第31話 鳳凰院
一月某日、日曜日。
涼介が目を覚まし、一階へ下りた頃には、すでに九時を回っていた。
ここ数日はシナリオ制作に追われ、寝る時間が遅くなっている。
どうにか設定部分をまとめ上げ、メインストーリーについても大まかな流れだけは形にしていた。
ダイニングへやってきた涼介は、周囲を見回す。
「あら、凌乃を探しているの?」
美恵子が朝食を載せた皿を、彼の前へ置いた。
目玉焼きとトースト。
高城家では、すっかり定番になっている朝食だ。
「あの子なら、今日はずいぶん早く出かけたわよ。七時頃だったかしら」
「そうですか」
「二人とも、本当に仲がよくなったわね。今朝も凌乃があなたの話をしていたのよ」
美恵子は嬉しそうに微笑んだ。
再婚によって生まれた家族が、何の問題もなく打ち解けるのは簡単なことではない。
だからこそ、兄妹の距離が縮まっているように見えることが、母親として心から嬉しいのだろう。
「そうですか?」
涼介には、あまり実感がなかった。
顔を合わせるたびに張り合っているような関係を、仲がいいと言っていいのだろうか。
もっとも、最近の凌乃が少しずつ変わってきたのは確かだ。
少なくとも、両親の前で涼介を皮肉ることはなくなっている。
それだけでも、いい傾向と言えるだろう。
(勉強を教えているうちに、ようやく先生としての威厳が出てきたのか?)
「それより、凌乃ったら、ここ二日ほど朝早く出て、帰りも遅いのよ」
美恵子は食卓の前へ腰を下ろし、頬杖をついた。
その声音には、わずかな心配と好奇心が混じっている。
「出かけるときの格好も、少し変なのよね」
「何かあったんですか?」
涼介は朝食へ手を伸ばしながら、何気なく尋ねた。
「あの子が、あんなに肌を隠して出かけるのは初めて見たわ」
「マスクにサングラスまで着けていたのよ? 今日は曇っているのに」
涼介は思わず苦笑した。
(母さん、そこまで言うなら、いっそ泥棒みたいな格好だったって言えばいいのに)
おそらく、スタジオへ向かう途中で同級生に見られることを警戒しているのだろう。
たとえ見られたところで、建物へ入る瞬間さえ見られなければ、大した問題にはならないと思うのだが。
「心配しなくても、凌乃なら自分の身くらい守れますよ」
涼介は母親を安心させるように言い、そのまま朝食に集中した。
ほどなくして、皿の上はきれいに空になる。
「母さん、今日は俺も出かけます」
「帰りは少し遅くなると思うので、夕食は俺の分を用意しなくて大丈夫です」
「分かったわ。気をつけて行ってらっしゃい」
◇
涼介が家を出た頃には、十時近くになっていた。
「この距離なら、さすがにJRを使うしかないか」
今日は鳳凰院と、Mの会場で会う約束をしている。
会場は東京国際展示場。
この種の同人イベントは年に二回開催され、その多くがこの場所を会場として使っていた。
東京都江東区にあり、千葉からは決して近くない。
最短でも、片道五十分ほどはかかる。
JR京葉線に乗り、新木場駅で下車。
そこからりんかい線へ乗り換え、東展示棟へ到着した頃には、すでに十一時になっていた。
駅から外へ出た涼介は、わずかに汗ばんだ額を拭う。
「人が多すぎるだろ……」
視界を埋め尽くすほどの人、人、人。
来場者の大半は十五歳から三十歳ほどの男性で、女性は少数だった。
その女性たちも、どちらかといえば服装には無頓着な印象を受ける。
高城涼介は人の流れへ紛れ込み、そのまま関係者専用通路へ向かった。
当然のように、入口で警備員に止められる。
観客用入口へ視線を向けると、先の見えないほど長い列ができていた。
涼介は思わず舌を巻く。
この時代のオタクが同人創作へ注ぐ情熱は、恐ろしいほどだ。
話によれば、夜明け前から並び始めた者もいるらしい。
それでも、今なお会場へ入れずに待っている人間が、これほど残っている。
涼介は携帯電話を取り出し、鳳凰院へメッセージを送った。
すぐに返事が届く。
『少し待って。すぐ行く』
それから十数分ほど経った頃。
関係者用通路の向こうから、一人の女性が歩いてきた。
かなりの長身だった。
チェック柄のシャツを着ており、顔には目元がほとんど見えないほど分厚い眼鏡を掛けている。
淡い青色の長い巻き髪は、後頭部で高く束ねられていた。
女性は小走りで入口までやってくる。
「時雨沢?」
涼介を上から下まで眺め、確認するように尋ねた。
涼介が頷くと、女性は警備員へ関係者証を見せる。
それだけで、涼介はあっさりと会場内へ通された。
「鳳凰院は?」
女性のあとについて会場内を歩きながら、涼介は尋ねた。
てっきり、鳳凰院本人が迎えに来ると思っていたのだ。
すると、長身の女性は口元をつり上げ、振り返った。
