第28話 作者の正体
「ようやく、この作品の番か。ずいぶん待たされたな」
「どの編集者が見つけてきたんだろう。相当見る目があるぞ」
「春の新学期号から連載が始まってもおかしくない。十分その実力がある作品だ」
会議室のあちこちから、ひそひそと声が上がる。
そして、一人、また一人と手が挙がっていった。
「四十三……四十五、四十八……」
伊織刹那と、その近くに座る数人の若手編集者を除き、ほとんど全員が手を挙げていた。
周囲から視線を向けられる中、山崎編集長までがゆっくりと右手を上げる。
「四十八票……ここまで入るのか?」
野村秀夫は、『カードキャプターさくら』が選ばれること自体は確信していた。
しかし、これほどの大差で圧勝するとは思っていなかった。
実に九割近い編集者が票を投じている。
一年を通して行われる月例賞でも、滅多に見られないほどの高得票だった。
「ふっ。さっきの『魔法アイドルゆみ』で、誰も手を挙げなかった理由が分かっただろ」
斎藤律は上機嫌に眉を上げた。
「大半の編集者は、どうせ落ちる作品に貴重な票を使いたくなかったんだ」
「裏を返せば、それだけ『カードキャプターさくら』の評価が高かったということだ」
「山崎のジジイが口を挟まなければ、あの銀賞作品は一桁得票で終わっていたかもしれないな」
「確かに……」
野村秀夫は頷き、悔しそうに斎藤を睨んだ。
「本当に羨ましいぞ、お前」
一人だけが面白いと感じたのなら、単なる思い込みかもしれない。
だが、これだけ多くの編集者が票を投じた。
それは、この作品が本当に大ヒットする可能性を秘めているということだ。
月例賞で首位を取った作品が、その後大きく外す例はほとんどない。
作者自身がよほど致命的な失敗をしない限りは。
「それにしても、編集長まで票を入れるとは思わなかったな」
野村は小声で続ける。
「『魔法アイドルゆみ』に投票した以上、こっちには入れないと思ってた」
「入れないわけにはいかないさ」
斎藤律は鼻で笑った。
「これだけ多くの担当編集者が評価している作品だ」
「編集長だけが票を入れなければ、今度は自分の見る目を疑われることになる」
「なるほどな」
野村秀夫は納得したように頷いた。
◇
投票も、いよいよ終盤へ入った。
最終的な順位は、すでにほぼ固まっている。
『カードキャプターさくら』が四十八票で首位。
その下に『疾風戦士』が続き、三位には北条の『シティーXハンター』が入った。
最終的に、異なるジャンルから七本の作品が選出された。
「それでは、今回の月例賞選考は以上とします」
「選出作品の担当編集者は、それぞれ作者情報を提出し、掲載部門の担当者と連携して今号の作業を進めてください」
編集長たちが短く話し合ったあと、その場で正式な決定が下された。
「承知しました」
「分かりました」
六人の編集者が順番に席を立ち、会議室前方へ向かう。
黒板に、それぞれの作品の作者名を書き込んでいった。
最後の一人が席へ戻る。
すると、中野副編集長は眉をひそめ、会議室全体を見渡した。
「『カードキャプターさくら』の担当編集者は誰ですか?」
黒板には、一作品だけ作者情報が空欄のまま残されていた。
伊織刹那は、机の下で両手を強く握りしめた。
『魔法アイドルゆみ』が敗れたことで、機嫌は最悪だった。
ここまで来た以上、原作者にもう一度内容を練り直させ、次回の月例賞へ回すしかない。
(運が悪かったわ)
(こんな作品と同じ回にぶつかるなんて……いったい、どこから現れた作家なの?)
