の完成だ。
半月ほどで大まかな内容をまとめて凌乃へ渡し、並行して原画制作を始めてもらった。
その間にも、いくつか大きな出来事があった。
『カードキャプターさくら』が島川の連載会議を通過し、正式に雑誌での連載を開始したのだ。
斎藤律の話では、読者からの反応もかなりよく、人気は急速に伸びているらしい。
「この作品には、高城留美子先生の読者がかなり流れてきています」
「ひょっとすると、『月魔女変身』が連載されていた頃の人気を超えるかもしれません」
「それから、単行本化の企画も動き始めました。すでに申請は提出しています」
「作品としての将来性は非常に高いです。三か月ほど連載を続ければ、十分に単行本化できると思います」
電話の向こうで、斎藤律はかなり興奮していた。
経験を積んだ編集者である彼には、この作品が大きく売れる未来がすでに見えているのだろう。
今年、自分が担当する作品の中でも最大のヒットになる可能性が高く、相当な力を入れているようだった。
「年内にアニメ化する可能性はありますか?」
「もちろんです」
「単行本の売上が好調なら、半年以内にアニメ化企画を提出します」
「ただ、現時点では連載話数が少なく、テレビシリーズ一本分の内容がまだ足りません」
涼介にとっては朗報だった。
『カードキャプターさくら』がアニメ化されれば、得られる利益は莫大なものになる。
少なくともギャルゲームを一本制作する程度で、資金に悩まされることはなくなるだろう。
ただし残念ながら、時期的に『Fate/stay night』の制作には間に合わない可能性が高い。
それでも計算してみれば、現在の資金だけでも、どうにか完成までは持ちこたえられそうだった。
『キノの旅』第三巻も単行本化が決まり、内容量が多いため上下巻に分けて発売される予定だ。
月末には、まとまった印税が入ることになっている。
二か月間で収入を積み上げた結果、涼介が自由に使える現金は三百五十万円ほどまで回復していた。
そのうち『カードキャプターさくら』の原稿料が百六十万円と、もっとも大きな割合を占めている。
これは、凌乃へ渡すべき半分を差し引いたあとの金額だった。
そして、涼介のシナリオ制作も、ようやく終わりが見えてきた。
「再現するだけでも、これだけ大変なのか」
「原作者の奈須きのこは、やっぱりすごい才能だな」
涼介は思わず感嘆した。
記憶にある世界で、Fateシリーズは極めて大きな存在となっていた。
同人界が生んだ奇跡と呼んでも過言ではない。
その膨大なテキスト量には、涼介も何度となく頭を抱えさせられた。
それでも、どうにか予定どおり完成させることができた。
凌乃の原画はまだすべて揃っていないが、こちらも仕上げの段階に入っている。
来月半ばには、すべて納品できる見込みだった。
『カードキャプターさくら』の連載を一度も休まず続けながらの速度としては、驚異的だ。
もっとも、凌乃は涼介のように自宅だけで作業することはできず、原稿を描くには専門の道具が必要だった。
「あんた、本当に遅いわね」
夜の補習中、高城凌乃は不満そうに口を尖らせた。
「二か月で完成させるって言ってたでしょう?」
「シナリオはもう終わったの? そろそろ声優を選ぶ時期じゃない?」
涼介は困ったように息を吐いた。
妹は『Fate/stay night』の体験版を遊んで以来、すっかり制作進行役になってしまった。
数日おきに、必ず進捗を確認しに来る。
「だいたい完成した」
「声優については、知り合いに一度相談してみる必要がある」
「順調にいけば、今週末には話を進められると思う」
「私はいつでもいいわ!」
金髪の少女は、瞬く間に目を輝かせた。
「それと、松井菜々子さんに頼めないか聞いてみたいんだけど」
「松井菜々子?」
涼介の記憶が正しければ、その名前は『月魔女変身』のアニメ版のエンドクレジットで見た覚えがある。
かなり経験を積んだ声優だったはずだ。
「無理に決まってるだろ。そんな予算はない」
冗談ではない。
一台詞千円という相場は、あくまで新人声優を起用した場合だ。
知名度のある声優へ依頼すれば、今の資金など簡単に底をつく。
「何よ。私の意見も参考にするって言ったじゃない」
「この貧乏人!」
「……」
涼介は、不意に胸へ深く突き刺さるものを感じた。
本気で腹が立った。




