第41話騎士王の栄光
水曜日、放課後。
涼介は急いで鞄を片づけると、学校を出て喫茶店へ向かった。
千葉駅は千葉第一高校からそれほど遠くない。
とはいえ、歩いて向かうとなると、三十分は少し厳しかった。
一方、その頃。
待ち合わせ先の喫茶店では、早川姉妹がすでに席についていた。
「相手から指定されたのは四時半なのよね。よりによって、こんなに時間がぎりぎりだなんて……間に合うかしら」
「お姉ちゃんも別の人と約束があるなら、先に行っていいよ」
昨日、早川留美は最近の出来事を妹へ簡単に話していた。
そのため静香も、姉がこのあと別の相手と会う予定だと知っている。
担当作家との面会は、もうすぐ正社員になる姉にとって大切なものだ。
「一人で大丈夫?」
早川留美は心配そうに尋ねた。
彼女からすれば、妹はまだ年若い。
一人で社会人を相手に交渉すれば、不利な条件を押しつけられるかもしれない。
「大丈夫。ここは治安もいいし」
静香ははっきりと答えた。
自分は、社会を何も知らない子供ではない。
芸能事務所でも、それなりに揉まれてきたつもりだった。
「そう。じゃあ、私は先にレストランへ行くわ」
「話が終わったら、またここへ迎えに来るから」
早川留美は次の約束が気になって仕方ないのか、上着を手に取ると喫茶店を出ていった。
◇
早川静香が店内の壁に掛けられた時計へ目を向ける。
針はすでに、四時二十五分を指していた。
ちょうどそのとき、喫茶店の扉が開き、少し息を切らした涼介が入ってきた。
後半はずっと小走りで来たのだ。
(窓際の席。黒髪で、毛先に青いメッシュ)
新垣瑠璃から聞いていた特徴を頼りに、涼介はすぐに早川静香を見つけた。
そのまま席へ近づいていく。
「お待たせしました。新垣瑠璃さんから紹介を受けた、高城涼介です」
涼介は礼儀正しく挨拶した。
「星見静香です。そんなにかしこまらなくていいよ、高城君」
早川静香も笑顔を返し、芸名を名乗った。
新垣瑠璃と付き合う際にも、この名前を使っている。
そう言いながら、静香は頬杖をつき、目の前の少年を観察した。
(普通の学生って感じね)
(制服を見る限り、高校生? 私と同い年くらいかな)
(顔立ちもかなり整ってる。普通に格好いいかも)
(瑠璃がわざわざ私へ頼んできた相手ってことは……まさか、付き合ってるの?)
静香は急に、新垣瑠璃と目の前の少年の関係が気になった。
てっきり、後輩が仕事先で知り合った人物を紹介してきたのだと思っていた。
まさか、これほど若いとは予想していない。
同時に、早川静香は少し落胆した。
現在、個人で音楽を制作するのは、ひどく贅沢な行為だ。
費用も非常に高い。
高校生が用意できる金額など、たかが知れている。
おそらく、本気の仕事ではなく、趣味の延長程度なのだろう。
顔を合わせただけで、静香の期待はほとんど失われていた。
挨拶を終えた涼介は席へ座り、店員を呼んでホットのアメリカンコーヒーを注文した。
「では星見さん、時間もありませんし、さっそく本題に入らせてください」
涼介は前置きもなく切り出した。
このあとには別の約束がある。
早川留美を長く待たせるわけにはいかなかった。
「十五曲ほど、ゲーム用のBGMを制作したいと思っています」
「料金はどのくらいになりますか?」
「じゅ……十五曲?」
早川静香は一瞬、固まった。
(冗談でしょう?)
「何か問題がありますか? かなり難しいでしょうか?」
「高城君、もしかして音楽制作について、ほとんど知識がない?」
「まあ、そうですね」
涼介が一人で使える時間には限りがある。
音楽制作まで一から学ぶ余裕はなかった。
そうでなければ、そもそも他人へ依頼などしていない。
早川静香は、やっぱり、と言いたげな表情を浮かべた。
「先に聞いてもいい?」
「その音楽を何に使うつもりなの?」
「もし、ただクラスメイトに自慢したいだけなら、お金を無駄にしないほうがいいと思う」
まったくの他人であれば、静香も余計な口出しはしなかっただろう。
しかし、知り合いから紹介された相手だ。
一言くらい忠告しておくべきだと思った。
静香が知る業界では、音楽を録音し、最終的にデジタルデータへ変換する場合、標準的な二分三十秒ほどの曲でも、現在の最安値は一曲八十万円ほどだ。
静香が担当すれば、確かにもう少し安くできる。
それでも、学生が気軽に支払える金額ではなかった。
「ゲームのBGMとして使います」
涼介は正直に答えた。
特別親しい相手でもない以上、隠す必要もない。
「ゲーム?」
「はい。ギャルゲームです」
「成人向けの内容がある、ああいうゲーム?」
「そうです」
肯定されると、早川静香が涼介を見る目は微妙なものへ変わった。
(見た目からは全然分からないけど……この人、オタクなの?)