その一方で、わずかに安堵している自分もいた。
もし自分が『月魔女変身』を担当していた時期に、こんな作品が現れていたら。
かなりの読者を奪われていたに違いない。
正面から競い合えるだけの力がある。
下手をすれば、『月魔女変身』以上かもしれなかった。
(でも、今困るのは斎藤のほうよ)
(『月魔女変身』の最終回が載った直後に、この作品が始まれば、話題は一気に奪われるはず)
そう自分へ言い聞かせると、伊織刹那の気分はわずかに持ち直した。
――ガタン。
椅子を引く音が響き、彼女は現実へ引き戻された。
「斎藤編集者、何をしているんですか?」
「月例会はまだ終わっていませんよ」
反射的に責める声を上げる。
斎藤律が、自分へ向かって笑っていたからだ。
(『カードキャプターさくら』が一位になって、苛立っているの?)
(でも、どうしてあんな顔をしているのよ。普通なら不愉快そうにするはずでしょう?)
「伊織さん、まだ寝ぼけているんですか?」
斎藤律は嘲るように笑った。
そして席を立ち、会議室の前方へゆっくり歩き始める。
「中野副編集長が呼んでいるのは、私でしょう」
「席を立つのは当然ではありませんか」
「何……?」
伊織刹那は目を見開いた。
次の瞬間、頭の中に恐ろしい考えが浮かぶ。
――この作品、作画の癖が高城留美子に似ているな。
――偶然じゃないのか?
先ほど原稿を読んでいた編集者たちの会話が、耳の奥で蘇った。
伊織刹那は信じられない思いで、黒板の前に立つ斎藤律を見つめる。
斎藤は、空欄になっていた作者欄へ迷いなく文字を書き込んだ。
――作者:高城留美子/LAMP。
「だから、先ほどお礼を言ったんですよ」
斎藤律は振り返り、笑みを浮かべた。
「これほど優秀な漫画家を、私へ引き渡してくださってありがとうございました。伊織編集者」
「……」
「本当に高城留美子先生の作品だったのか」
「だから言っただろう。指の描き方に癖が残っていたって」
「それにしても、絵柄がまるで違うな」
「ここまで作風を切り替えられる漫画家は、そう多くないぞ。やはり天才と呼ばれるだけのことはある」
周囲の編集者たちから次々と上がる称賛が、押し寄せる波のように伊織刹那を呑み込んでいく。
(この『カードキャプターさくら』を、あの小娘が描いた?)
(そんなはずがない)
(何の構想もないって言っていたじゃない……!)
「それに、また共同制作なのか」
「斎藤編集者は、本当に人材を見つけるのが上手いな」
「このLAMPという名前は、業界では聞いたことがないが」
「いえ、今回は私の手柄ではありませんよ」
斎藤律は正直に答えた。
「まだ、私が何かをした段階ですらない」
「『月魔女変身』を引き継いだ際、高城先生が一緒に新作として提出してくださっただけです」
この作品が見つかったことと、斎藤律の発掘能力は何の関係もない。
作品の完成度は、すべて作者たち自身の力によるものだ。
「LAMP先生が原作を担当し、高城先生が作画を担当する」
「二人の長所が噛み合ったからこそ、ここまで完成度の高い作品になったのでしょう」
「おめでとう、斎藤編集者!」
「これは本当に大物になるかもしれないぞ」
――ガタン!
