第30話 Fate/stay night
その日の高城家の夕食は、どこか妙な空気に包まれていた。
両親は凌乃をこれでもかというほど褒めている。
一方、兄妹の間には目に見えない壁でもあるかのように、まったく会話がなかった。
美恵子は何度か場を取り持とうとしたものの、涼介の視線を受けて口を閉ざす。
高城勇夫も、それ以上は何も言わなかった。
彼は涼介のことを、心から信頼していたからだ。
夕食は、そのまま微妙な雰囲気の中で終わった。
高城凌乃は自分の部屋へ戻ると、ベッドの端に腰を下ろした。
「本当にひどいんだから。あんなにいい点を取ったのに、わざわざ文句を言うなんて!」
枕を抱き締めたまま、納得できないという表情で頬を膨らませる。
そして携帯電話を取り出し、我慢できずに親友へメッセージを送った。
新垣瑠璃:『えっ? お兄様に叱られたの?』
『そうよ。あいつ、満点を取るべきだったって言うの』
高城凌乃は、ひどく理不尽な気分だった。
みんながいい点数だと褒めてくれたのに、涼介からだけは認めてもらえない。
新垣瑠璃:『そうなんだ。でも、それってお兄様が凌乃に期待している証拠じゃない?』
『瑠璃、またあいつの味方をするの? (○`Д´○)』
凌乃から送られてきた顔文字を見て、携帯電話の向こうにいる新垣瑠璃は思わず笑ってしまった。
何とも可愛らしい反応だ。
新垣瑠璃:『でも、お兄様に教えてもらって、実際に成績は上がったでしょう?』
新垣瑠璃:『前にも言っていたじゃない。凌乃のために、かなり時間を使ってくれているって』
新垣瑠璃:『部屋にこもって勉強用の資料を作って、翌朝起きられなくなったこともあったんでしょう?』
親友から届いた返信を眺めているうちに、高城凌乃はそれ以上愚痴を言う気になれなくなった。
瑠璃の言うとおり、涼介は彼女の勉強を見るために、相当な時間と労力を費やしている。
新垣瑠璃:『お兄様は、本当に優しい人だよね』
新垣瑠璃:『凌乃の秘密を守りながら、見えないところでずっと頑張ってくれているんだもの』
『何よ。私だって、あいつの漫画を描いてあげてるし……』
高城凌乃はメール画面にそこまで打ち込んだが、少し考えたあと、すべて削除した。
確かに涼介は、漫画を共同制作する条件として、彼女の勉強を見ると言い出した。
しかし実際のところ、共同制作は互いに必要なものを補い合っているだけだ。
『カードキャプターさくら』が首位を獲得できたのも、物語そのものの魅力によるところが大きかったことを、凌乃自身よく分かっている。
作画力だけで、あれほどの評価を得ることはできなかっただろう。
新垣瑠璃:『それに、お兄様は凌乃の性格をよく分かっているんじゃないかな』
新垣瑠璃:『調子に乗らないように、あえて厳しいことを言ったんだと思うよ?』
高城凌乃:『╭(╯^╰)╮ふん。別に調子になんか乗ってないわよ! あいつがいつも私を馬鹿って言うのが悪いの!』
返信を見た新垣瑠璃は、口元に笑みを浮かべた。
どうやら親友の怒りも、ほとんど収まったらしい。
(ある意味、凌乃は本当に調子に乗りやすい子だからね)
新垣瑠璃は、親友の性格をよく理解していた。
少し結果を出して、周囲から褒められるだけで、すぐに自分を見失ってしまう。
目の前の成果に惑わされやすい、と言い換えてもいい。
だからこそ、『月魔女変身』の契約でも大きな損をすることになった。
最初の頃、凌乃はあの編集者のことを、瑠璃の前で何度も褒めていた。
優しくて、親切で、信頼できる人だと。
――コンコンコン。
部屋の外から、扉を叩く音が聞こえた。
高城凌乃は携帯電話を手にしたまま、親友との会話に夢中になっていた。
「勉強の時間だけど、今日はどうする?」
扉の向こうから、いつもと変わらない涼介の声が聞こえてくる。
「この人、来ちゃった……(;;;´Д`)」
高城凌乃は助けを求めるように、瑠璃へメッセージを送った。
新垣瑠璃からは、すぐに返信が返ってくる。
新垣瑠璃:『早く行ってきなよ。お兄様も悪気があって叱ったわけじゃないと思う』
新垣瑠璃:『凌乃のことを助けようとしてくれているんだから』
高城凌乃は枕を抱えたまま、いかにも気が進まないという様子でベッドを下りた。
扉を開けると、涼介が少し意外そうな顔をする。
「もう勉強はしないつもりかと思った」
「ふん!」
高城凌乃はつんと顔を背ける。
枕をベッドへ投げ戻すと、勢いよく机の前へ腰を下ろした。
涼介は余計なことを言わず、まとめ直した問題用紙を彼女の前へ置く。
「今日の答案で間違えていた部分に合わせて、内容を調整しておいた」
「分からないところがあったら聞け」
そう言うと、涼介は畳の上へ座った。
ネーム用のノートを取り出し、何事もなかったように作業を始める。
高城凌乃は、そんな兄の横顔を見つめた。
少しだけ迷ったあと、小さく声をかける。
「ねえ」
「ん?」
涼介が不思議そうに顔を上げた。
少女はすぐに視線を逸らし、独り言のように言う。
「次は、満点を取るから」
高城涼介は一瞬だけ目を見開いた。
やがて、その顔に穏やかな笑みが浮かぶ。
「満点を取れたら、そのときはちゃんと褒めてやるよ」
「ふん。あんたに褒めてもらいたいわけじゃないし!」
