第42話 No,Thank you
どの時代であっても、優れた一曲には相応の金銭的価値がある。
早川静香にとって、もし自分のために曲を書いてくれる者が現れれば、この道を進むうえで大きな助けになるはずだった。
しかし、これまで事務所では一度もそんな機会に恵まれていない。
自分より先に活動している先輩が大勢いる以上、どう考えても静香まで順番が回ってくるはずがなかった。
何しろ、早川家の家風には「媚びへつらう」という言葉が存在しない。
マネージャーの言いなりになり、人には言えないような仕事を引き受ければ、多少の機会は得られたかもしれない。
だが、静香はそうしたやり方を生理的に受けつけなかった。
涼介が提案した曲の出来が本当に優れているのなら、もちろん喜んで受け入れるつもりだ。
(でも、そんな可能性は低すぎるよね)
自分と同じ年頃で、しかもただの学生に、どんな歌が作れるというのだろう。
とはいえ、静香はすぐに返事をしなかった。
曲を受け取る代わりに、制作費をどの程度上げてもらうべきか考えていたのだ。
「曲名は『No, Thank You!』。たぶん、あなたに合うと思います」
静香が拒否しなかったため、涼介はそのまま話を続けた。
「まさか、その曲も譜面がないの?」
「もちろんありません。俺が歌って伝えます」
「ただ、歌唱力にはあまり期待しないでください」
涼介自身、ポップスに詳しいわけではない。
前世でも、それほど多くの曲を聴いてきたわけではなかった。
今回選んだのも、アニメ『けいおん!!』に登場する一曲だ。
本来発表される時代とは二十年近い差がある。
この時代の静香に受け入れられるかどうか、涼介にも確信はなかった。
涼介は軽く咳払いをし、歌い始めようとする
(嘘でしょ? 本当にここで歌うつもりなの?)
早川静香は思わず顔を覆った。
止めようと口を開きかけたところで、涼介が前奏を口ずさみ始める。
「ティン、ティン、ティン……ティン……ティティン……ティティティン……」
(何これ。声で楽器を再現してるの?)
(三角鉄のつもり……?)
あまりにも独特な前奏に、早川静香は危うく吹き出しかけた。
本人が言っていたとおり、涼介の歌は決して上手くない。
そもそも、普通なら楽器の音まで口で再現しようとは思わないだろう。
旋律さえ分かれば、曲の良し悪しは判断できるのだから。
それでも静香は、途中で止めようとはしなかった。
前奏のリズムが、思いのほか耳に残ったからだ。
てっきり静かなバラードだと思い、涼介の鼻歌から旋律を拾おうとしていた。
ところが次の瞬間、曲調が一変する。
「ヴォンヴォンヴォンヴォン……ダンダンダン……ダンダンダン……」
(えっ、ロック?)
唸るような声はエレキギターで、低く刻む音はドラムを表現しているのだろうか。
早川静香は、それまでの印象から一気に引き離された。
涼介のテンポは急激に速まり、力強いリズムが現れる。
「白いボードを囲みながら、心のままに自由な願いを描いていく」
「放課後の鐘が夕焼けの中へ響いても、夢を追うこの勇気だけは、誰にも軽く見せたりしない」
(待って、待って……!)
(青春がテーマなの? しかもロック?)
「もっと、もっと、もっと――声を上げて歌おう!」
「唇に希望を乗せて!」
早川静香の全身に鳥肌が立った。
(何なの、この歌詞……)
(本当に私のために書いた曲なの?)
複雑な眼差しで、高城涼介を見つめる。
夢を追いかけ、声を上げて歌う。
それこそが、静香が学業を捨てて事務所へ入り、アイドルになろうとした理由だった。
わずか数行の歌詞だけで、強烈な共感が胸へ押し寄せる。
喉の奥が詰まったようになり、続きを聞きたいという思いが強くなっていった。
「歌葉が声となって放たれるたび、眩しい光へ変わっていく」
(来る……もうすぐ……!)