編集者たちが次々と斎藤律へ祝いの言葉をかけている最中、伊織刹那が勢いよく立ち上がった。
斎藤律を激しく睨みつける。
だが、何も言わないまま会議室を出ていった。
彼女の近くに座っていた数人の若手編集者も、針のむしろに座らされているような顔をしていた。
あとを追おうと腰を浮かせかける。
しかし、上座にいる山崎編集長が眉をひそめたのを見て、誰も動けなくなった。
会議室の空気が、一瞬で冷え込む。
「席へ戻りなさい」
山崎編集長は斎藤律を冷たく睨み、指先で会議机を叩いた。
それだけで、先ほどまで騒いでいた編集者たちは一斉に口を閉ざす。
斎藤律はなおも笑みを浮かべたまま、悠々と自分の席へ戻った。
「尻尾を巻いて逃げたな」
野村秀夫がすぐに身を寄せ、からかうように囁いた。
価値がないと切り捨てた漫画家が、以前よりも優れた新作を持って戻ってきた。
これほど痛快な意趣返しもない。
「負け犬が逃げただけだ」
斎藤律は興味なさそうに言った。
最初から、伊織刹那など目標にすらしていない。
優秀な編集者の視線は、そのまま上座の山崎編集長へ向けられた。
山崎は机の上で両手を組み、感情の読めない表情をしている。
(年明けの昇進人事は、この作品に懸かっている)
(これでもまだ、俺を押さえつけられるものならやってみろ)
中野副編集長は、この小さな騒動には触れなかった。
手短に閉会を宣言する。
編集者たちは次々と席を立ち、会議室をあとにした。
月例賞の選考会が終わってから、二時間ほどが経った頃。
涼介のもとへ、斎藤律から電話がかかってきた。
「月例賞の首位ですか?」
「はい。『月刊Ae』への掲載が決まりました。賞金は百万円で、できるだけ早くお二人へ支払われる予定です」
「分かりました」
「それと、高城先生」
斎藤律は、そのまま話を続ける。
「できるだけ早く、『カードキャプターさくら』の連載企画を提出しようと考えています」
「特に問題がなければ、年明けの連載会議で承認されるはずです。予定どおり進めば、二月には島川漫画の本誌へ掲載できるでしょう」
「その件については、斎藤編集者にすべてお任せしますよ」
涼介は電話越しに笑った。
「僕たちは、あなたを信頼していますから」
「連載の準備についても心配はいりません。ネームはすでに半分以上できています」
「次にお会いするときには、お見せできると思います」
「ありがとうございます!」
電話の向こうから、斎藤律の心からの礼が返ってきた。
一度、島川の編集者に裏切られた経験がある。
それでもなお、自分を信頼して任せてくれる。
それは決して当たり前のことではなかった。
「必ず、お二人の作品に責任を持ちます」
「それでは、今日はこのあたりで。『カードキャプターさくら』の大ヒットを願っています!」
通話を終えた涼介は、携帯電話を机の脇へ放り出した。
部屋では、凌乃が彼の椅子を占領していた。
白く細い脚を組み、機嫌よさそうにつま先を揺らしている。
先ほどの電話はスピーカーにしていたため、会話の内容はすべて聞こえていた。
斎藤律はわざわざ、前任担当だった伊織刹那の反応まで教えてくれた。
涼介から見ても、凌乃は相当気分がよさそうだった。
「何よ。こんなにあっさり一位を取れるなんて」
「私もその場にいたかったわ。あの伊織編集者、この前は本当に腹が立ったんだから」
凌乃が一人でぶつぶつ言っているのを無視し、涼介は机へ近づいた。
そして、彼女がどこまで問題を解いたのか確認する。
「これからは、かなり忙しくなる」
「休みはあと一週間あるから、その間にネームをできるだけ進めるつもりだ。しばらくスタジオにも行かない」
「そのぶん、お前の勉強を見ることに集中する」
高城凌乃は、あからさまに不満そうに鼻を鳴らした。
「何よ。あんたが用意した問題なんて、もう簡単に解けるようになったんだけど?」
「大したことないじゃない」
少女はすっかり自信をつけていた。
最初の数日こそ苦戦していたものの、涼介による勉強の指導は、二週間ほどで目に見える成果を上げていた。
最近では、予定より早く課題を終えることも多い。
涼介も、その点については満足している。
想像していたほど深刻な状態ではなかった。
「得意げになるのは、まだ早いんじゃないか?」
涼介はそう言うと、横の引き出しを開けた。
そこから、あらかじめ用意していた新しい手書きの問題集を取り出し、机の上へ置く。
「今やっているのは、お前の学力に合わせた段階別の指導だ」
「まだ第一段階を終えただけだぞ」
「学年で言えば、ようやく中学一年の範囲を抜けたところだ。先は長い」
「えっ?」
凌乃は新しい問題集を開き、すぐに顔を引きつらせた。
「ちょっと待って。何これ、全然分からないんだけど!」
「だから、お前は頭が悪いって言ってるんだ」
「中学二年の内容なのに」
「誰に向かって馬鹿って言ってるのよ!」




