第44話 尾行者
早川静香と涼介が待ち合わせた場所は、新宿にある雑居ビルだった。
そこには、小さな映像制作会社の事務所が入っているらしい。
涼介がビルの前へ到着すると、早川静香はすでにそこで待っていた。
「おはよう、高城君」
今日のアイドル志望の少女は、念入りに身なりを整えていた。
青みを帯びた黒いプリーツスカートが冬の冷たい風に揺れる。
静香は額にかかった髪を耳へかけ、涼介へ笑顔を向けた。
「おはようございます」
涼介も礼儀正しく挨拶を返す。
その頃、少し離れた電柱の陰では、高城凌乃が二人の姿をじっと見つめていた。
自分の兄が見知らぬ少女と一緒に、ビルの中へ入っていく。
「何よ。やっぱり、別の女の子と約束してたんじゃない」
金髪の少女は頬を膨らませ、不満そうに眉を寄せた。
「新しいゲームの打ち合わせだって言ってたくせに」
「あの子、どう見てもプログラムを書くような人には見えないじゃない」
「嘘つき!」
二人がビルへ入ったあと、凌乃も続こうとした。
しかし、入口にはオートロックが設置されており、中へ入ることができない。
仕方なく、凌乃は出口を見張れる近くの喫茶店へ入った。
「出てきたところを、絶対に捕まえてやるんだから!」
◇
高城涼介は早川静香に案内され、映像制作会社の中へ入った。
受付にいたのは、白く染めた髪の青年だった。
年齢は三十歳前後だろう。
かなり整った顔立ちをしているが、仕草や表情にはどこか中性的な雰囲気があった。
「珍しいねえ。静香ちゃんが男の子をここへ連れてくるなんて」
「しかも、ずいぶん可愛い顔をしてるじゃない」
顔を合わせるなり、白髪の青年は興味深そうにカウンターへ身を乗り出し、涼介を眺め始めた。
その言葉に、早川静香の頬が赤くなる。
「工藤さん、変なことを言わないでください!」
「ただの友達です。あの三曲を頼んできたのが、この人なんです」
静香は慌てて説明した。
その途中、こっそり涼介の顔を窺う。
しかし、彼がまったく反応を見せなかったため、なぜか胸の奥に小さな落胆が広がった。
その様子を見た工藤は面白そうに笑ったが、それ以上少女をからかうことはしなかった。
カウンターの奥から外へ出てくる。
「なるほど。じゃあ、お客さんってことか」
「曲はもう完成してるよ。まずは聞いてみる?」
「お願いします」
涼介は工藤と少し距離を取った。
この工藤という男は、おそらく男性が恋愛対象なのだろう。
それ自体に偏見はないが、初対面では念のため距離を保っておいたほうがいい。
余計な誤解を招きたくはなかった。
事務所の奥には、音声編集用の小部屋があった。
室内は狭く、置かれているのは一台のパソコンとディスクの書き込み機器、スピーカーなどだ。
三人から五人ほど入れば、ほとんど余裕はなくなるだろう。
工藤はパソコンの前へ座り、完成済みのディスクを挿入した。
マウスを操作すると、スピーカーから音楽が流れ始める。
涼介の記憶にある、懐かしい旋律だった。
三曲を通して聞く。
当時の技術的な制約による小さな粗はあるものの、ゲームで使用するぶんにはまったく問題ない仕上がりだ。
「十分に使えます。お二人とも、ありがとうございました」
涼介は工藤からケース入りのディスクを受け取り、内心で安堵した。
体験版の制作を、これ以上遅らせるわけにはいかない。
ここで時間を失えば、本当に予定へ間に合わなくなる。
幸い、音楽制作は驚くほど順調に進んだ。
「僕に礼はいらないよ」
「それより、静香ちゃんへたっぷり感謝してあげて」
「この子、五日間も続けてここへ来て、ずっと録音室へ籠もってたんだから」
「男の子のために、ここまで一生懸命になる静香ちゃんなんて初めて見たよ」
工藤は口元へ手を添え、楽しそうに笑った。
「それと、君が書いてあげた曲」
「静香ちゃん、あれもすごく大事にしてるよ。録音室で何度も練習してた」
「少年、なかなかやるじゃない」
「工藤さん、余計なことを言わないでください!」
早川静香は恥ずかしさに耐えきれない様子だった。
この工藤という人物は、事務所で親しくしていた先輩から紹介してもらった相手だ。
料金が安く、性格も優しいと聞いていた。
実際、その通りではある。
ただし、少々おしゃべりすぎた。
「工藤さんの言うとおりです」
「改めて、きちんとお礼を言わせてください。早川さん」
涼介の表情が真剣なものへ変わった。
アイドルの時間には価値がある。
それなのに、静香が提示した金額は一曲三十万円。
それだけでも彼女にはほとんど利益がないはずだ。
さらに一週間もかけて三曲を完成させてくれた。