歌詞と旋律が重なり合い、曲は一気に最高潮へ駆け上がる。
「それは、私たちの夢がこぼした雫!」
長く引き伸ばされた最後の音に、早川静香は椅子へ座っていられなくなりそうだった。
その瞳には、眩しい光が宿っている。
「無理に綺麗な思い出を作る必要なんてない」
「今この瞬間を照らす光こそ、私が愛しているものだから」
「会議に身を沈めるなんて、大人だけに許された甘い贅沢」
「今の私には、まだ早すぎる」
歌は唐突に終わった。
しかし早川静香の意識は、まだ曲の中へ取り残されていた。
激しい鼓動が胸を満たし、掻き立てられた感情の行き場が見つからない。
(そうだ。まだ諦めるときじゃない)
ステージ上で観客へ暴言を吐き、事務所から干された。
契約が終われば、学校へ戻って学業を再開する。
それはつまり、夢を諦めるということだ。
そもそも静香が千葉県まで来たのは、まだ諦めたくなかったからではないのか。
自分はアイドルになりたい。
光に包まれた舞台へ立ち、すべての人に自分を見てもらいたい。
それは自分の夢であり、心から愛しているものだった。
少女は席に座ったまま動けず、俯いた。
「どうしました? 気に入りませんでしたか?」
何の反応も返ってこないため、涼介は少し落胆した。
曲を報酬に含める案を受け入れてもらえないのなら、凌乃に金を借りる必要が出てくるかもしれない。
短期間で資金不足を補う手段は、ほかに思いつかなかった。
「ち、違うの」
早川静香は慌てて顔を上げた。
いつも輝いている瞳が、今はわずかに赤くなっている。
「高城君、本当に音楽を習ったことがないの?」
「こんな曲、簡単に作れるようなものじゃないよ」
静香は、この曲が涼介のオリジナルだという言葉を疑っていなかった。
歌詞が自分の境遇とあまりにも重なっていたからだ。
それだけに、別の疑問も浮かぶ。
事務所から干されたことは、姉以外の誰にも話していない。
涼介はどうして、自分の状況を知っているかのような歌を書けたのだろう。
(私がお金を気にしてる様子から、何か見抜いたのかな)
(それにしても、鋭すぎない?)
「そこまで勉強する余裕はありませんよ」
「気に入ったのなら、自由に使ってください」
涼介は時計へ目を向けた。
針は、すでにかなり進んでいる。
「高城君って、本当に優しいんだね」
「それじゃあ、この曲はありがたく受け取る」
「三曲のBGMは、土曜日までに渡せると思う」
早川静香は、今日千葉県まで足を運んだことを心から幸運に思った。
音楽制作を手伝うことで、いくら報酬を得られるかなど、もう大して気にならない。
この曲こそ、静香にとって何物にも代えがたい価値を持っていた。
アイドルを目指した頃の初心を、もう一度思い出させてくれたのだから。
(もう一度、マネージャーに相談してみよう)
(この曲も、きちんと録音したい)
今の早川静香には、一つの目標しかなかった。
高城涼介から贈られたこの曲を、自分の声で歌い上げることだ。
静香は涼介と細かな条件を話し合い、店員からペンを借りた。
ナプキンへ五線を引き、依頼された三曲の旋律を書き留めていく。
もちろん、報酬として渡された『No, Thank You!』も含まれていた。
旋律さえ完全に把握できれば、あとは涼介の希望に沿って簡単な編曲を施すだけでいい。
録音作業そのものには、それほど時間はかからない。
「では、俺はそろそろ失礼します」
涼介は手付金を支払うと、そのまま席を立った。
このあと、編集者との約束がある。
今すぐ出なければ、間に合わなくなる可能性が高かった。
「うん。連絡先を交換しておこう」
「録音が終わったら、すぐに知らせるから」
「東京に住んでるんですよね? 受け渡しは東京で会いましょう。俺もちょうど行く予定があります」
「分かった」
必要なことを伝え終えると、涼介はそれ以上留まらず、喫茶店を出ていった。
早川静香は、その背中を静かに見送る。
「本当に不思議な人」
「あんな曲をいくつも作っておいて、音楽には詳しくないなんて言うんだから」
◇
夜。
早川留美は高城涼介との食事を終えると、喫茶店へ戻り、妹と合流した。
「今日は上手くいったの、お姉ちゃん?」
帰り道で、静香が尋ねる。
もっとも、答えは姉の顔を見れば分かった。
かなり機嫌がいい。
「ええ。時雨沢先生が、ちょうど第四巻の原稿も持ってきてくださったの」
「質も落ちていないし、相変わらずとても面白かったわ」
「静香のほうは? 話し合いはどうだったの?」
「ふふっ。こっちも、かなり大きな収穫があったよ」
「そうなの?」
「うん。それに、もう決めた」
「もう一度、事務所と交渉してみる。私、やっぱり諦めたくない……」
早川静香は俯きながら、午後に涼介が歌っていた姿を思い浮かべていた。
「えっ? 交渉できる余地があるの?」
「前まではなかったよ。でも今は、ほんの少しだけ切り札ができたから」
「それとね、お姉ちゃん」
「勉強のほうも諦めたくない。転校の手続きを手伝ってくれる?」
「それは構わないけど、行きたい学校はもう決めているの?」
「慶應義塾女子高等学校へ合格できるくらいの成績なら、東京のほかの学校でも、転入を断られることはあまりないと思うけど」
姉の了承を得ると、早川静香は少しいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「学校なら、千葉第一高校へ行きたい」
「えっ? 遠すぎない?」