「何を言ってるの、時雨沢?」
「オフラインになった途端、私のことが分からなくなった?」
「え?」
高城涼介は、すぐに言葉の意味を理解できなかった。
「私が鳳凰院だよ」
涼介はこれまで、鳳凰院へ直接性別を尋ねたことがない。
プログラマーという職業柄、無意識に男性だと思い込んでいた。
「驚いた?」
鳳凰院は腹を抱え、楽しそうに笑った。
「そうですね」
「毎日のようにギャルゲームとフラグの話ばかりしているプログラマーが、女性だとは思いませんでした」
「趣味は趣味だよ」
鳳凰院は悪びれる様子もなく言う。
「性的な好みまで女性ってわけじゃないから。時雨沢みたいな男には、普通に興味があるよ」
あまりにも堂々とした発言だった。
「それはどういう意味ですか?」
「告白ですか?」
涼介は笑った。
遠慮のない冗談を聞いていると、ネット上で話していた頃の感覚が戻ってくる。
「そうそう。私はいつだって直球勝負だからね」
「女に一目惚れされた気分はどう? 最高でしょ?」
「丁重にお断りします」
「ええっ、いきなり振るの?」
「傷つくなあ」
鳳凰院に案内され、涼介は関係者用の入場通路を抜けた。
その先には、巨大な会場が広がっている。
外の混雑も相当なものだったが、中も負けてはいない。
数え切れないほどのブースが整然と並び、辺り一面が熱気に包まれていた。
中でも、涼介にもっとも強い衝撃を与えたのは、ほぼすべてのブースに飾られているポスターだった。
その大半が、十八禁作品である。
「いい反応するね」
涼介の驚いた顔を見た鳳凰院が、意地悪そうに口元を歪めた。
「Mに来るのは初めて?」
「まさか、童貞だったりする?」
「……」
涼介は、長身の女性から投げかけられた挑発を無視した。
「この程度も受け入れられないなら、ギャルゲームを作ろうなんて考えないほうがいいよ」
鳳凰院は少し真面目な口調になる。
「今の市場はエロ要素の比重がかなり大きい」
「それに、いちばん重要なのは原画家の実力。そこが最大の競争力になるから」
「問題ありません。覚悟はできています」
「そう?」
鳳凰院はからかうように笑い、それ以上は何も言わなかった。
やがて、自分のブースへ涼介を案内する。
「一人だけですか?」
「今日は最終日だからね。もう売上も伸びないし、ほかのみんなは先に撤収したよ」
「私だけ留守番」
そう話しながら、鳳凰院はブース上に積まれたパッケージ版のゲームを整理していた。
数はざっと見ても百本以上ある。
(強がりだろうな)
涼介は周囲のブースを見回した。
これほど大量に在庫を残している場所は、ほかにはほとんどない。
おそらく仲間たちは売れ行きの悪さに耐えきれず、鳳凰院一人を残して先に帰ったのだろう。
涼介はあえて指摘せず、ブースに置かれていたゲームを一つ手に取った。
パッケージには、大きな文字でタイトルが記されている。
――『熱血青春/激烈バトル』。
一見すると格闘ゲームのような題名だ。
しかし背景には、かなり露出度の高い衣装を着た女性キャラクターたちが描かれていた。
しかも、どのキャラクターも服が破れかけている。
「あなたの作品ですか?」
「売りは服が破れる演出?」
涼介から見れば、パッケージのイラストだけでも、かなり粗い出来だった。
原画家の技量が足りず、隠しているからこそ想像を掻き立てるような色気を表現できていない。
題材は格闘。
しかし実際のゲーム内容は格闘ゲームではなく、ごく普通のギャルゲームらしい。
おそらくシナリオにも、それほど力を入れていないのだろう。
その辺りも、売上が伸びなかった理由の一つに違いない。
「意外と分かってるね」
鳳凰院は涼介をブースの裏側へ手招きした。
そして、専用のベストを一着差し出す。
「これを着て」
「せっかく来たんだから、今日だけ臨時店員として働いてもらうよ」
「残りはこれだけ。売れるだけ売ろう」
「今日は最終日なんだから」
鳳凰院の声から、先ほどまでの勢いが少しだけ失われていた。
表面上は相変わらず胸を張っている。
それでも涼介には、彼女が落ち込んでいることが分かった。
「それでは、店長。よろしくお願いします」
高城涼介はそれ以上何も言わず、ベストを上着の上から羽織った。
そのままブースの前へ立とうとした――そのとき。
背後から、聞き覚えのある声がした。
「すみません。このゲームはいくらですか?」
涼介の頭の中で、何かが一気に張り詰めた。
わずかに顔を横へ向け、声のしたほうを見る。
そこには、金髪の少女が立っていた。
サングラスとマスクで顔を隠し、ブースに置かれたパッケージ版のゲームを手に取っている。
そして、それを涼介へ見せるように掲げていた。