これは、きちんと感謝すべきことだった。
「気にしないで」
「高城君がくれた曲、私、本当に好きだから」
「そのお礼だと思えば、これくらい当然だよ」
早川静香は首を横に振った。
心の中では、工藤に余計なことを暴露された恥ずかしさでいっぱいだった。
「あの曲のことなら、そんなに気にしなくて大丈夫です」
涼介は、優れた楽曲がアイドルにとって非常に大きな価値を持つことを理解している。
それでも、静香に重い恩を感じさせるつもりはなかった。
そもそも『No, Thank You!』を渡した理由は、制作費の一部へ充てるためだ。
最初から取引の一環であり、恩返しと呼ぶようなものではない。
「では、俺はこれで失礼します」
涼介は挨拶をすると、帰ろうとした。
「おや、少年。もう帰るの?」
「静香ちゃんは、このあと歌の録音をするんだよ。少し聞いていかない?」
工藤から誘われたものの、涼介は首を横に振った。
「このあと別の用事があるので。また今度にします」
早川静香は何も言わず、ただ涼介の背中を見送った。
「静香ちゃん、今の君はかなり危ないよ」
「何を言ってるんですか、工藤さん」
「もう少し素直にならないと、あの子はどこかへ行っちゃうよ?」
「……先に録音を始めましょう」
◇
映像制作会社を出た涼介は、時間を確認した。
すでに午前十一時近い。
方向を確かめると、そのまま徒歩で秋葉原へ向かった。
普段、週末になると鳳凰院は電気街でアルバイトをしている。
今日の待ち合わせ場所は、彼女が勤務するL-P専門店の近くにあるファストフード店だった。
ちょうど昼休みを利用して会う予定だ。
◇
「何よ。あの綺麗な女の子、一緒に出てこないの?」
高城凌乃はずっと出口を見張っていた。
涼介が一人で出てきたため、驚いたように目を瞬かせる。
これでは、せっかくの現場を押さえる計画が、始まる前に終わってしまう。
凌乃は慌てて喫茶店を出ると、再び涼介のあとを追った。
一定の距離を空け、こそこそと歩いていく。
その不審な姿に、周囲の通行人が何度も視線を向けていた。
しかし、本人はまったく気づいていない。
ただ涼介を見失わないよう、一歩ずつ後を追っていた。
しばらくすると、高城凌乃は兄の歩く速度が上がっていることに気づいた。
自分も急いで足を動かす。
「何なのよ。どうしてあんなに速く歩くの?」
金髪の少女は、すでに少し息を切らしていた。
もともと体力には自信がない。
そのうえ、常に涼介の背中へ意識を向けていなければ、人混みの中で簡単に見失ってしまう。
曲がり角へ差しかかったとき、完全に姿が見えなくなることを恐れ、凌乃は小走りになった。
◇
涼介が秋葉原へ到着した頃には、すでに正午近くになっていた。
約束したファストフード店の席へ座り、一人で鳳凰院を待つ。
頬杖をついて窓の外を眺めながら、手の中では丸いレーダーのような機器を弄んでいた。
そこから二列ほど離れた席では、高城凌乃が頭を低くしていた。
兄に見つからないよう、座席の陰へ縮こまりながら様子を窺っている。
「ふん。さすが私ね」
「ここまでついてきても、まったく気づいてないじゃない」
「もしかして、私って尾行の天才なんじゃない?」
高城凌乃は、思わず得意げな表情を浮かべた。
そのまま席で待っていると、十数分後、ファストフード店の扉が開いた。
仕事用のスーツを身につけた鳳凰院が入ってくる。
凌乃は一目見た瞬間、その女こそ待ち合わせ相手だと確信した。
ほかに理由はない。
高城涼介が好むのは、きっとこういう格好をした女だと思ったからだ。
そして実際、鳳凰院は涼介の向かい側へ座った。
「それにしても、あの女……背が高すぎない?」
凌乃は警戒するように目を細めた。
二列離れているにもかかわらず、ボックス席の背もたれ越しに鳳凰院の顔が見えている。
日本人女性なら、身長が百七十センチを超えれば十分に高身長と呼べる。
そのうえ鳳凰院はハイヒールを履いているため、実際よりさらに大きく見えた。
「久しぶりね、時雨沢」
「今日はお友達も連れてきたの?」
鳳凰院は席へ座るなり、凌乃のいる後方へ視線を向けた。
目が楽しそうに弧を描いている。
(この女、何を言ってるの?)
(あいつは一人で来たじゃない。友達なんてどこにいるのよ)
(それに、時雨沢って誰のこと?)
高城凌乃が疑問を抱いた、そのときだった。
前の席にいた涼介が立ち上がる。
そのまま振り返り、ボックス席の背もたれへ片手を置いた。
視線が正面からぶつかる。
「こっちへ来い」
涼介は呆れたように妹へ手招きし、隣へ座るよう促した。