「いらないなら、褒めるのはやめておくか」
「ちっ。やっぱり、あんたって嫌な奴ね」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
◇
それからも、高城家では穏やかな日々が過ぎていった。
学校が始まってから、すでに半月近くが経っている。
涼介が計画的に進めていたネーム制作も、ようやく終わりを迎えた。
『カードキャプターさくら』の物語はほぼ完成し、原稿はそのまま凌乃へ渡された。
そして、『キノの旅』も正式な発売日を迎えていた。
「時雨沢先生、初週の売上はなかなか好調でしたよ。二千セットです」
早川留美から、喜びの連絡が届いた。
「爆発的なヒットとまでは言えませんが、社内では増刷も決まりました」
「そうですか。いろいろとありがとうございます」
高城涼介は落ち着いた声で答える。
「第四巻の原稿は、今月末までに提出します」
「もうですか? さすが時雨沢先生ですね」
「原稿料と印税も、近日中に振り込まれる予定です。先生のほうでもご確認ください」
「金額は、およそ五十万円になると思います」
(五十万円か)
電話を切ったあと、涼介は頭の中で簡単に計算した。
単行本の印税は、一冊につき約六十円。
『キノの旅』は三冊一組なので、一セットあたりの印税は百八十円となる。
二千セットなら、印税だけで三十六万円だ。
このまま大きな問題が起こらなければ、『キノの旅』は発売から一年で一万セットを超えることも難しくないだろう。
その場合、印税収入の総額は二百万円前後になる。
(思っていたより少ないな)
「凌乃と組むことにした判断は、間違っていなかった」
「この時代は、ライトノベルより漫画のほうが、やはり金になるのが早い」
もっとも、『カードキャプターさくら』は、まだ収益を生み出せる段階ではない。
実際に結果が出るまで、少なくともあと一か月ほどは待つ必要があるだろう。
涼介は、現在自由に使える資金を整理した。
『キノの旅』で獲得した新人賞金賞の賞金が五十万円。
印税と連載原稿料が五十万円。
さらに、『カードキャプターさくら』の月例賞首位の賞金から、自分の取り分が五十万円。
携帯電話の購入費などを差し引いても、手元にはすでに百三十万円ほどの貯金がある。
今後も継続的に収入は入ってくる。
『カードキャプターさくら』の連載が始まれば、一時的ではあるものの、資金には余裕が生まれるはずだ。
「そろそろ、あの企画を動かしてもよさそうだな」
「時期としても、ちょうどいい」
涼介は、鳳凰院の番号へメッセージを送った。
彼は鳳凰院と共同で、一本のギャルゲームを開発しようと考えている。
現在の資金があれば、ひとまず企画を始動させることはできるだろう。
高城涼介は、高校を卒業したあと、そのまま社会へ出るつもりだった。
そして、自らアニメーション会社を立ち上げる。
記憶に残る別世界の素晴らしい作品を、この世界にも生み出すために。
つまり、残された三年間で、莫大な元手を築かなければならない。
漫画やライトノベルから得られる収益は、個人が不自由なく暮らすには十分かもしれない。
しかし、アニメーション業界へ参入するには、あまりにも少なすぎる。
一般的なテレビアニメであっても、一話あたりの制作費は最低でも一千万円規模になる。
その程度のことは、すでに調べてあった。
個人でいくら創作活動を続けても、それだけでは到底足りない。
「出版社に頼るだけでは、実現できない」
島川映画には、アニメを制作するだけの力がある。
しかし、作品がアニメ化されるかどうかも、その完成度が保証されるかどうかも分からない。
涼介自身が、制作に対して大きな発言権を持てるとも思えなかった。
それなら、自分の力でやるしかない。
元手を作る方法として、創作活動以外に彼が考えついた最良の選択肢が、現在人気を集めているギャルゲームだった。
記憶の中では、この種のアドベンチャーゲームは九十年代に大きく流行し、二十一世紀に入ってからも長く人気を保ち続けた。
そこから、数多くの人気IPが誕生している。
アニメ制作に比べれば、良質なギャルゲーム一本の開発費は遥かに安い。
シナリオ制作費を除けば、テレビアニメ一話分と同程度の予算で済む可能性もある。
やがて、ネット上の知人である鳳凰院から返信が届いた。
『問題ないよ。Mは今週の金曜日から三日間開催される』
『来るなら事前に連絡してくれれば、関係者用の入口から案内するよ』
「それなら、日曜日にしよう」
涼介は、会う日時を返信した。
最終日なら、来場者も多少は少なくなっているだろう。
イベント終了のタイミングを見計らって、ゲーム開発について詳しく相談するつもりだった。
この構想については、以前からインターネットを通じて鳳凰院へ話している。
鳳凰院も否定的ではなかった。
ただし、まずは直接シナリオを確認したいこと。
さらに、具体的な協力方法についても話し合う必要があると返されていた。
涼介は机の前へ座り、真新しいノートを開いた。
「日曜日まで、あと五日か」
「初稿を一本仕上げるくらいなら、難しくないな」
ペンを手に取り、ノートの表紙へ英語のタイトルを書き込む。
――『Fate/stay night』。




