第43話
転校先を自由に選べるほど優秀な成績を持つアイドル志望の少女とは違い、高城家の末娘は勉強でかなり苦戦していた。
一週間続けて補習を行ったあと、涼介は再び問題の難易度を引き上げた。
第二段階から、第三段階へ。
「何よこれ! こんなの誰が解けるのよ!?」
高城凌乃は椅子の背もたれへ力なく倒れ込んだ。
その隣で、涼介は当然だと言わんばかりの顔をしている。
「授業中にちゃんと話を聞いていないからだろ」
「中学三年生の範囲でしかない。今までの解き方をきちんと使えば、時間はかかっても絶対に解ける」
「本当に嫌なやつ」
「お互いさまだ」
部屋の中では、涼介がいつものように壁へ背を預け、畳の上へ座っていた。
一方、金髪の少女は机に向かい、相変わらず難しい顔で問題集と睨み合っている。
教える側として、涼介は妹の変化を少し嬉しく思っていた。
口では今も嫌がっているが、勉強すること自体はすでに習慣になりつつある。
一目見ただけでは解き方が分からない問題にぶつかっても、すぐには投げ出さず、自分なりに考え続けるようになった。
この調子なら、進学に必要な学力まで引き上げることは十分に可能だろう。
「土曜日は東京へ行く。補習は一日休みだ」
凌乃の解答を確認し、今日の勉強を終えたところで、涼介は先に予定を伝えておいた。
帰宅を待たせないためだ。
「何よ。毎日みたいに外へ出て」
「今週だけでも二回目じゃない。少しは私の勉強にも責任を持ちなさいよ」
凌乃は露骨に不満そうな顔をした。
もちろん、嫉妬しているなどとは絶対に認めない。
涼介と違って、自分は週末以外の日に遊びへ出ることなど許されていないのだ。
「遊びじゃなくて用事だ」
「ゲームの原画も音楽も、だいたい完成した。そろそろ次の段階へ進めないといけない」
涼介は肩をすくめた。
隠すようなことでもない。
「私も行く!」
ギャルゲームの制作に関する話だと聞いた途端、凌乃は目を輝かせた。
「駄目だ」
涼介は考える間もなく断った。
冗談ではない。
会いに行く相手は鳳凰院だ。
妹の目の前で、あの女にからかわれるような事態だけは避けたかった。
「私だって制作に関わってるのよ! 原画担当なんだから!」
「駄目なものは駄目だ」
「それより、『カードキャプターさくら』はもうすぐ連載開始だろ。俺が渡したネームは全部描き終わったのか?」
「余計なお世話よ。締め切りに間に合わなくなることなんて絶対にないから」
凌乃は得意げに腕を組んだ。
作画速度に関してだけは、まったく不安がない。
しかし、そこまで言っても涼介は許可しなかった。
「あんた、まさかついでにデートでもするんじゃないでしょうね?」
「お前に関係あるか?」
「なっ……!」
「ふん!」
自分の言葉をそのまま返され、腹を立てた高城凌乃は、すぐに涼介を部屋から追い出した。
「行かないわよ! 誰が行きたがるもんですか!」
扉を閉めた凌乃の顔には、納得できないという感情がそのまま表れていた。
自分だって原画担当なのだ。
ゲーム制作の打ち合わせへ参加して、何が悪いのか。
子供扱いしているのだろうか。
本当に腹が立つ。
大嫌いな相手が部屋を出ていくと、凌乃は机へ戻り、パソコンの電源を入れた。
DVD-ROMドライブへ一枚のディスクを差し込む。
夜の時間は、自分だけのものだ。
今夜遊ぶ新作は――『尾○行』。
「何よ、この絵」
「私の原画と比べたら、ずいぶん安っぽいじゃない」
そう文句を言いながらも、凌乃は我慢してゲームを始めた。
「ちっ、ストーカーが題材なの?」
ゲームに対する許容範囲は広いほうだが、この題材には久しぶりに嫌悪感を覚えた。
どうやら、女性を尾行することを売りにした作品らしい。
少し試してみると、凌乃は簡単にステージを突破し、標的となった女性へ接触するところまで進んだ。
「簡単すぎて退屈ね。結局、肌を見せるだけのゲーム?」
「こんなの、下水にでも捨てたほうがいいわ」