静香は、オタクという人種をかなり嫌っていた。
何しろ、ステージの下からスカートの中を撮影するような変態も、その類いだったからだ。
しかし、目の前にいる涼介は、静香の記憶にある社会不適合者たちとはまるで違う。
性格も明るそうで、こちらを見る目にも不快なものはない。
(どうして、こんな人がああいうゲームを作るんだろう)
早川静香が自分を見つめたまま黙り込んでいるため、涼介は時計へ目を向けた。
すでに十分ほど経っている。
「すみません。今日は少し時間がなくて」
「おおよその見積もりだけでも、先に教えてもらえませんか?」
「あ……うん」
早川静香は我に返った。
「でも、その前に譜面を見せてもらわないと」
「譜面はありません」
「え?」
譜面がない。
では、自分に作曲までさせるつもりなのだろうか。
早川静香は多くの楽器を扱えるが、作曲はまったく別の技術だ。
自分には、そこまでの創作能力はなかった。
涼介は続けた。
「旋律なら、俺が口ずさめます。どれも比較的単純な曲で、使う楽器もこちらから指定します」
「たとえば、こんな感じです」
「これはヴァイオリンで演奏して、録音してほしいと思っています」
そう言うと、涼介は旋律を口ずさみ始めた。
曲は『Fate』の中でも特に有名な一曲。
――『騎士王の誇り』。
楽器がなく、鼻歌だけであっても、その曲が描く情景は十分に伝わった。
それほど完成された旋律だった。
早川静香は、頬杖をついていた手を無意識に下ろした。
身体が少しずつ前へ傾いていく。
涼介は譜面すら持っていない。
個人で作った曲なら、平凡で退屈な旋律だろうと考えていた。
しかし――。
(何、この胸に迫ってくるような悲しさは……)
(これをヴァイオリンで演奏するの?)
早川静香の頭の中で、涼介の鼻歌がヴァイオリンの音色へ置き換わっていく。
曲として完成したときの響きを、無意識に想像していた。
腕には、抑えきれないほどの鳥肌が立っている。
涼介の鼻歌は、一分ほど続いた。
歌い終えて顔を上げると、早川静香は呆然とした表情を浮かべていた。
「依頼したい曲の大半は、今のような雰囲気です」
「長さは三十秒から一分ほど。DRM形式のデータで納品してもらう場合、費用はいくらになりますか?」
しかし、早川静香は質問へすぐには答えなかった。
「この曲を、本当にそんな成人向けゲームへ使うつもりなの?」
「何か問題がありますか?」
涼介が聞き返す。
(もったいないに決まってるでしょう……)
早川静香は、そう言いかけて飲み込んだ。
制作した音楽をどう使うかは、金を払う依頼主が決めることだ。
「全部このくらいの長さと構成なら、録音費用は少し抑えられると思う」
「一曲三十万円」
「え?」
涼介は驚いた表情を浮かべた。
「何? 高いと思った?」
「これでも知り合い価格にしてるんだから、私より安く引き受ける人はいないと思うよ」
静香は指先で、青く染めた毛先を弄びながら、少し腹を立てたような顔をした。
提示した料金は、録音スタジオや楽器の使用料がほとんどだ。
自分の人件費など、ごく僅かしか含まれていない。
おそらく一曲あたり三千円程度だろう。
いくら何でも、完全な無償で働くわけにはいかない。
「違います。思っていたより、ずっと安かったので」
涼介は、イラストをデジタル化する費用に加え、音楽もかなり大きな支出になると予想していた。
しかし、静香の見積もりなら、十五曲をすべて制作しても四百五十万円にしかならない。
想定よりは、かなり安い。
「品質が心配なの?」
早川静香が尋ねる。
業界での自分の立場など、名も知られていない新人にすぎない。
それでも、単一の楽器で演奏する短い曲を録音するだけなら、誰が担当しても仕上がりに大差はないはずだ。
さらに上を求めるのであれば、プロの楽団へ依頼するしかない。
そうなれば、一曲ごとの料金は桁違いになる。
「いえ。星見さんが損をしないかと思っただけです」
「え?」
早川静香は目を瞬かせた。
そこで初めて、涼介が自分は瑠璃の顔を立てるため、特別に安くしていると思っているのだと気づいた。
確かにアイドルの時間は貴重だ。
もし事務所から干されていなければ、こんな依頼を受ける余裕などなかっただろう。
涼介はふいにため息をついた。
「ただ、今は俺も資金に余裕がありません」
「ひとまず三曲だけお願いすることはできますか?」
凌乃へ新しいパソコンを用意した費用を差し引くと、涼介の手元に残っている現金は百万円ほどしかない。
原稿をデジタル化する費用も、かなりの額になる。
今ある資金だけでは、とても足りなかった。
音楽については、ひとまず妥協するしかない。
体験版に入れるBGMが三曲だけでも、十分に形にはなるだろう。
「三曲だけとなると……」
早川静香は困ったように口ごもった。
曲数によって、一曲あたりの費用は大きく変わる。
録音スタジオの利用料やデジタル化にかかる経費も、数が減れば割高になるのだ。
軽々しく引き受ければ、自分が赤字になるかもしれない。
涼介は、彼女が言い淀む様子を見て、自分の提示した条件がぎりぎりなのだと察した。
「では、こうしませんか?」
「報酬の一部として、あなたに一曲提供します」
「え?」
涼介の提案に、早川静香は目を丸くした。
「俺のオリジナル曲だと保証します」
「あなたの名前で発表して、自由に使ってもらって構いません」