画面に表示されたCGを見ても、凌乃の顔には感心した様子などなかった。
「作った人、本当に気持ち悪い」
「どうしたらこんな遊び方を思いつくのよ。現実でやったら、警察へ突き出されるに決まってるじゃない」
ゲーム内で追われる女性の立場を想像すると、背筋に寒気が走った。
凌乃はそのままゲームを終了する。
高城凌乃は肉感的な絵柄を好んでおり、刺激の強い画風の作品なら一度は試してみる。
だが、今夜のゲームの内容だけは到底受け入れられなかった。
ディスクを取り出すと、凌乃はためらいなく真っ二つに折り、ケースへ押し込んだ。
「こんなの、二度と遊ぶ価値もないわ」
それを終えた直後、机の上に置かれた目覚まし時計が震えた。
針はすでに十一時を指している。
以前の凌乃なら、この時間からが本当の夜更かしの始まりだった。
しかし、涼介から「夜更かしをすると老けるのが早くなる」と言われて以来、必ず寝る時間を決めている。
あの男の言うことも、ある意味では正しい。
凌乃はベッドへ横になった。
だが、まだ眠気はない。
白い天井を見つめていると、先ほど遊んだゲームの内容ばかりが頭に浮かんでくる。
「尾行、ね……」
「……あれ?」
凌乃は突然、ベッドから身体を起こした。
瞳がきらきらと輝き、口元には悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「連れていってくれないなら、勝手についていけばいいじゃない!」
「……ちっ」
思いついた瞬間は興奮したものの、すぐに問題に気づいた。
凌乃の顔には、わずかな気まずさが浮かぶ。
人をつけ回すなど、あまり褒められた行為ではない。
父親に知られれば、きっと厳しく叱られるだろう。
「もういいわ。全部あいつが悪いんだから」
「私に隠れて何をしようとしてるのか、見届けてやる!」
凌乃は布団を頭から被り、明日の服装と尾行経路を密かに考え始めた。
◇
翌朝。
涼介は母親の美恵子へ一声かけ、千葉駅へ向かうため家を出た。
今日はそれほど予定が詰まっていない。
急ぐ必要もなかったため、歩く速度はいつもより少し遅かった。
早川静香からは、すでにBGMが完成したという連絡が届いている。
携帯電話のスピーカー越しに簡単に聞かせてもらったが、十分に納品できる仕上がりだった。
まずは静香と会い、そのあとで鳳凰院のもとへ向かう。
現在、手元に残っている現金は十万円ほどしかない。
原画のデジタル化費用についても、今の枚数なら二十万円前後は必要になるだろう。
「『キノの旅』の印税と原稿料が、月末には数十万円入るはずだ」
「『カードキャプターさくら』の原稿料も合わせれば、百万円は超えるか」
鳳凰院とも、すでに相談は済ませている。
彼女は体験版を完成させるための費用を一部立て替えてくれることになっていた。
次の収入が入り次第、返済すればいい。
「本当に金がかかるな」
「このまま計算すると、ゲーム一本の制作費は一千万円を超えそうだ」
まだ大量のBGM制作と、原画のデジタル化が残っている。
鳳凰院と凌乃が制作へ参加してくれていなければ、今の涼介には到底負担できない金額になっていただろう。
「まあ、今から考えても仕方ないか」
「まずは体験版を完成させてからだな」
涼介は長く息を吐き、千葉駅前まで歩いてきた。
「そういえば、さっきから後ろに誰かいるような……」
突然振り返る。
しかし、そこには誰の姿もなかった。
「気のせいか?」
涼介は深く考えず、そのまま駅構内へ入っていった。
◇
「危なかった……もう少しで見つかるところだったわ」
金髪の少女は黒い帽子とマスクを身につけ、大きなサングラスで目元を隠していた。
以前、即売会へ出かけたときと、ほとんど同じ格好だ。
高城凌乃は壁の陰へ身を潜めている。
少しだけ顔を覗かせ、涼介が駅へ入ったことを確認してから、ようやく安堵の息を吐いた。
そしてすぐに足を速め、そのあとを追って駅へ入っていった。




